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鯨NO.3

 戦前の日本では、図南丸、第二図南丸、第三図南丸、日新丸、第二日新丸、極洋丸の6隻が捕鯨母船として南氷洋で、一部北洋で使用されていた。
 アジア歴史資料センターの
 「南方還送燃料ノ処理ニ関スル件」
を見ると、戦中、タンカーが石油をいつ、どんな種類を、どれだけの量を、何処に運んできたか分る。昭和13年建造された極洋捕鯨の「極洋丸」(総トン数17,548トン、主機ディーゼル5,000馬力、速力15ノット、日新丸同型船)1航海で19,000トンの原油を還送していた。それに対し戦前、艦隊給油艦として整備した1万トン級高速タンカー、12,000トン位の原油が運べた。その内の1隻、健洋丸(国洋汽船、総トン数10,023トン、主機ディーゼル11,033馬力、速力20.2ノット、昭和14年建造)では一航海に13,800klの南方原油を還送した記録がある。
 戦前は外貨獲得の為、鯨油を生産し、不足してきた食糧を補うため、蛋白源としての鯨肉を供給。シーズンオフにはカリフォルニアなどから石油を輸入して頑張っていた捕鯨母船、戦中、表舞台に立つことはなかったが、地味に大活躍していたのである。
 そういえば、今でも疑問に思っているのだが、石油を積んでいたタンカーで鯨油、ヤシ油、大豆油を運んだりしているのだが、食用にするのに不都合はないのだろうか?ぜひ、御教示していただきたいものである。

 引用・参考文献
 「極洋捕鯨30年史」昭和43年5月1日発行
 「日本・油槽船列伝」松井 邦夫 成山堂書店 
  平成7年1月18日発行
 「日本水産50年史」昭和36年発行

鯨NO.2

 戦前、南氷洋捕鯨で収穫された鯨油は、ほとんどドイツに輸出されて
いた。ドイツは戦前、世界最大の鯨油消費国で年間需要20万トンと称
され、昭和13~14年頃は自国の捕鯨船団拡充により、7~8万トン
は自給出来たが、消費の半分以上は輸入していた。これらは、マーガリ
ンになった。昭和13~14年の南氷洋鯨油世界生産量は463,680トン
日本の生産量は77,448トン、輸出量は69,114トンだった。
 ドイツ仮装巡洋艦「ペンギン(PINGUIN)」が南氷洋でノルウェーの捕鯨船団を収穫した鯨油ごと捕獲しドイツに還送したのも、ただマーガリンを食べたかったからだ。

 引用・参考文献
 「三菱商事社史 上巻」 昭和61年発行

 鯨と言えば「鯨ベーコン」が美味しい。最後に食べたのは去年の今頃
大阪の鮨屋だった。たまにデパートで見かけても余りに高価で手が出な
い。鯨ベーコンとは畝須(ヒゲ鯨の畝《うね、腹皮で畝状になっている部
分》の内側に須の子と称する比較的固い肉が連なったままのもの)を
加工した物である。現在、南氷洋で行われている調査捕鯨で捕獲しているミンク鯨はヒゲ鯨なので、おそらくこれから作られるのであろう。今、沿岸捕鯨で極わずかに捕獲されているつち鯨や、鯨肉と称して売られているイルカは歯鯨なのでベーコンは作れないのであろうか?
 なぜか自分でも良くわからないが、昔から捕鯨には興味があり、最近、下記の本を読んで見た。 
 「日本沿岸捕鯨の興亡」近藤 勲
  2001年6月13日発行 山洋社
 「北洋捕鯨見聞記」楠瀬 和男著 宮脇 弘雄編
  平成12年6月1日発行 水産社
この中で「日本沿岸捕鯨の興亡」は特に興味深かった。
 ①明治41年鯨赤肉を原料とした鯨大和煮缶詰を軍に納入する目的   で、舞鶴海軍病院試験所に試験を依頼した所、試験成績良好で以後  も製造。
 ②第二次大戦に伴って、血塊と血液は熱処理の上乾燥した血粉でベー  クライト代用品が微量作られた。(牛や豚だけではなかった。)
 ③旧海軍の一等輸送艦、特別輸送艦十九号、十三号、十六号の小笠原  沖での捕鯨母船としての活動。
など書いてあった。

 参考文献
 「写真集 日本の小艦艇」光人社 昭和50年11月10日印刷
 「北の捕鯨記」板橋 守邦 
  1989年5月29日発行 北海道新聞社
 「鯨組の末裔たち 鯨を捕る」須田 慎太郎
  1995年4月15日発行 翔泳社

石狩市民図書館

 全身の筋肉痛に鞭打ち、焼肉バイキングに行く。ついでに北海道では
優秀と噂に聞く、石狩市民図書館を見学。一巡しただけだが、地方都市
としてはかなりイイ感じである。何よりも「丸」を雑誌コーナーに並べているのは始めて見た。
 本日の戦果
「ロンメル戦記」リデル・ハート編 小城 正訳 読売新聞社
「空母艦攻隊」「蒼空の咆哮」滝澤 聖峰

新年度

 読み人おらずのこの日記、模様替えをして本当の日記(週記、月記)にしようと思う。下らない話に辟易していた通りすがりの方々安心してください。日記代わりに使われていた「すすむちゃん」ごめんなさい。
 本日、イラクで戦う兵士達に習い、雪割もとい塹壕掘りを行った。腰位の高さで80mは掘ったと思う。右ひじは動かなくなり、腰は痛くて堪らない。必死の思いで車を運転して帰宅した。当然、全身湿布薬を貼りまくった。旧軍、スコップ、つるはしだけで塹壕を掘ったのである。あ~あ、なんと素晴らしい事か。

セレニューム、2

 たまに本の整理をすると、捜していた本が目の前にあったりする。
前回書いたセレニューム、大事な話が見つかった。
 書かれた方は日本鉱業の 元取締役 木俣泰清氏である。

 大正二年京大を出て直ぐに日立の電錬係に勤めた。さて現場に配属
されても責任ある一定の仕事は与えらられず、勝手に仕事を見付ける
様な仕組になっていった。現行操業を一と通り見覚えると待遇の手前
上遊んでも居られず、自ら工夫して操業法を改良するとか新な仕事を
計画するとかして各自の能力に応じて責任を果たさなければならん雰
囲気になっていた。1日、見張内(現場事務所)で空想に耽っている
とフト目の前の南蛮炉(分銀炉の滓を処理する炉)から出る目まいの
する様な一種特有の臭の煉瓦色の排煙を見た。学生時代に取り扱った
セレンを想い出した。現在は珍しくないが当時セレンを知っている人
は殆どない。南蛮炉排煙からヒントを得た動機は私共の出た金相教室
では卒業論文に今迄発表されていない合金の状態図を製作する例にな
っていた。セレン、テルル等珍しい元素を相手にした。二元合金を作
った。両方共稀有元素で内地産はなく高価な舶来品であるから実験後
夫々元の成分に分解回収する迄が、学生の仕事である。こんな関係で
セレン、テルルには格別の親しみがあった。南蛮炉の排煙にセレンが
混じってるらしいので遡って調べたら、炉の裏に煉瓦色の湿った泥が
沢山堆積してあった。硫化セレンは吸湿性で還元すると赤色のセレン
になることを知っていたから之を原料にしてセレンの回収を試み、予
想通り数キロの金属セレンを採収した。始めての生産記念として京大
化学教室へ若干寄贈した。之が日本産セレンのNO1である。Seを
英語ではセレニューム、独乙ではゼーレンと云う。日立では中間を取
てセレンとした。今日でもセレンで通用している。
 セレンの源泉を調べたら銅電解スライムに多量あり、更に鉱石に遡
つて調べたら殆んど総ての硫化鉱石に微量ながら含まれてることが判
つた。
 セレンの価格は当時工業用はなく標本用価格表には結晶純セレニュ
ーム一瓦金四円(金一匁五円)、金より遙に高価な貴金属であった。
実際取引はない。用途はガラス添加剤(青味を消すために使う)赤色
ガラス製造、ホーロー顔料火赤の製造程度でまだ光電管、整流器等の
用途はなく、用途開拓販路拡張に相当苦労した。結局需要なく屋已む
なく見本程度で一時生産中止した。
 其の後整流器方面の需要が起り、石塚氏並に寺崎氏時代に両氏の努
力でスライムから直接本格的に採収を始め品質優良な品が出来、今日
重要副産物の一つとなった。

 「回顧録(創業五十周年記念社報特別号)」日本鉱業株式会社
  昭和三十一年三月一日発行
  内「新入社員と副産物」木俣泰清氏より抜粋

セレニューム

    セレン selenium
 セレニウムともいう。周期表第ⅥB族に属する酸素族元素の一つ。単体で産出することはほとんどなく、銅、銀、金の硫化物鉱石中にセレン化合物として微量(数ppm~数十ppm)含まれ、これら金属製錬の副産物として得られる。日本では銅製錬の際の副産物として回収される。
 ガラス工業での脱色剤(ガラスに鉄の酸化物が入ると緑色になるが、ごく少量のセレンを加えると脱色効果がある。)着色剤(カドミウムとともにガラスに加えるとカドミウムレッドといわれる鮮やかな赤色ガラスが得られ、信号灯、表示灯などに用いられる。)として広く用いられるほか、顔料、薬品、触媒、ゴム硬化剤、マグネシウム合金防食用に用いられる。

ドイツ降伏時、神戸で日本側に接収されたドイツ潜水艦UIT24(旧イタリア艦 コマンダンテ・カペリーニ ComandanteCaperllini)、UIT25(旧イタリア艦 ルイージ・トレリ Luigi Torelli)の二隻、神戸で整備の後、日本や東南アジアの貴重な軍需物資をドイツに還送する予定だった。
 アジア歴史資料センターで見られる
  「在本邦独側保管物資表(昭和二〇年四月三十日現在)」
に、ドイツ艦二隻に搭載されていた軍需物資の一覧と数量が書かれてある。二隻の名前は防諜上か、×号、××号と表記されている。数量は二、三、五の判別が、し難くよくわからないが、更にシンガポール、バタヴィア等で搭載される物もあるので少なめであろう。取り合えず、搭載軍需物資一覧を書いてみる。
  ×号
   ゴム
   タングステン鉱(袋入り)
   タングステン鉱(錫箱入り) 
   錫(インゴット)
  ××号
   水晶(箱入り)
   モリブテン鉱(箱入り)
   セレニューム(箱入り)
とある。だいたい逆柳船に搭載されたお馴染みのものである。ただし、水晶とセレニュームは今回初めて見た。水晶についてはまったく知らないが、セレニュームは日本の銅製錬各社の社史でよく目にしていたので、実際びっくりした。
セレニューム、レアメタルとしては当時珍しく、生産が使用量に充足されていた。日本国内の生産量は昭和14年で23トンぐらいであった。ドイツでの生産量、使用量など知る由もないが、やはり足りなかったので、危険を冒しても持ち帰ろうとしていたのであろう。
 当時の日本でのセレニューム生産を見てみると、各銅製錬会社の社史には、詳しくは書かれていない。しかし、感じとしては大手銅製錬所では、ほとんど生産されていたと思われる。住友金属の新居浜製錬所では昭和14年に約10トンの生産。石原産業の四日市工場で昭和19年で929kgの生産。日本鉱業では大正8年、セレニュームの国産に先鞭をつけた日立製錬所において、昭和11年1月、酸化バイ焼設備が完成して回収率に格段の向上を示し、佐賀関製錬所では昭和7年6月にその回収を開始した。(ちなみに住友金属新居浜製錬所での電気銅生産は昭和19年2万1600トン、石原産業の四日市工場で5600トン、日本鉱業の日立製錬所で1万5600トン、佐賀関製錬所は1万5800トンであり、日本全体の電気銅生産はこの年11万1200トンであった。セレニュームは電気銅の生産にほぼ比例して生産されるので、全体の生産量は想像してもらいたい。ただ、満州、朝鮮での生産の有無がわからない。オット忘れていた。金属回収令により集められた故銅(梵鐘、銅貨、二宮金次郎、靖国神社の銅屋根etc)などからも電気銅は作られていたので、その辺は割り引いてほしい。)

引用・参考文献
 「世界大百科事典」等

 「世界の艦船 増刊第37集 日本潜水艦史」
  平成5年8月15日 海人社
  
 「世界の艦船 増刊第52集 ナチスUボート」
  平成11年7月15日 海人社

 「電気ガラスの歩み」電気硝子工業会
  昭和45年11月10日発行

 「日本の天然資源」訳者 経済安定本部資源調査会
  昭和26年2月20日発行 時事通信社

 「住友別子鉱山史」住友金属鉱山株式会社
  平成3年5月9日発行

 「創業三十五年を回顧して」石原産業株式会社
  昭和31年10月1日発行

 「五十年史」 日本鉱業株式会社
  昭和32年11月6日発行

 「創業100年史」古河鉱業株式会社
  昭和51年3月31日発行

 最近、とある質問コーナーで、高校生とおぼしき質問者が、質問文に句読点を付けないので集中攻撃を受けている。プリンスも年のせいかボケて、どこに「、」を付けていいのか、しばしば考え込むようになってしまっている。相変わらず誤字、脱字も多いし、皆さんの迷惑になってはいけないので、アノ質問コーナーでは質問するのも解答するのも、自粛しようかと考えている。

ウニ

 前に、北海道は積丹半島突端「神威岬」のコンクリート製電探の基台
ついて書いたことがあるのだが、実際にその設置した電探の最終調整を
した方の手記を、この度古本屋で入手した。やはり、当時電探の下の海
の中にはウニ(雲丹)がウジャウジャいたのである。

 「通信技手の電探日記 巷説占領時代(太田特別電話局)」
  松本 多助 昭和61年10月1日発行 自費出版

 著者は戦時中、決定的に不足していた海軍の電波兵器技術要員として
、逓信省(現在のNTT)より文官(尉官待遇?)として従軍し、主に北東方面(千島、北海道、青森)で電探の設置、調整をなされた。
 神威岬では昭和20年5月24日(据付は既に終わっていた。)より調整作業を始められ6月28日には電探は完全に可動状態になった。
 設置された電探は
  112号(1号1型改2)遠距離対空見張用
   波長3m、出力30kW、最大有効距離250km、陸上(海岸)
   固定式、総重量8.7t
2基であった。(基台は1基しか無かったような気がする。)また、近くには陸軍のタ号?(要地用電波警戒機乙、波長  、出力50kW、警戒距離150 ~300km)も設置されていたようである。

 当時、日本全国飢餓状態の中で、輸送手段を失った漁村では海産物だけは豊富にあった。著者の同僚も現地に着いて早々、ホッケ(北海道に来た人なら分ると思うのだが、「開きホッケ」が有名、煮付けても、フライにしても、すりみにして汁にしてもうまい。)を食べ過ぎて寝込んだ程である。そして、著者の日記によれば、

 昭和20年6月6日
   晴 休業日
   雲丹・鰊・数の子・ワカメ・フノリ等小包便8ケ

 とある。著者の出身地群馬では、当時、海産物などほとんど目にする
事が出来なかったので、届くかどうかは分らないが家族、親戚に送ったのである。ウニは塩に漬けた「塩蔵ウニ」であろう。
 北海道では昔、鰊(ニシン)が大量に獲れ、その収益が北海道開発の一助となっていた。ここに書かれた鰊とは身欠きにしんのことで、京都で食べられる「鰊蕎麦」に入っているやつである。なお、身欠きにしんは学徒動員や軍需工場での体験談でよく語られているので、興味を持った方は覚えていたほうがいいかもしれない。最後に数の子は現在よくみられる塩数の子ではなく、留萌で極少量が今も作り続けられていると言う幻の「干数の子」のことであろう。
 ところで、電探のことなのだが、電気が関係するのでプリンスにはさっぱり解からない。

 今回読み返した本
 「幻のレーダー・ウルツブルグ」津田 清一
   昭和56年12月15日発行 CQ出版株式会社

 「ドキュメント 海軍技術研究所-エレクトロニクス王国の先駆者達 ー」
  中川 靖造 昭和62年6月25日発行 日本経済新聞社

 「日本海軍エレクトロニックス秘史」田丸 直吉
   昭和54年11月10日発行 原書房 

 「機密兵器の全貌」
   昭和51年6月25日発行 原書房
 
 「高射戦史」下志津(高射学校)修親会
   1978年12月1日発行 田中書店

情けない

 世に先生と呼ばれる方々、信じたプリンスが馬鹿だった。
片や師と仰ぐA先生、片や友と選んだB先生、実は非公然サイト
「座敷牢」をほとんど読んでいないのである。
A先生曰く
「ところでアンタ、なんに興味があるの?」
B先生曰く
「真実日記は毎回チェックしているんですけど・・・」
(そういえば、プリンス今年の目標として『座敷牢の継続』『Wordの習得』を表明したところ、両先生、プリンスに何か嫌な物をみるような視線を送ってきたのは、いったいどうゆう意味だったのであろうか?)

 だいの大人3人が深夜の呪われたススキノを徘徊し、ワールドタンクミュージアムNo.3を求めてコンビニ3軒を梯子した。A先生は「在庫が無いのか?」と店員のお兄ちゃんに詰め寄り、B先生は「キューベルワーゲン、キューベルワーゲン」と店の中で大声で呪文を唱え、更に3人はドンキホーテの店の前に置いてあったガチャポンのバンダイ、1/144ウィングクラブコレクションパート1もどきを見に行き、片付けたと知ると店内を隅から隅まで探しまわった。(零戦21型とフェルジナンド並べてみたかったのに。)
 これが合計年齢120歳を超えた3人の所業である。
 ああ~情けない。

似非艦船ファン

  世に先生と言われる人から「大和の話をしてあげよう。」との有り難いお言葉に「いらない」と答える北海道人、本当に困ったものである。
 似非(えせ)艦船ファンであるプリンス、最近、「日本支配下地域における独逸油槽船の活動」なんてまた、およそ人の興味を持たない物を知りたくなってしまった。ざっと数えてもおそらく10隻に満たない船しか活動していないと思われるのだが、妙な船に引き込まれてしまった。

オレ・ヤコブ Ale Jacob総トン数8306トン(日本で言えば大きさからすると日本タンカーの宝洋丸位)元々はノルウェー船籍のタンカーであるのだが、詳しい船歴は知らない。(誰か教えて下さい。)
 このオレ・ヤコブは1940年11月9日インド洋上で、独逸の仮装巡洋艦アトランティス(Atlantis)に捕獲された。シンガポールからスリランカのコロンボに航空燃料(日本側の資料ではベンジン油となっている)1万1478トンを輸送の途中だった。アトランティスはオレ・ヤコブの他に11月11日捕獲した船舶(テディ 総トン数6748トン、ノルウェー船)の乗員と次ぎに捕獲撃沈したオートメダンから押収した商船隊暗号表、暗号翻訳表、大量の秘密文書(最高の秘密に属するイギリス司令長官宛、極東艦隊司令長官宛の物、艦隊に対する新暗号表、商船隊に対する注意事項、機雷原および新たに掃海された水路、地図および海図、イギリス諜報機関の報告書、戦時内閣の秘密な予測事項を記したもので、これは極東に対する防衛計画の包括的考察、シンガポール防衛に対する指示および日本の陸・海・空軍の動向を記したもの)の中の何れかを載せ11月16日日本の神戸に向かわせた。
 12月4日神戸港に入港したが、イギリス側の早速知るところになり、捕虜を降ろし(回航指揮官は後にシベリア鉄道経由で独逸本国に帰還、このとき機密文書の一部は日本側に渡された模様。捕虜も解放され長崎経由香港行きの者とシベリア鉄道で本国に帰国した者に分かれた。)たった1日の停泊中に、独逸船ムンスターランド(Munnsterland 総トン数6408トン 1922建造 1942年2月18日神戸発8192トンの物資を持って5月17日、独逸占領下のフランス、ボルドーに到着)より燃料重油100トンと飲料水60トン(六甲の水?)受け取りすぐに出港した。
 積荷の航空燃料は、南洋群島の何処かで日本のタンカーに渡され、その代わり独逸海軍は1万1000トンの燃料油を日本で受けとった。(航空燃料移し変えの時に、燃料油や補給品を受け取ったかはわからない。)その後、仮装巡洋艦オリオン(Orion)の補給船として活動した。その途中には南洋群島のある島でイギリス側に無線を傍受され、小笠原諸島の無人島に逃げ込み、またムンスターランドから補給を受けたらしい。
 そして活動を終え、1941年7月19日、ボルドーに入港した。その後のオレ・ヤコブの生涯については何も知らない。
 上記の話でプリンスは2つの事が気になっている。
 1つめは、オレ・ヤコブが積んでいた航空燃料のオクタン価である。出発地がシンガポールである点からも、おそらくパレンバン(ひょっとするとバリックパパン)で精製された物で、100オクタンであった可能性も高い。バトル・オブ・ブリテン、勝因の1つがアメリカからの100オクタン航空燃料の供給と言われているが、これは実は南方(後に日本が手に入れる精製施設)で作られていた可能性がかなり高いのでのである。この時期、100オクタン、1万1000トンといえばかなり贅沢な話である。
 2つめは、オレ・ヤコブが日本から戦略物資を独逸に還送しているかである。オレ・ヤコブ自体も日本から出港した補給船から何度も補給を受けているので、これらの物資を移載されたのではないか?また、捕獲した船舶から重要な物資(ゴムなど)を移載されているのではないか?ただ、捕虜だけを連れ帰る為に、独逸へ向かったとは考えられないのである。しかし、オレ・ヤコブは柳船のリストの中には名前がない。

  引用・参考文献
 「海の狩人・アトランティス」昭和63年3月25日発行
  ウォルフガンク・フランク ベルンハルト・ローゲ
  訳者 杉野 茂  朝日ソノラマ

 「ポケット戦艦」 昭和55年12月31日発行
  T・クランケ H・J・ブレネケ
  訳者 伊藤 哲  ハヤカワ文庫

 「ラプラタ沖海戦」 昭和60年1月31日発行
  酒井 三千生  出版協同社
 
 「日本・油槽船列伝」平成7年1月18日発行
  松井 邦夫 成山堂書店  これはいい本です。

 「Die Deutsche Kriegsmarine 1935-1945 Band 2」
  Siegfried Breyer

  例の解読不能の本

  アジア歴史資料センター内

  ドイツ艦オレヤコブ号/1.昭和15年12月9日から昭和16年
   1月15日(第二次欧州大戦関係一件/各国艦船及軍用機動静)

  ドイツ艦オレヤコブ号/2.昭和15年12月7日から昭和16年
   1月13日(第二次欧州大戦関係一件/各国艦船及軍用機動静)

  ドイツ艦(船名不詳)(第二次欧州大戦関係/各国艦船及軍用機
             動静)