燃料協會誌

 実のところ、日本の戦時中の航空燃料生産については、「陸軍燃料廠史 岩国編」・「陸軍燃料廠史 技術編 満州編」・「日本海軍燃料史(上)(下)」を読んでも、概略さえ見えてこない。それも、これも南方での航空燃料生産に関する記述が圧倒的に少ない事に起因する。
 南方での航空燃料生産を類推する手掛かりとして、昭和18年に発表された「燃料協會誌第250號」に書かれた陸軍燃料廠陸軍中佐 明石 正水氏の「パレムバンの製油所」(明石報告)という日本占領前の航空燃料生産に関する論文が最も役に立つ。これにより、戦前のパレンバンでの航空燃料生産のレベルや品質を窺い知る事が出来る。姫は「明石報告」を
 「南方産業技術総覧」昭和19年6月20日発行 山海堂
 (古書市や大きな図書館で意外と見る事が出来る。千円か二千円で買ったと思うが、内容的には数万円の価値があると思う。)
に転載されたもので読んでいた。「燃料協會誌」にパレンバンの記述があるのであれば、バリックパパンやその他の製油所のもっと詳しい(それなりの記述は散見される)記述があるのではと無いかと思い立ち、昨日、市内某所に「燃料協會誌」のバックナンバーを見に行ってきた。そこには、バックナンバーが全部揃えてあり、コピー(有料)もやり放題なのだが、コピー機が無いので、質札として運転免許証を預け、製本した分厚い「燃料協會誌」を抱えて、遠く離れたコピー機のある場所まで歩いていかなければならないという体力のいる所だった。で、結果からすると他の製油所の航空燃料生産に関する記述は見つからなかった。目を通したのは、昭和15年、昭和16年、昭和17年、昭和18年、昭和19年、昭和20年、昭和21年だったのだが、それなりに面白い資料を見る事が出来た。
 内容は人造石油、松根油、潤滑油、石油の接触分解など実験室での研究レポートが多いのだが、それは当時の日本の情況を見れば、量産など不可能ですよ。と云っているのと同じで、ある意味心の折れる内容だった。石炭や天然ガス、木炭などの記述もあったのだが、今回は時間がなかったので封印してきた。
 最近、独逸を始めとした枢軸国側の資源に関心を持ち、邦文で書かれた資料をちょこちょこ捜しているのだが、今回も少しは為になる話があったので、姫的に面白いと思った話を少しだけ紹介する。

1.ポーランド分割の独ソ協定の結果ドイツは1938年の年産に於いて136,450噸を出したヤスロー油田を、ソ連は同370,800噸を出したドロホビッツ及びスタニスラオー油田を獲得した。
2.ドイツはルーマニアからダニューブ河(冬期結氷)を通って石油を輸入。戦前の予測では1カ年最大100万~130万噸
3.1938年ソ連の石油輸出は115万噸に低下(1932年610万噸)。ドイツへの輸出余力はさほどない。
4.ダニューブ河油槽船国籍、隻数、噸数
ドイツ     128隻  90,675噸
ユーゴスラビア  42隻  31,711噸
フランス     14隻   9,742噸
ブルガリア     8隻   6,800噸
ルーマニア    56隻  26,857噸
イギリス     30隻  22,369噸
ハンガリー    15隻  10,408噸
ベルギー      2隻   1,500噸
スイス       2隻   1,020噸
オランダ      1隻     172噸
合計      298隻 201,315噸
(オイル・アンド・ガス・ジャーナル1939年12月28日號)

5.イタリアの原油生産高は1938年13,000トン(アルバニアは65,000トン)これらの原油は一般にアスファルト性で硫黄分も多い。水素添加が必要。
6.イタリアの燃料用アルコール製造量は1937年度に無水アルコール3万トン。同国における砂糖の需要が増大した結果、アルコールの原料が不足し、燃料用アルコールの増産は不可能
7.戦前、エストニアには隣接諸国よりシェールガソリン(油母頁岩油)の買い付けが殺到し、同国のシェール油工業は戦争景気に活況を呈して来たが、これに対し50%の応需力しかない。

お知らせ
ここを維持するに当たり、娘からPCを借りているのだが、10月に娘が大阪に転勤する事がきまった。と云うわけでここを書く手段が無くなったので、お休みします。妻より皆様の電話番号を全て消去されるという情けない状態にあり(どうか電話しないで下さい)当然ここのパスワードも虚空の彼方に消えていったし、感想メールも1本もこないけれどもどっこい生きていきます。
 ところで「貴君」ってオレのことか?

パレンバンの航空燃料生産

 ある質問コーナーに日本占領下にあったパレンバンが、どれくらい航空燃料生産に役にたったか問い合わせがあった。そんな事が簡単に分かる位なら誰も苦労はしない。質問者の想像であれば戦艦大和と同じく、それはそれは日本の製油技術も製造量も立派だったと云って欲しかったのであろうが、やっぱり、そこは日本なのである。
 私の知る範囲内でパレンバンの製油量を詳しく書いた邦文は存在しない。そこで、

「  太平洋戦争白書 第19巻
  THE UNITED STATES STRATEGIC BOMBING SURRVEY
          Oil and Chemical Division
            OIL IN JAPAN’S WAR               」
 1992年6月25日発行  日本図書センター

から、一部存在する(ルトン、チャプーなどの石油精製量は何処にあるのだろう?)南方の製油所の石油精製量を調べ、エクセルを使い表にして見た。上記の英文は

「  アメリカ合衆国戦略爆撃調査団・石油・化学部報告
       日本における戦争と石油         」
      奥田英雄・橋本啓子訳編  石油評論社
という邦文にまとめられているのだが、南方の石油精製についてはすっぽり抜けている。訳者達の想いと姫の石油に対する想いが違うので、「日本における戦争と石油」の考え方が実に中途半端な形になってしまっている。
 これより、年度ごとのパレンバン第一製油所、パレンバン第二製油所、と参考に北スマトラ、バリックパパン、海軍燃料廠、陸軍燃料廠、日本石油の航空燃料生産を書き写すが、原本は月毎の記録が載っており、エクセルでまとめたのだが、ここにエクセルを写す方法を知らないので、年度ごとの記載にとどめる。なお、原本の単位はバーレルだったが、1バーレル=159Lに換算し、編集した。さらに、これらの元の数値は終戦のドサクサに焼かれ、戦災を被っているのでおそらくアバウトな数値だと思われるが、実数(もはや誰も分からないし、興味もない)とそれほどかけ離れてはいないと思う。

 南方燃料廠 南スマトラ支廠(パレンバン)
  第一製油所【旧PBM プラジュー(PADJOE)製油所】
1942年6月~1943年3月
  256,600KL
1943年4月~1944年3月
  379,500KL
1944年4月~1945年3月
  411,970KL
1945年4月~1945年7月
   48,300KL
合計
 1,096,500KL

 南方燃料廠 南スマトラ支廠(パレンバン)
  第二製油所【旧NKPM スンゲィゲロン(SOENGAIGERONG)製油所】
1943年6月~1944年3月
   77,000KL
1944年4月~1945年3月
  152,600KL
1945年4月~1945年7月
   24,300KL
合計
  253,923KL

 南方燃料廠 北スマトラ支廠
  北スマトラ製油所【旧パンカンブランタン(PANGKALNBRANDAN)製油所】
1943年5月~1944年3月
  132,300KL
1944年4月~1945年3月
   91,100KL
1945年4月~1945年7月
   35,100KL
合計
  258,500KL

 第百二海軍燃料廠
  バリックパパン製油所【旧BPM バリックパパン(BALOKPAPAN)製油所】
1942年
  210,000KL(39,000竏)
1943年
  271,900KL(120,000竏)
1944年
  223,400KL(50,000竏)
1945年
   24,000KL(10,000竏)
合計
  729,500KL(219,000竏)
      ※( )内は海軍燃料史より

海軍燃料廠【第二(徳山)、第三(四日市)、第六(台湾、高雄)】
1941年4月~1942年3月
  217,000KL
1942年4月~1943年3月
  245,200KL
1943年4月~1944年3月
  213,200KL
1944年4月~1945年3月
  167,600KL
1945年4月~1945年8月
    3,600KL
合計
  629,500KL

陸軍燃料廠【岩国、四平(満州)、錦西(満州)】
1942年4月~1943年3月
   59,600KL
1943年4月~1944年3月
   80,400KL
1944年4月~1945年3月
   53,400KL
1945年4月~1945年6月
      600KL
合計
  140,700KL

日本石油【柏崎・横浜・関西・北海道(手稲)・名古屋・川崎、鶴見・新潟・東京
     下松・秋田・台湾】
1941年4月~1942年3月
   83,700KL
1942年4月~1943年3月
   20,400KL
1943年4月~1944年3月
   30,500KL
1944年4月~1945年3月
   21,900KL
1945年4月~1945年8月
    7,400KL
合計
  164,000KL
   (航空燃料を生産していたのは傘下の一部の製油所だけである)

他に、国内各石油精製会社の月毎の航空燃料生産の記録もあるのだが、それはまたの機会とする。

引用・参考文献
「資料丙第三百十二號C(第八調査委員会資料二十三)
      南方諸地域の石油(未定稿)        」
 昭和十八年二月二十五日発行 東亜研究所

「パレンバンの石油部隊」パレンバンの石油部隊刊行会
 昭和四十八年二月一六日発行

「陸軍燃料廠史 岩国編」岩燃史編纂委員会
 昭和54年6月30日発行

「陸軍燃料廠史 技術編 満州編」陸燃史編纂委員会
 昭和54年12月10日発行

「日本海軍燃料史(上)(下)」燃料懇話会
 昭和47年10月25日発行 原書房

「日本航空燃料史」嘉納吉彦
 昭和31年10月31日発行 養賢堂

大豆

 三菱商事の社史を読んでいると、第2次大戦勃発後もシベリア鉄道を経由して、満州産大豆を輸入している事が分かる。

 「東欧経済史」I.T.ベランキ G.ラーンキ 共著 監訳 南塚信吾
  1978年5月30日発行 中央大学出版部
の中で「ドイツ戦時経済体制のもとで」という章が設けられている。この章で東欧諸国のナチスドイツとの経済的協力について触れられているのだが、ブルガリアとハンガリーがドイツが求める大豆(油性種子)の生産を行った。てっきりマーガリンの材料として、独ソ開戦後、満州大豆の代替品として作られるようになったのかと思えばそうではなかった。
 ドイツでの大豆の利用目的として当然、搾油がメインと思っていたが、実は油を絞ったあとの豆粕も重要だった。当時のドイツでは食糧の自給は出来なかった、ドイツの農業といえば豚や牛の飼育など畜産を思い浮かべるが、実際その飼料、特に高蛋白な油粕は輸入に頼っていた。
ドイツの飼料の輸入は1928年、500万噸で
1931年
 燕麦   67万噸
 玉蜀黍  36万噸
 糠    13万噸
 油粕  186万噸
 穀物屑  17万噸
 魚粉    8万噸
 其の他  10万噸
 合計  337万噸
となっている。

油を絞る為の油料子実の輸入量を見れば、
1933年
 大豆          117.1万噸
 亜麻仁          35.8万噸
 落花生          26.4万噸
 パームカネル       24.8万噸
 コプラ          12.1万噸
 其の他           6.8万噸
 合計          223.0万噸
 となっている。
 これらの油料子実から搾油した油粕の生産量は
1933年
 大豆抽出粕        960,100噸
 亜麻仁粕         232,000噸
 落花生粕         173,700噸
 棕櫚粕(パーム)     129,100噸
 椰子粕           42,400噸
 菜種粕           15,200噸
 向日葵粕          11,600噸
 大麻子粕           7,900噸
 罌粟核粕           4,400噸
 綿実粕              150噸
 合計         1,579,750噸
 となっている。
さらに、ドイツ国内で搾油した油粕だけでは足りなく
1933年
 落花生粕         128,200噸
 大豆粕           96,000噸
 亜麻仁粕          85,500噸
 椰子粕           74,200噸
 綿実粕           44,600噸
 向日葵粕          43,700噸
 棕櫚粕           34,700噸
 菜種粕           15,200噸
 大麻子粕           7,900噸
 其の他油粕         13,300噸
 輸入合計         527,400噸
 輸出合計          67,400噸
 差引輸入超過       460,000噸
 輸入している。

満州での大豆生産高を見ると
 1933年      4,601,000噸
 1934年      3,398,305噸
 1935年      3,859,018噸
 1936年      4,147,266噸
 1937年      4,352,475噸
 1938年      4,765,456噸
(ちなみに1938年第2位は米国で1,098,130噸である。)

 ナチスドイツが政権を執ると急速な軍備増強により、軍需物資の輸入に重点が置かれ、外貨保有が急速に少なくなる。この点は中国との戦争により、資源・機械を大量に輸入し、外貨保有、金保有が少なくなっていった日本と実に似通っている。共に外貨保有が少ない国どうし、バーター取引が行われるようになる。例えばドイツの工作機械と日本側の大豆、鯨油、缶詰などだ。それでも、大豆の輸入は制限され
 1934年        899,242噸
 1935年        507,714噸
 1936年        476,440噸
 1937年        591,309噸
と半減する。
 ドイツは油料子実自給政策の一変形として大豆の供給を自国の製品市場だったバルカン諸国に求めた。昭和9年ごろハンガリーにその交渉を行い、ルーマニアでは昭和7年頃より農事試験場での栽培が始まった。ブルガリアでは昭和の初めより試作を始め、昭和10年には契約、2,500haの栽培を行った。なお、大豆はヨーロッパではまったく生産されていなかった。

引用・参考文献
「独逸と満州大豆」南満州鉄道株式会社 地方部商工課
  昭和十年三月三十日発行

「統計 世界主要油料子実・油脂・飼料類 ―生産・輸出・輸入―」
  満州特産中央会 康徳五年十月五日発行(1938年)

「欧州に於ける満州大豆其の他の取引事情
        特産資料B第4      」
  満州特産中央会 昭和11年9月15日納本

ノーム・ローンエンジン

 「第二次世界大戦とフランス領インドシナ―「日仏協力」の研究―」
   著者 立川京一 彩流社 2000年5月25日発行
をたまたま読んでいると、フランスの「対独協力の実際とその成果」について書かれていた。最近、ドイツ占領下の国々や同盟国の軍需生産、資源をチマチマ調べている人間には堪えられない話だった。この文の参考文献に
 「西洋史学 166号
    占領下フランスにおける対独経済協力
     ―航空機生産共同計画をめぐって―   剣持久木(53P)」
と云う論文がある事を知り、捜してきた。
 昔、ウィーンの空港で飛んでるところを見た事があるJu-52を、エンジン毎、フランスで作っていた事を初めて知り、てっきり完成後、押収したエンジンを載せていたと思っていた大好きなヘンシェルHs129のノーム・ローンエンジンがわざわざ新造されていたことを知り驚いた。
 上記論文によればドイツ向けに新造されたエンジンの数は
1941年
  フランス型(ノーム・ローン等)   1,927基
1942年
  フランス型(ノーム・ローン等)   1,247基
  ドイツ型(BMW132等)        751基
1942年
  フランス型(ノーム・ローン等)   2,310基
  ドイツ型(BMW132等)      2,669基
1942年
  フランス型(ノーム・ローン等)     678基
  ドイツ型(BMW132等)      1,637基
合計
  フランス型(ノーム・ローン等)   6,162基
  ドイツ型(BMW132等)      5,057基
となる。
 さて、実際にノーム・ローンエンジンを搭載した機体の生産数から、エンジンの必要数を割り出すと、予備・補用を考慮に入れなくても

 ヘンシェルHs129     ノーム・ローン14M(700hp)
  1942年 219機
  1943年 414機
  1944年 225機
    合計  859機  1,718基

 メッサーシュミットMe321/323 ノーム・ローン14N(1,140hp)
198機  1,188基

 Go244B    ノーム・ローン14M4/5
   133機以下  266基
  
 合計  3,172基
となり、けっして少ない数字ではなかった事がわかる。(それに比べて日本の占領地の貧しいこと・・・・・)

引用・参考文献
「航空ファン別冊 No.49
  第二次大戦ドイツ軍用機」
  平成元年10月5日発行 文林堂

軍服の材料 NO.3

 ヨーロッパにあれだけ羊さんたちがいるのに、なぜ羊毛が自給出来ないのか不思議に思っていた。そうすると、どこからともなく答えが出てくる。
「 南方経済総覧 第十二巻
   オーストラリア・ニュージーランドの経済資源 」
  著作者 金子鷹之助 清川政二
  昭和十八年三月五日発行 東亜政経社
という本で豪州(オーストラリア)とニュージーランド(新西蘭)の羊毛生産について触れられている。
「豪州の牧羊業の世界的地位を論ずる場合、単に羊頭数並びに産毛量のみを以つてするは妥当性を欠くと云う事である。即ち「量」の側からのみではなく、此処に更に「質」の側よりする観察を加える必要があると云う事である。何故ならば羊頭数のみを以てするならば、満蒙、支那、印度或はソヴィエツト・ロシアの羊頭数は次の如く
 ロシア   8,450万頭
 支那・満蒙 3,800万頭
 印度    5,000万頭
合計1億7千万頭と云う厖大な数字になるが、一度これを立場を変えて「質的」な立場から観察するならば、之れ等の国の牧羊業は従来何れも羊毛を目的とせず、羊肉・羊皮を目的とせるものなる為に、その産毛は殆んど全部が所謂「カーッペット・ウール」であり、粗悪にして「死毛」多く、絨毯用以外には紡績用としては不適当なものが多いからである。」
と云う事は、ヨーロッパの羊は主に食肉用として生産されていた事がわかる。
 ついでなので、この本に書いていた面白い統計を書き写す。
 世界に於ける羊産毛量統計
     (年度不明 単位 脂付100万ポンド)
豪州     1,023
北米合衆国    455
アルゼンチン   380
新西蘭      297
ソ連       259
南阿連邦     246
支那       110
ウルグアイ    110
英国       107
インド      100

 世界に於ける紡績用羊毛主要産出国統計
     (1938~39年度 単位 脂付100万ポンド)
豪州      985
新西蘭     329
アルゼンチン  394
ウルグアイ   114
南阿連邦    264
北米合衆国   457
英国      110

 更に紡績用羊毛の中でも、最も優良な原料と云われる「メリノ羊毛」の生産量を見てみれば
 世界に於けるメリノ羊毛産出量
     (1937~38年度 単位 脂付100万ポンド)
豪州      833
南阿連邦    241
北米合衆国   227
アルゼンチン   53
ウルグアイ    15
ハンガリー    14
ドイツ      13
新西蘭      12
フランス      8
(このほかにスペインより年産約1200万ポンド産出されるが統計不備の為、除外)

自国消費を除いた輸出能力を見れば
 世界「輸出羊毛」統計
     (1938~39年度 単位 1,000俵)
豪州      2583.7   48.2%
新西蘭      656.1   12.2%
南阿連邦     790.0   14.7%
南米      1234.0   23.0%
英国       101.9    1.9%

 豪州羊毛輸出統計(脂付羊毛+洗上羊毛) 
    (自1935年7月1日~至1936年6月30日 単位 俵)
英国         957,483
日本         779,857
白耳義(ベルギー)  373,692
仏蘭西        257,693
独逸         107,429
米国          90,126
和蘭(オランダ)    53,688
波蘭(ポーランド)   48,771
チェコスロヴアキア   30,603
墺太利(オーストリア) 16,187
伊太利         16,352
加奈陀         11,171
瑞典(スウェーデン)   9,385
印度           7,728
瑞西(スイス)      6,830
西班牙(スペイン)    5,792
葡萄牙(ポルトガル)   3,060
希臘(ギリシャ)     2,483
墨西哥(メキシコ)    1,029
丁抹(デンマーク)      953
ブルガリア          779
露西亜            450
新西蘭            365
諾威(ノルウェー)      344
ユーゴスラビア        304
香港             247
埃及(エジプト)       200
支那              76
秘露(ペルー)         59
錫蘭(セイロン)        37
芬蘭(フィンランド)      30
エストニア           10

となり、枢軸国に関しては羊毛に関してはお手上げ状態だったことがよく分かる。自国民だけではなく同盟国、占領国の人間にも最低限の着る物をに与えられないのだから、戦争に負けるのは当たり前である。
 こんな暗い数字ばかり書き写しても、だれの興味も湧かないと思うので同じ本に書いてあった別の数字を書き写す。
 銑鉄世界産出高
     (1937年度 単位 単位 千噸)
北米合衆国     37,127
ドイツ       15,957
ソ連        14,520
英本国        8,497
フランス       7,917
ベルギー       3,843
日本         3,561
ルクセンブルグ    2,513
チェコスロバキア   1,675
インド        1,453
カナダ          898
イタリア         790
ポーランド        724
豪州           665
スウェーデン       646
オーストリー       389
ハンガリー        362
南阿連邦         272
総計        92,848
少しだけましか・・・・

軍服の材料 NO.2

 最近、第2次大戦中の枢軸国やその占領国、周辺の中立国の経済、資源などに興味を持ち、調べている。その中でも、軍需でも民需でも不可欠な衣料品の原料はどうなっていたのであろうかと拾い読みをしてみた。
 アジア歴史資料センターの中に
「 駐在員報告  昭和十九年六月
   欧洲紡績品補給情勢ニ関スル調査報告
     独逸国駐在員 陸軍主計大佐 阿久津 正蔵 」
 というきわめつきに面白い一次資料がある。
 日本でもドイツでも当然イタリアでも綿花生産(ドイツで綿花は採れるのでしょうか?)はその必要量にまったく足りなかった。化学繊維の発達が充分でなかった(人絹・スフがあったにしてもその品質は充分ではなかった)当時、綿花と羊毛は重要な衣料品の原材料だったのだが、そのほとんどを輸入しなければならない状態だった。綿花はしょうがないとしても、羊毛すらヨーロッパで自給出来ないことを上記の資料で知ったことは実際驚きだった。
 綿花の輸出国として、戦前、アメリカ、インド、エジプトなどが知られ、枢軸国でも当然それらの国から輸入していた。日本でいえば、これに中国が加わり、大戦中それなりの移入(収奪)していたのだが、絶対量には程遠く、短繊維という品質的問題も抱えていた。
大戦勃発後は中国を始め、占領地で綿花の大増産を計画し実施するのだが、そのほとんどが失敗し、日本国内だけではなく、占領地でも衣料品を供給することが困難になり、占領地の民衆の日本離れをさらに加速させた。日本占領下フィリピンでの綿花栽培の失敗は、ミリタリーマニアには知られていないが、代表的なものであり、
「日本占領下のフィリピン」編者 池端雪浦
  1996年7月26日発行 岩波書店
 ―第五章 綿花増産計画の挫折と帰結―  永野善子
  P185~P217
に詳しく書かれている。
 ヨーロッパに目を向けてみれば、ドイツ占領下のウクライナからかなりの綿花を入手したとの話もあるが、その詳細は分からない。そこで探してみたところ、戦前の日本語で書かれた綿花の動きを推測することが出来る資料を二点図書館で見つけた。
 「調第一七八號 昭和十四年六月
   防共協定國國情調査 第十四號 
     伊太利の國防資源と軍需工業 
             外務省調査部」
 イタリアも当時の日本と同じく輸入した原料をもとに紡績業で外貨を稼ぐとういう構図が出来上がっていた。(自国産の絹で外貨を稼ぐことも)
1937年の綿花輸入実績を見てみれば(単位キンタル)
 アメリカ      977,624
 エジプト      296,026
 インド       175,325
 ブラジル       68,431
 パラグアイ      44,000
 トルコ        26,657
 ペルー        20,060
 その他
 合計      1,654,003
となり
イタリア植民地からの綿花輸入量を見れば
1933年
 ソマリア        6,591
 エリトリア       2,531
1934年
 ソマリア        9,749
 エリトリア       1,622
1936年
 ソマリア        4,178
 エリトリア       1,094
1937年
 ソマリア        2,707
 エリトリア         372
となり、数量は微々たるものでも、植民地にもそれなりの思い入れがあったらしい。
 さらに、興味深いのは人造繊維(人絹・スフ)の使用で、1937年、綿糸工業での原綿145万キンタルの使用に対し、人造繊維の混合量は68万キンタル。綿布工業での綿糸87万キンタルの使用に対し、人造繊維の混合量は52万キンタルとなっている。
 上記輸入国の1つでもあるトルコの資料として
「 土耳古經濟事情竝ニ日本トノ貿易事情
   商工省貿易局  昭和十一年第七號 」
というものがある。
 主要輸出品として、葉煙草、乾葡萄、麦類と並んで、1934年、綿花13,279トンの数字が挙げられている。(羊毛は7,966トン)また、この冊子では一節をもうけ、「本邦(日本)ヘノ重要輸出品ニ付其ノ生産並ニ輸出状況」の中で綿花について触れている。
 ドイツ、イタリアで広範囲で使われていた人造繊維(人絹・スフ)の材料であるセルローズ(木材パルプ)実は自国内での生産では足りず、北欧諸国からの輸入も重要だった。
アジア歴史資料センターで見られる
「外務省通商局日報 第一號 昭和十八年一月四日
―瑞典一九三四年度の瑞獨貿易取極成立發表―」
によれば、1934年に中立国スウェーデンはドイツに14万トンの人絹用セルローズを供給する協定を結んでいる。     
 以上が最近、拾った話である。
おまけ
 上記のイタリアの本に面白い数字がのっていた。イタリアもドイツ同様、1gの天然ゴムも採れないのだが、1934年に
ゴム   217,698キンタル
タイヤ   12,888キンタル
ゴム製品   7,218キンタル
を輸入している。(ただし、45,693キンタルのタイヤを輸出している。)イタリア船籍の海上封鎖突破船が日本から天然ゴムを持ち帰ったのも、ムッソリーニがヒトラーに人造ゴムを頂戴と泣きついたのもこんな数字から見ると面白い。

後備歩兵第一旅団・後備歩兵第四旅団人員構成

 「日露戦争統計集 第8巻
   『(軍事機密)明治三十七八年戦役統計』改題 」
  編纂 陸軍省
  復刻版解説 大江志乃夫
  1995年6月30日 復刻版発行 原書房

市内のとある図書館で見つけた。アジア歴史資料センターで公開していただければ、いいのだけれども、しがらみからそうもいかないのだろう。
 日露戦争といっても旅順攻囲戦と後備役と脚気と屯田兵しか関心のない、市井の無知なミリタリーマニア、経済的事情と周囲の厳しい視線の為、なかなか勉強することもままならない。旅順攻囲戦で甚大な被害をだした。第九、第十一師団に劣らず、実はもっと悲惨な状況を迎えていたと思われる後備歩兵第一旅団と後備歩兵第四旅団、その損害は書き写してきたのだが、編成人員を把握していた訳ではなかった。上記の本はやたら数字だけがならんでいる司馬遼太郎なら跨いで通る内容なのだが、数字を写すのが好きな私には堪らない。

P453~454
 第三十 出征部隊應役人員月別
      三十七年六月盡日
後備歩兵第一旅団
 後備歩兵第一旅団司令部
   将官            1
   士官            2
   下士            2
   輸卒            3
   計             8
  獣医部 
   士官            1
  従卒             6
  馬卒             4
  軍属
   将校同等文官        1
   下士同等文官        3
   軍役夫           1
 合計             24

 後備歩兵第一連隊
   上長官           3
   士官           34
   准士官          10
   下士          137
   兵卒         1588
   輸卒          112
   計          1884
  経理部
   士官            2
   下士            2
   計             4
  衛生部
   士官            4
   下士            2
   看護手           8
   計            14
  馬卒            13
  軍属
   下士同等文官        1
   軍役夫           2
 合計           1918

 後備歩兵第十五連隊
   上長官           3
   士官           36
   准士官           8
   下士          140
   兵卒         1605
   輸卒          111
   計          1903
  経理部
   士官            2
   下士            2
   計             4
  衛生部
   士官            4
   下士            2
   看護手           8
   計            14
  馬卒            13
  軍属
   下士同等文官        1
   軍役夫           3
 合計           1938

 後備歩兵第十六連隊
   上長官           3
   士官           35
   准士官           8
   下士          142
   兵卒         1600
   輸卒          111
   計          1898
  経理部
   士官            2
   下士            2
   計             4
  衛生部
   上長官           1
   士官            3
   下士            2
   看護手           8
   計            14
  従卒            13
  軍属
   下士同等文官        1
   軍役夫           2
 合計           1932

後備歩兵第一旅団
   将官            1
   上長官           8
   士官          107
   准士官          26
   下士          421
   兵卒         4793
   輸卒          337
   計          5693
  経理部
   士官            6
   下士            6
   計            12
  衛生部
   上長官           1
   士官           11
   下士            6
   看護手          24
   計            42
  獣医部 
   士官            1
  従卒            19
  馬卒            30
  軍属
   将校同等文官        1
   下士同等文官        6
   軍役夫           8
 合計           5812 

後備歩兵第四旅団
 後備歩兵第一旅団司令部
   将官            1
   士官            2
   下士            2
   輸卒            3
   計             8
  獣医部 
   士官            1
  従卒             9
  馬卒             1
  軍属
   将校同等文官        2
 合計             21

 後備歩兵第八連隊
   上長官           3
   士官           36
   准士官           8
   下士          140
   兵卒         1606
   輸卒          112
   計          1905
  経理部
   士官            2
   下士            2
   計             4
  衛生部
   士官            4
   下士            3
   看護手           8
   計            15
  従卒            13
 合計           1937

 後備歩兵第九連隊
   上長官           3
   士官           30
   准士官           8
   准士官相当官        6
   下士          140
   兵卒         1606
   輸卒          112
   計          1905
  経理部
   士官            2
   下士            1
   計             3
  衛生部
   士官            4
   下士            2
   看護手           8
   計            14
  従卒             8
  馬卒             5
 合計           1935

 後備歩兵第三十八連隊
   上長官           3
   士官           31
   士官相当官         1
   准士官           6
   准士官相当官        4
   下士          140
   下士相当官         2
   兵卒         1606
   輸卒          112
   計          1905
  経理部
   士官            2
   下士            2
   計             4
  衛生部
   上長官           1
   士官            3
   士官相相当官        1
   下士            2
   看護手           8
   計            14
  従卒            13
  軍属
   下士同等文官        1
   軍役夫           3
 合計           1940

後備歩兵第四旅団
   将官            1
   上長官           9
   士官           99
   士官相当官         1
   准士官          22
   准士官相当官       10
   下士          422
   下士相当官         2
   兵卒         4818
   輸卒          339
   計          5723
  経理部
   士官            6
   下士            5
   計            11
  衛生部
   士官           11
   士官相当官         1
   下士            7
   看護手          24
   計            43
  獣医部 
   士官            1
  従卒            43
  馬卒             6
  軍属
   将校同等文官        2
   下士同等文官        1
   軍役夫           3
 合計           5833 

 平均寿命の短い当時、ましてや一家の大黒柱を集めた部隊の実情である。

 今週の読書
 朝日選書「報道電報検閲秘史 丸亀郵便局の日露戦争」竹山 恭二
  2004年12月25日発行 朝日新聞社

 ブックオフで買い求める。旅順攻囲戦を調べている者にとっては必読の書である。

推理小説

 「リスボンの小さな死 上」ロバート・ウィルスン 訳者 田村 義進
  2000年9月30日発行 ハヤカワ文庫

 通勤途中の地下鉄の中での読書だけが懲りない趣味との繋がりだった。会社の前にあるブック・オフから¥105で買い求めた本からでも世界は広がる。
 この本の上巻ではポルトガルのタングステンとドイツの関係が舞台となる。大戦前、ドイツが入手していた中国を始めとしたアジアやボリビアを始めとした中南米からのタングステンは大戦勃発後そのルートを絶たれる。

 「中立国の戦い」 飯山 幸伸
  2005年8月15日 光人社NF文庫
でも軽く触れられていたのだが、大戦勃発後はポルトガル、スペインから取得されるようになる。(絶対量にはまったく不足していたが)
 これらの事情はアジア歴史資料センターで見られる(探し出すまでが大変だった)一次資料からもうかがい知ることが出来る

 「秘 昭和十四年十一月
   重要鑛産資源ニ關スル調査 第一輯
             外務省通商局」
 「秘 昭和十四年十一月
   重要鑛産資源ニ關スル調査 第二輯
             外務省通商局」
 「極秘 昭和十五年十二月
    獨逸に於ける石炭、金属及び石油需給問題
                 外務省調査部」

 「世界情勢ノ動向 第2巻 第3巻」

 「外務省通商局日報」

 そうすると、周辺中立国の鉱産資源や軍需工業さらには、ドイツ占領下の国々の鉱産資源や軍需工業ととめどもなく想いは広がり、ああ~フランスの鉱産資源、枢軸国の鉱産資源、トルコの鉱産資源(クロム)と農産資源は?となるのである。

 諾威
ニッケル鉱 1937年主要鉱山名及産出品位

会社名 Raffineringsverket A/S avd. Evje
所在地 Efnje
産出量(単位噸) 15,963
品位 Ni 0.572 Cu 0.379-3.059

会社名 Raffinering verket AIS avd. Hosanger
所在地 Hosanger
産出量(単位噸)  6,184  
品位 Ni 5.823 Cu 2.185
などの記録を見ても、おそらく全量ドイツで使われるようになったんだと想像する。

 そして2年ぶりに図書館に行ったりすると

 「中立国スイスとナチズム-第二次大戦と歴史認識」
  原著者 独立専門家委員会 スイス=第二次大戦
  編訳者 黒澤隆文
  訳著者 川崎亜紀子 尾崎麻弥子 穐山洋子
  平成22年11月10日発行 京都大学学術出版会

という本が並んでいて、ドイツのハチハチが優秀なのはスイスの信管のおかげだったのかと理解する事になるし、水力発電の有難味が分かる。

寄せ集めの第七師団 NO.6

 世間は広いようで狭い、日露戦役当時、郷土部隊と呼ぶにはあまりにも少ない北海道出身者(その多くも道外で出生され、北海道に移住されてきたと思われる)と多くの道外出身者で構成された第7師団、きちんと学問的に研究なされ、論文にしている方がちゃんといらっしゃった。

  「年報 新人文学【第六号】
 北海道のおける徴兵制の展開 ―「国民皆兵」の虚実―
                  阿部 剛    」
 編集者 北海学園大学大学院研究科「年報 新人文学」編集委員会
 平成21年12月31日発行
 
 この論文のなかのP156に第7師団の年度ごと師管別徴集現役兵数の表があったので日露戦役ごろの様子を書き写す。

明治34年
 第7師管現役兵数    876 A
 第1師管現役兵数  1,200
 第2師管現役兵数    449
 第8師管現役兵数    180
 合計          2,705 B
 A/B 32.4%

明治35年
 第7師管現役兵数    909 A
 第1師管現役兵数  2,202
 第2師管現役兵数    751
 第8師管現役兵数    184
 合計          4,046 B
 A/B 22.5%

明治36年
 第7師管現役兵数  1,000 A
 第1師管現役兵数  1,963
 第2師管現役兵数    444
 第8師管現役兵数    112
 合計          3,519 B
 A/B 28.4%

明治37年
 第7師管現役兵数  1,010 A
 第1師管現役兵数  1,916
 第2師管現役兵数    703
 第8師管現役兵数     25
 合計          3,654 B
 A/B 27.6%

明治38年
 第7師管現役兵数  1,057 A
 第1師管現役兵数  1,821
 第2師管現役兵数    700
 第8師管現役兵数     76
 合計          3,654 B
 A/B 28.9%

 ちなみに第1師管(東京)、第2師管(仙台)、第8師管(弘前)の徴兵先は・・・・・

第七師団と奉天会戦

「明治卅七八年日露戰史 第九巻」参謀本部編纂
  大正二年七月二十日発行
 より、奉天会戦の第七師団の損害を書き写す。

●(明治38年2月27日~28日)
歩兵第二十五連隊第一大隊
 戦傷    将校     1 
        下士卒    4
 戦傷合計         5

歩兵第二十五連隊第二大隊
 戦死    下士卒    3
 戦傷    将校     1 
        下士卒   17
 戦傷合計        18
 戦死傷合計       22

歩兵第二十五連隊第三大隊
 戦傷     下士卒    1

歩兵第二十五連隊
 戦死合計  下士卒    3
 戦傷合計  将校     2 
         下士卒   22
 戦傷合計        24
 戦死傷合計       26

歩兵第二十八連隊第一大隊
 戦死    下士卒    6
 戦傷    将校     2 
        下士卒   12
 戦傷合計        14
 戦死傷合計       20

歩兵第二十八連隊第二大隊
 戦死    下士卒    3
 戦傷    将校     1 
        下士卒   13
 戦傷合計        14
 戦死傷合計       17

歩兵第二十八連隊
 戦死合計  下士卒    9
 戦傷合計  将校     3 
         下士卒   25
 戦傷総合計       28
 戦死傷総合計      37

騎兵第七連隊第一中隊
 戦傷    下士卒    1

騎兵第七連隊第三中隊
 戦死    下士卒    1
 戦傷    下士卒    3
 戦傷合計         4

騎兵第七連隊
 戦死合計  下士卒    1
 戦傷合計  下士卒    4
 戦死傷総合計       5

野戦砲兵第七連隊第三中隊
 戦傷    下士卒    1

第七師団
 戦死合計  下士卒   13
 戦傷合計  将校     5
         下士卒   52
 戦傷総合計       57
 戦死傷総合計      70

●(明治38年3月1日)
歩兵第二十五連隊第一大隊
 戦傷    下士卒    4

歩兵第二十五連隊第三大隊
 戦傷    下士卒    1

歩兵第二十五連隊
 戦傷合計  下士卒    5

騎兵第七連隊第一中隊
 戦傷    将校     1

騎兵第七連隊第三中隊
 戦傷    下士卒    1

騎兵第七連隊
 戦傷合計  将校     1
         下士卒    1
 戦傷総合計        2

第七師団
 戦傷合計  将校     1
         下士卒    6
 戦傷総合計        7  
     
●(明治38年3月2日)
歩兵第二十五連隊第一大隊
 戦死    下士卒    5
 戦傷    将校     1 
        下士卒   29
 戦傷合計        30
 戦死傷合計       35

歩兵第二十五連隊第二大隊
 戦死    下士卒   14
 戦傷    将校     2 
        下士卒   65
 戦傷合計        67
 戦死傷合計       81

歩兵第二十五連隊第三大隊
 戦死    下士卒   12
 戦傷    下士卒   51
 戦死傷合計       63

歩兵第二十五連隊
 戦死合計  下士卒   31
 戦傷合計  将校     3 
         下士卒  145
 戦傷総合計      148
 戦死傷総合計      179

歩兵第二十八連隊連隊本部
 戦死    下士卒    1
 戦傷    下士卒    2
 戦死傷合計       20

歩兵第二十八連隊第二大隊
 戦傷    将校     1 
        下士卒    2
 戦傷合計         3

歩兵第二十八連隊第三大隊
 戦死     下士卒    1

歩兵第二十八連隊
 戦死合計  下士卒    2
 戦傷合計  将校     1 
         下士卒    4
 戦傷総合計        5
 戦死傷総合計       7

騎兵第七連隊第一中隊
 戦死    将校     1
 戦傷    下士卒    3
 戦傷合計         4
 戦死傷合計        5

野戦野砲第七連隊第一中隊
 戦傷    下士卒    1

野戦野砲第七連隊第二中隊
 戦傷    将校     1
        下士卒    2
 戦傷合計         3

野戦野砲第七連隊第三中隊
 戦傷    下士卒    1

野戦砲兵第七連隊
 戦傷    将校     1
        下士卒    4
 戦傷合計         5

工兵第七大隊第一中隊
 戦傷    将校    1

工兵第七大隊第二中隊
 戦傷    下士卒    2

工兵第七大隊
 戦傷    将校     1
        下士卒    2
 戦傷合計         3

衛生隊
 戦傷    下士卒    3

第七師団
 戦死合計  将校     1
         下士卒   33
 戦傷合計  将校     6
         下士卒  161
 戦死総合計       34
 戦傷総合計      167
 戦死傷総合計     201

●(明治38年3月3日)
歩兵第二十五連隊連隊本部
 戦傷    下士卒    2

歩兵第二十五連隊第一大隊
 戦傷    下士卒    2

歩兵第二十五連隊第二大隊
 戦死    下士卒   17
 戦傷    将校     3 
        下士卒   76
 戦傷合計        79
 戦死傷合計       96

歩兵第二十五連隊第三大隊
 戦死    下士卒   10
 戦傷    将校     1
        下士卒   36
 戦傷合計        37
 戦死傷合計       47

歩兵第二十五連隊
 戦死合計  下士卒   27
 戦傷合計  将校     4 
         下士卒  121
 戦傷総合計      125
 戦死傷総合計     152

歩兵第二十六連隊第三大隊
 戦傷合計  下士卒    6
 (俘虜   下士卒    1)

歩兵第二十八連隊第二大隊
 戦傷    下士卒    1

歩兵第二十八連隊第三大隊
 戦死    下士卒    3
 戦傷    将校     3
        下士卒    5
 戦傷合計         8
 戦死傷合計       11

歩兵第二十八連隊
 戦死合計  下士卒    3
 戦傷合計  将校     3 
         下士卒    6
 戦傷総合計        9
 戦死傷合計       12

騎兵第七連隊第一中隊
 戦傷    下士卒    1
 
騎兵第七連隊第三中隊
 戦死    下士卒    1
 戦傷    将校     2
        下士卒    4
 戦傷合計         6
 戦死傷合計        7
 
騎兵第七連隊
 戦死    下士卒    1
 戦傷    将校     2
        下士卒    5
 戦傷合計         7
 戦死傷合計        8

野戦野砲第七連隊連隊本部
 戦傷   将校     1 
       下士卒    1

 戦傷合計        2

野戦野砲第七連隊第一中隊
 戦死    将校     2
 戦傷    下士卒   13
 戦死傷合計       15

野戦野砲第七連隊第二中隊
 戦死    下士卒    1
 戦傷    将校     2
        下士卒   10
 戦傷合計        12
 戦死傷合計       13

野戦野砲第七連隊第三中隊
 戦死    将校     1
        下士卒    4
 戦死合計         5
 戦傷    下士卒   14
 戦死傷合計       19

野戦野砲第七連隊第四中隊
 戦傷    下士卒    1

野戦砲兵第七連隊
 戦死合計  将校     1
         下士卒    7
 戦傷合計  将校     3
         下士卒   39
 戦死総合計        8
 戦傷総合計       42
 戦死傷総合計      50

工兵第七大隊第二中隊
 戦傷    下士卒    4

衛生隊
 戦傷    下士卒    6

第七師団
 戦死合計  将校     1
         下士卒   38
 戦傷合計  将校    12
         下士卒  187
 戦死総合計       39
 戦傷総合計      199
 戦死傷総合計     238

●(明治38年3月4日)
歩兵第二十六連隊第三大隊
 戦死    下士卒    1

歩兵第二十七連隊第一大隊
 戦死    将校     1
        下士卒   25
 戦傷    将校     5
        下士卒  132
 戦死合計        26
 戦傷合計       137
 戦死傷合計      163

歩兵第二十七連隊第二大隊
 戦傷    下士卒    1

歩兵第二十七連隊第三大隊
 戦傷    将校     1
        下士卒    6
 戦傷合計         7

歩兵第二十七連隊
 戦死合計  将校     1
         下士卒   25
 戦傷合計  将校     6 
         下士卒  139
 戦死総合計       26
 戦傷総合計      145
 戦死傷総合計     171

歩兵第二十八連隊第一大隊
 戦死    下士卒   11
 戦傷    将校     3 
       下士卒   95
 戦傷合計        98
 戦死傷合計      109

騎兵第七連隊第一中隊
 戦傷    将校     1
        下士卒    1
 戦傷合計         2

騎兵第七連隊第三中隊
 戦傷    下士卒    2
 
騎兵第七連隊
 戦傷合計  将校     1
         下士卒    3
 戦傷総合計        4

野戦野砲第七連隊連隊本部
 戦傷    下士卒    1

野戦野砲第七連隊第二中隊
 戦傷    将校     1
        下士卒    4
 戦傷合計         4

野戦野砲第七連隊第三中隊
 戦傷    下士卒    3

野戦野砲第七連隊第四中隊
 戦死    下士卒    1
 戦傷    下士卒    1
 戦死傷合計        2

野戦砲兵第七連隊
 戦死    下士卒    1
 戦傷合計  将校     1
        下士卒    8
 戦傷総合計        9
 戦死傷総合計      10

衛生隊
 戦死    将校     1
 戦傷    下士卒    2
 戦死傷合計        3

第七師団
 戦死合計  将校     2
         下士卒   38
 戦傷合計  将校    11
         下士卒  247
 戦死総合計       40
 戦傷総合計      258
 戦死傷総合計     298

●(明治38年3月5日)
歩兵第二十五連隊第一大隊
 戦傷    将校     1

歩兵第二十五連隊第三大隊
 戦傷    下士卒    1

歩兵第二十五連隊
 戦傷    将校     1 
       下士卒    1
 戦傷合計         2

歩兵第二十六連隊第一大隊
 戦死    将校     1
       下士卒   12
 戦傷    将校     1
        下士卒   49
 戦死合計        13
 戦傷合計        50
 戦死傷合計       63

歩兵第二十八連隊第一大隊
 戦傷    下士卒    8

歩兵第二十八連隊第二大隊
 戦傷    将校     1
        下士卒    7
戦傷合計         8
 
歩兵第二十八連隊第三大隊
 戦傷    下士卒    2

歩兵第二十八連隊
 戦傷合計  将校     1
         下士卒   17
 戦傷総合計       18

野戦野砲第七連隊第一中隊
 戦傷    将校     1

野戦野砲第七連隊第二中隊
 戦傷    下士卒    1

野戦砲兵第七連隊
 戦傷    将校     1
        下士卒    1
 戦傷合計         2

工兵第七大隊第一中隊
 戦傷    下士卒    1

第一野戦病院
 戦死    下士卒    1
 戦傷    下士卒    6

第七師団
 戦死合計  将校     1
         下士卒   13
 戦傷合計  将校     4
         下士卒   70
 戦死総合計       14
 戦傷総合計       74
 戦死傷総合計      88

●(明治38年3月6日)
歩兵第二十五連隊第一大隊
 戦死    将校     3
        下士卒   42
 戦傷    将校     5
        下士卒  213
 戦死合計        45
 戦傷合計       218
 戦死傷合計      263

歩兵第二十五連隊第三大隊
 戦死    下士卒    2
 戦傷    下士卒    3
 戦死傷合計        5

歩兵第二十五連隊
 戦死合計  将校     3
         下士卒   44
 戦傷合計  将校     5 
         下士卒  216
 戦死総合計       47
 戦傷総合計      221
 戦死傷総合計     268

歩兵第二十七連隊連隊本部
 戦傷    下士卒    2

歩兵第二十七連隊第一大隊
 戦死    下士卒    3
 戦傷    下士卒   11
 戦死傷合計       14

歩兵第二十七連隊第二大隊
 戦死    将校     1
        下士卒   60
 戦傷    将校     4
        下士卒  126
 戦死合計        61
 戦傷合計       130        
 戦死傷合計      191
(俘虜    下士卒    2)

歩兵第二十七連隊第三大隊
 戦死    将校     6
        下士卒  132
 戦傷    将校     6
        下士卒  177
 戦死合計       138
 戦傷合計       183        
 戦死傷合計      321
(俘虜    将校     1 
       下士卒   10)

歩兵第二十七連隊
 戦死合計  将校     7
         下士卒  195
 戦傷合計  将校    10 
         下士卒  316
 戦死総合計      202
 戦傷総合計      326
 戦死傷合計      528

歩兵第二十八連隊連隊本部
 戦傷    下士卒    2

歩兵第二十八連隊第一大隊
 戦傷    下士卒   21
(俘虜    下士卒    1)

歩兵第二十八連隊第二大隊
 戦死    下士卒    9
 戦傷    将校     3
        下士卒  100
 戦傷合計       103
 戦死傷合計      112

歩兵第二十八連隊
 戦死合計  下士卒    9
 戦傷合計  将校     3 
           下士卒  123
 戦傷合計       126
 戦死傷合計      135

 
騎兵第七連隊第一中隊
 戦傷    将校    1

野戦野砲第七連隊第一中隊
 戦死    将校     1
       下士卒    1
 戦傷    下士卒    1
 戦死合計         2
 戦死傷合計        3

野戦野砲第七連隊第二中隊
 戦傷    下士卒    4

野戦野砲第七連隊第三中隊
 戦傷    下士卒    5 

野戦野砲第七連隊第四中隊
 戦傷    下士卒    4

野戦砲兵第七連隊
 戦死    将校     1
         下士卒    1
 戦傷    下士卒   14
戦死合計         2
戦死傷合計       16

衛生隊
 戦傷    下士卒    3

第七師団
 戦死合計  将校    11
                     下士卒  249
 戦傷合計  将校    19
            下士卒  672
 戦死総合計      260
 戦傷総合計      691
 戦死傷総合計     951

●(明治38年3月7日)
第七師団司令部
 戦死    下士卒    1
 戦傷    将校     1
        下士卒    1
 戦傷合計         2
 戦死傷合計        3

歩兵第二十五連隊第一大隊
 戦死    下士卒    5
 戦傷    将校     2
        下士卒   30
 戦傷合計        32
 戦死傷合計       37

歩兵第二十五連隊第二大隊
 戦死    下士卒    7
 戦傷    将校     3
        下士卒   62
 戦傷合計        65
 戦死傷合計       72

歩兵第二十五連隊第三大隊
 戦死    下士卒    8
 戦傷    将校     1
       下士卒   26
 戦傷合計        27
 戦死傷合計       35

歩兵第二十五連隊
 戦死合計  下士卒   44
 戦傷合計  将校     6 
         下士卒  118
 戦傷総合計      124
 戦死傷合計      144

歩兵第二十六連隊第一大隊
 戦死    下士卒    3
 戦傷    下士卒   17
 戦死傷合計       20

歩兵第二十六連隊第二大隊
 戦死    将校     1
        下士卒    5
 戦傷    将校     1
        下士卒   55
 戦死合計         6
 戦傷合計        56        
 戦死傷合計       62

歩兵第二十六連隊第三大隊
 戦死    下士卒    2
 戦傷    下士卒    9       
 戦死傷合計       11

歩兵第二十六連隊
 戦死合計  将校     1
         下士卒   10
 戦傷合計  将校     1 
         下士卒   81
 戦死総合計       11
 戦傷総合計       82
 戦死傷総合計      93

歩兵第二十七連隊第一大隊
 戦死    下士卒    2
 戦傷    下士卒    9
 戦死傷合計       11

歩兵第二十七連隊第三大隊
 戦死    下士卒    2
 戦傷    下士卒   24        
 戦死傷合計       26

歩兵第二十七連隊
 戦死合計  下士卒    4
 戦傷合計  下士卒   33
 戦死傷合計       37

歩兵第二十八連隊第一大隊
 戦傷    下士卒    1

歩兵第二十八連隊第二大隊
 戦死    下士卒    6
 戦傷    将校     1
        下士卒   26
 戦傷合計        27
 戦死傷合計       33

歩兵第二十八連隊第三大隊
 戦死    下士卒    2
 戦傷    下士卒   19
 戦死傷合計       21

歩兵第二十八連隊
 戦死合計  下士卒    8
 戦傷合計  将校     1 
         下士卒   46
 戦傷総合計       47
 戦死傷総合計      55

野戦野砲第七連隊第一大隊本部
 戦傷    将校     1

野戦野砲第七連隊第一中隊
 戦死    下士卒    1
 戦傷    下士卒    1
 戦死傷合計        2

野戦野砲第七連隊第三中隊
 戦傷    将校     1 
        下士卒    6
 戦傷合計         7 

野戦野砲第七連隊第四中隊
 戦死    下士卒    1
 戦傷    下士卒    4
 戦死傷合計        5

野戦砲兵第七連隊
 戦死合計  下士卒    2
 戦傷合計  将校     2 
         下士卒   11
 戦傷総合計       13
 戦死傷総合計      15

衛生隊
 戦死    下士卒    2
 戦傷    下士卒    4
 戦死傷合計        6

第七師団
 戦死合計  将校     1
         下士卒   47
 戦傷合計  将校    11
         下士卒  296
 戦死総合計       48
 戦傷総合計      307
 戦死傷総合計     355

●(明治38年3月8日)
歩兵第十三旅団司令部
 戦傷    将校     1

歩兵第二十五連隊第二大隊
 戦死    下士卒    9
 戦傷    将校     3
        下士卒   55
 戦傷合計        58
 戦死傷合計       67

歩兵第二十五連隊第三大隊
 戦死    将校     1
        下士卒   20
 戦傷    将校     1
        下士卒   88
 戦死合計        21
 戦傷合計        89
 戦死傷合計      110

歩兵第二十五連隊
 戦死合計  将校     1
         下士卒   29
 戦傷合計  将校     4 
         下士卒  143
 戦死総合計       30
 戦傷総合計      147
 戦死傷合計      177

歩兵第二十六連隊連隊本部
 戦傷    将校     2

歩兵第二十六連隊第一大隊
 戦死    下士卒    1
 戦傷    下士卒    1
 戦死傷合計        2

歩兵第二十六連隊第二大隊
 戦死    下士卒    2
 戦傷    将校     1
        下士卒   34
 戦傷合計        35        
 戦死傷合計       37

歩兵第二十六連隊第三大隊
 戦死    将校     2
        下士卒   63
 戦傷    将校     4
        下士卒  181
 戦死合計        65
 戦傷合計       185        
 戦死傷合計      250

歩兵第二十六連隊
 戦死合計  将校     2
         下士卒   66
 戦傷合計  将校     7 
         下士卒  216
 戦死総合計       68
 戦傷総合計      223
 戦死傷合計      291

歩兵第二十七連隊第一大隊
 戦傷    下士卒    1

歩兵第二十七連隊第二大隊
 戦死    下士卒    8
 戦傷    将校     1
        下士卒   52
 戦傷合計        53        
 戦死傷合計       61

歩兵第二十七連隊第三大隊
 戦死    下士卒    1
 戦傷    将校     2
        下士卒    3
 戦傷合計         5        
 戦死傷合計        6

歩兵第二十七連隊
 戦死合計  下士卒    9
 戦傷合計  将校     3 
         下士卒   56
 戦傷総合計       59
 戦死傷総合計       68

歩兵第二十八連隊第一大隊
 戦傷    将校     2
        下士卒   36
 戦傷合計        38

歩兵第二十八連隊第二大隊
 戦傷    下士卒    3

歩兵第二十八連隊第三大隊
 戦傷    下士卒    1

歩兵第二十八連隊
 戦傷合計  将校     2
         下士卒   40
 戦傷合計         42

騎兵第七連隊連隊本部
 戦傷    下士卒    1

騎兵第七連隊第一中隊
 戦死    下士卒    2
 戦傷    下士卒    2
 戦死傷合計       4

騎兵第七連隊第三中隊
 戦傷    下士卒    1

騎兵第七連隊
 戦死    下士卒   2
 戦傷    下士卒   5
 戦死傷合計       7

野戦野砲第七連隊第一隊隊本部
 戦傷    将校     1

野戦野砲第七連隊第一中隊
 戦傷    下士卒    2

野戦野砲第七連隊第二中隊
 戦傷    下士卒    3

野戦野砲第七連隊第四中隊
 戦傷    下士卒    1

野戦砲兵第七連隊
 戦傷    将校     1
        下士卒    6
 戦傷合計         7

衛生隊
 戦傷    下士卒    1

第七師団
 戦死合計  将校     3
         下士卒  106
 戦傷合計  将校    18
         下士卒  467
 戦死総合計      109
 戦傷総合計      485
 戦死傷総合計     594

●(明治38年3月9日)
第七師団司令部
 戦死    将校     2

歩兵第二十五連隊第三大隊
 戦傷合計  下士卒    2

歩兵第二十六連隊連隊本部
 戦傷    将校     1
        下士卒    1

歩兵第二十六連隊第一大隊
 戦死    将校     1
        下士卒   15
 戦傷    将校     2
        下士卒   51
 戦死合計        16
 戦傷合計        53
 戦死傷合計       69
(俘虜    下士卒    2)

歩兵第二十六連隊第二大隊
 戦傷    下士卒    5

歩兵第二十六連隊第三大隊
 戦死    下士卒    1
 戦傷    下士卒    1       
 戦死傷合計        2

歩兵第二十六連隊
 戦死合計  将校     1
         下士卒   16
 戦傷合計  将校     2 
         下士卒   57
 戦死総合計       17
 戦傷総合計       59
 戦死傷総合計       76

歩兵第二十七連隊第一大隊
 戦傷    下士卒    9

歩兵第二十七連隊第二大隊
 戦死    将校     2
        下士卒   29
 戦傷    将校     7
        下士卒   82
 戦死合計        31
 戦傷合計        89        
 戦死傷合計      120

歩兵第二十七連隊第三大隊
 戦死    下士卒    7
 戦傷    下士卒   24        
 戦死傷合計       31

歩兵第二十七連隊
 戦死合計  将校     2
         下士卒   36
 戦傷合計  将校     7 
         下士卒  115
 戦死総合計       38
 戦傷総合計      122
 戦死傷総合計     160

歩兵第二十八連隊第一大隊
 戦死    下士卒   35
 戦傷    下士卒   78
 戦死傷合計      113   

歩兵第二十八連隊第二大隊
 戦死    将校     2
        下士卒   15
 戦傷    将校     1 
        下士卒   58
 戦死合計        17
 戦傷合計        59
 戦死傷合計       76
(俘虜    下士卒    1)

歩兵第二十八連隊第三大隊
 戦死    将校     2
        下士卒   61
 戦傷    将校     3
        下士卒  182
 戦死合計        63
 戦傷合計       185
 戦死傷合計      248

歩兵第二十八連隊
 戦死合計  将校     4
         下士卒  111
 戦傷合計  将校     4
         下士卒  318
 戦死総合計      115
 戦傷総合計      322
 戦死傷総合計     437

野戦野砲第七連隊第一中隊
 戦傷    下士卒    4

野戦野砲第七連隊第二中隊
 戦傷    将校     1
        下士卒    3

野戦野砲第七連隊第三中隊
 戦傷    下士卒    1

野戦砲兵第七連隊
 戦傷合計  将校     1    
         下士卒    8

 戦傷総合計         9

第七師団
 戦死合計  将校     9
         下士卒  163
 戦傷合計  将校    14
         下士卒  500
 戦死総合計      172
 戦傷総合計      514
 戦死傷総合計     686

●(明治38年3月10日)
歩兵第二十五連隊第三大隊
 戦傷    下士卒   15

歩兵第二十六連隊連隊本部
 戦傷    将校     1
        下士卒    1

歩兵第二十六連隊第一大隊
 戦死    将校     3
        下士卒   90
 戦傷    将校     3
        下士卒  108
 戦死合計        93
 戦傷合計       111
 戦死傷合計      204

歩兵第二十六連隊第二大隊
 戦死    将校     2
        下士卒   26
 戦傷    将校     1
        下士卒  148
 戦死合計        28
 戦傷合計       149        
 戦死傷合計      177

歩兵第二十六連隊第三大隊
 戦死    将校     1
        下士卒   22
 戦傷    将校     2
        下士卒   53
 戦死合計        23
 戦傷合計        55        
 戦死傷合計       78

歩兵第二十六連隊
 戦死合計  将校     6
         下士卒  138
 戦傷合計  将校     7 
         下士卒  310
 戦死総合計      144
 戦傷総合計      317
 戦死傷総合計     461

歩兵第二十七連隊第一大隊
 戦死    将校     1
        下士卒   30
 戦傷    将校     4
        下士卒   83
 戦死合計        31
 戦傷合計        87        
 戦死傷合計      118

歩兵第二十七連隊第二大隊
 戦死    将校     2
        下士卒   25
 戦傷    下士卒   44
 戦死合計        27        
 戦死傷合計       71

歩兵第二十七連隊第三大隊
 戦死    将校     1
        下士卒   41
 戦傷    将校     2
        下士卒  107
 戦死合計        42
 戦傷合計       109        
 戦死傷合計      151

歩兵第二十七連隊
 戦死合計  将校     4
         下士卒   96
 戦傷合計  将校     6 
         下士卒  234
 戦死総合計      100
 戦傷総合計      240
 戦死傷総合計     340

歩兵第二十八連隊連隊本部
(俘虜    将校     1)

歩兵第二十八連隊第一大隊
 戦死    下士卒   54
 戦傷    将校     3
        下士卒   96
 戦傷合計        99
 戦死傷合計      153    
(俘虜    下士卒    3)

歩兵第二十八連隊第二大隊
 戦死    下士卒   11
 戦傷    下士卒   31
 戦死傷合計       42
(俘虜    下士卒    3)

歩兵第二十八連隊第三大隊
 戦死    将校     2
        下士卒   20
 戦傷    下士卒   77
 戦死合計        22
 戦死傷合計       99

歩兵第二十八連隊
 戦死合計  将校     2
         下士卒   85
 戦傷合計  将校     3
         下士卒  204
 戦死合計        87
 戦傷総合計      207
 戦死傷総合計     294

野戦野砲第七連隊第一中隊
 戦傷    下士卒    1

野戦野砲第七連隊第四中隊
 戦傷    下士卒    1

野戦砲兵第七連隊
 戦傷    下士卒    2

衛生隊
 戦傷    下士卒    1

第七師団
 戦死合計  将校    12
         下士卒  319
 戦傷合計  将校    16
         下士卒  767
 戦死総合計      331
 戦傷総合計      783
 戦死傷総合計    1114

★全期間中(明治38年2月27日~3月18日)

第七師団司令部
 戦死    将校     2
        下士卒    1
 戦傷    将校     1
       下士卒    1
 戦死合計         3
 戦傷合計         2
 戦死傷合計        5

第七師団歩兵第十三旅団旅団司令部
 戦傷    将校     1

歩兵第二十五連隊
 戦死    将校     4
        下士卒  154
 戦傷    将校    25
        下士卒  788
 戦死合計       158
 戦傷合計       813
 戦死傷合計      971

歩兵第二十六連隊
 戦死    将校    11
        下士卒  243
 戦傷    将校    18
        下士卒  719
 戦死合計       254
 戦傷合計       737
 戦死傷合計      991
(俘虜    下士卒    6)

歩兵第二十七連隊
 戦死    将校    14
        下士卒  365
 戦傷    将校    32
        下士卒  893
 戦死合計       379
 戦傷合計       925
 戦死傷合計     1304
(俘虜    将校     1
       下士卒   14)

歩兵第二十八連隊
 戦死     将校     6
         下士卒  238
 戦傷     将校    24
         下士卒  878
 戦死合計       244
 戦傷合計       902
 戦死傷合計     1146
(俘虜    将校     1
       下士卒    9)

騎兵第七連隊
 戦死     将校     1
         下士卒    5
 戦傷     将校     6
         下士卒   24
 戦死合計          6
 戦傷合計         30
 戦死傷合計        36

野戦砲兵第七連隊
 戦死     将校     2
         下士卒   11
 戦傷     将校    10
         下士卒   94
 戦死合計         13
 戦傷合計        104
 戦死傷合計       117

工兵第七大隊
 戦傷     将校     1
         下士卒   10
 戦傷合計         11

衛生隊
 戦死     将校     1
         下士卒    2
 戦傷     下士卒   20
 戦死合計          3
 戦死傷合計        23

第一野戦病院
 戦死     下士卒    1
 戦傷     下士卒    1
 戦死傷合計         2

第七師団
 戦死合計  将校    41
         下士卒 1020
 戦傷合計  将校   118
         下士卒 3428
 戦死総合計     1061
 戦傷総合計     3546
 戦死傷総合計    4607

(俘虜    将校     2
       下士卒   29)