嗚呼原子力潜水艦

 2010年9月号の「旧海軍の伝統が香る戦後国産タイプ(このタイトルを考えて戴いた編集部の方に、御礼申し上げます)」の中で、昭和三〇年に防衛庁が行った「潜水艦の独自整備に関する研究」の中で、「原子力潜水艦の建造が可能であるか」についての物もあったことを触れています。

 これについての防衛庁の公式見解は、「我が国で原子力潜水艦を建造すること、保有することは法的に見て問題はない」というものでした。但し当時の情勢から、「原子力潜水艦の建造は、予算や技術的問題もあって時期尚早」とされたので、当面は通常型潜水艦の整備を行う予定とされました。因みに海外では、この見解は「将来日本は原潜を造る」ものとして受け止められ、Janeとかでは結構長い間、「日本の原潜保有計画」の話が忘れた頃に飛び出てくることにもなります(昭和五〇年頃に軍事評論家の故・青木日出雄大先生曰く、「日本が原潜を持たないのと、核武装しないのは、世界の軍事情勢の七不思議の一つとして捉えられている、と言われていたこともありましたっけ…)。

 日本の原潜保有は今なお夢物語でしかありませんが、まあその昔にそんな話もあったと言うことで。

見本紙を読む&その内容に関する追記

 久しぶりの更新は、とある米戦艦の話にでもしようかと思っていたのだけど、本日地区連合会の仕事から戻ってきたら、「決定版・太平洋戦争(7)」の見本誌が来ていたので、それ絡みの話をちょっとばかり。

 このシリーズは基本的に写真・図の選定及びキャプション書きを、各稿担当のライターではなく編集さんがやるので、個人的には「サマール沖海戦のの日本艦隊の初動解説、おかしいだろう」とかブツブツと言いたいところは少々ありますが、本の出来は例によって例のごとしでまあ良き哉、と思える物でありますので、御興味のある方は本屋で立ち読みの上で、御購入を検討していただければ幸いです。

 あと私が担当した部分で、スペースの都合か説明が省かれたところがあったので、ちょっとそれに関する話を。P116に「太平洋戦争における米潜水艦の実動数の推移」という表がありますが、あれは実際には「太平洋戦争時における米太平洋艦隊(アジア艦隊含む)所属潜水艦の月別哨戒実施艦数」表で、太平洋艦隊の訓練艦や保管状態の艦(戦争末期のP/S/T級とか)、整備休養及び改装中の艦は入っていませんし、大西洋艦隊の艦は状態問わず入っていません。あの表に記載されている数値が、戦時中の米の潜水艦保有量に比べて、妙に少ない感があるのはこのためです。

 それと内容について若干捕捉。

(1)1942年3月に実動数が一気に減るのは、豪州に後退したアジア艦隊所属艦がこの月に殆ど活動しないため。
(2)1942年6月に実動数が上がるのは、旧S級の多くが現役復帰したことによるもの。逆に同年末以降暫く実動兵力が減るのは、旧S級が一部を除き第一線任務から外れるため。
(3)1943年春~初夏の兵力増大は、大西洋での潜水艦の哨戒実施が不要と見なされたため、大西洋艦隊所属の艦隊型潜水艦が太平洋艦隊へと転籍された影響もある。

 …まあこんな所でしょうか。実際の中身については、御覧になっていただければありがたく思います。

SCB27改装に関する雑記

 ちと原稿を書くのに疲れたので、気分転換に某所で話題になった話についてもそもそと書き込んでみる。

 元々エセックス級の近代化計画であるSCB27という計画は、一九四〇年代末期の空母一〇隻態勢の元に検討されたため、合計七隻だけやる予定でありました。この当時改装の対象艦は艦の状態が良く、改装予算が抑えられる艦が望ましいとされましたが、某所で述べたようにその中にフランクリンの名前があるのは、注目すべき点と言えます。
 その他の艦については、戦後稼動していた八隻については、そのうち一隻のみはSCB27改装の改装対象艦とするものの、七隻は第一線空母としての寿命が尽きるまで交替させつつ運用を続ける予定になっていました。またバンカーヒルを初めとする残りの艦は、そのままでは新型艦載機の運用が困難であることもあり、何も起こらなければそのまま海軍工廠で錆びて朽ちゆくはずでした。

 朝鮮戦争勃発後にこの情勢が変わり、ローテーションの都合から艦隊空母の勢力を十六隻に拡大する事が決定します。この際にSCB27改装の対象艦数は一九五三年までに七隻が拡大され、SCB27を実施した状態で完工する予定のオリスカニーを含めて十五隻がこの改装を受ける予定となります。この後空母勢力が二〇隻に拡大されたこともあり、さらに二隻を追加改装することも検討されますが ー これの対象艦がフランクリンとバンカーヒルだとする資料があります ー 、FY52以降新造空母の継続建造に目処が立っていたこともあり、これ以上エセックス級の改装は必要無しとされて実施には至りませんでした。
 この決定に伴い、当時第一線で運用されていた六隻のエセックス原型と、練習空母として運用されていたアンティータムもこれ以上の改装は実施しないことになりました。練習空母としてそのまま退役したアンティータムを除いた六隻のうち、三隻は後にLPHに改装されてなおも運用が継続されますが、三隻はフランクリンとバンカーヒルと共に一九五九年に航空機運用艦に転籍・退役となり、以後現役に復帰する事はありませんでした。

 なお、一九五一年になると、H8カタパルトを装備した初期のSCB27A改装艦は、カタパルトの能力問題から早期に艦載機の大型化に追随できないことが判明してしまいます(同年以降のSCB27改装が、蒸気カタパルト装備のSCB27C改装とされたのは、この理由によります)。だがこれらの艦は当時護衛空母と軽空母が充当されていた対潜空母としては有効に使用出来ると判断されたため、九隻改装されたうち七隻は再度SCB125改装を受けることになり、その後能力の陳腐化に伴って対潜空母籍に転じられますが、一九六〇年代後半まで就役を続けることになります。またSCB27A改装艦のうち、より大規模な改造に適するとされたオリスカニーはSCB27C+SCB125A改装艦が実施されて、他の六隻のSCB27C改装艦と共に攻撃空母として長く就役を続けました。その一方で、オリスカニーと同様の改装を受けるはずだったレイク・シャンプレンは、新型空母の増勢が順調で改装の必要が無くなったため、一九五七年にSCB125改装未実施のまま対潜空母に転籍され、最後まで「単軸甲板」型のエセックス級として一九六九年まで就役を続けることになります。 

 二四隻が竣工したエセックス級の中で、ただ二隻戦後に就役しなかった・改装を受けなかった艦としてフランクリンとバンカーヒルの両艦は注目されますが、状況によってはSCB27C+SCB125改装の対象になったかも知れず、改装の非対象となった理由については、当時の空母整備の情勢を良く見た上でさらに良く精査する必要がある様に思われます。またこの両艦同様に改装対象にされず、原型のまま消えていった艦が三隻あることも覚えていて良いことかも知れません。

完全版 妙高型重巡(1) スラバヤ沖雑記

 気がついたら題記の本が出ておりました。見本紙を読んでみれば、もう少し厚ければあれとかこれとか出来たんだがなぁ、とは思う物のまあ悪くはない出来かなとも思えます。個人的にはそれなりに売れてくれれば良いなと思う次第。

 さて、今回は戦記が大盤振る舞いで3本載ってますが、今回は最初のスラバヤ沖に関しての若干の追記。

(1)二水戦の突撃

 現在洋書資料では、第五戦隊司令部からの突撃命令を受けて、二水戦が「演習のように簡単である」と意気高い信号を返して突撃、雷撃でコルテノールを沈めた、という話が一般的になっています。これは本文でも書きましたように、当時「天津風」の艦長であった原為一元大佐著の「Japanese Destroyer’s Captain」が海外で発刊された1960年代に一般化した話で、これ以前に出されたモリソン戦史にも類似の記載があるため、海外では当事者も書いて居るんだしこれが正しいのじゃろ、として現在定説になっています。
 ただこの本を実際に読むと、1837時の「全軍突撃せよ」と1924時以降に行われた二水戦の雷撃戦が混同されていて、突撃以降の話は1924時からの雷撃戦の話が記載されています。二水戦の戦闘詳報では本文に書いたとおり、この時期突撃した様相は伺えません。私は原本の「連合艦隊の最後」を読んでいないのでこの誤解が原本の時点で発生したのか、それとも米側の訳者が間違えたのか判断出来ませんが、1837時の突撃命令に応じた「二水戦の突撃」が、実際に起きてはいないことは確かです。

(2)米駆逐艦の突撃

 これは逆にモリソン戦史や米駆逐艦の半公刊戦記を初めとして、米側の戦記にはあらかた書いてありますが、日本側では当時の戦闘詳報・戦後の戦史叢書を初めとして全く無視されているものです。これについては米駆逐艦が襲撃運動を行い、魚雷を発射したのは確かですが、日本側には「米駆逐艦が煙幕の中から出てきてちょっと交戦して、また戻っていった」ぐらいのイメージしかなかったので、結果として無視されたのでは無いか、と言う気がします。実際米駆逐艦の半公刊戦史の航跡図では堂々たる襲撃運動やってますが、モリソン戦史の航跡図を見ると「ABDA艦隊後方の煙幕を突き出て、日本艦隊側に出たところで魚雷を撃って即時反転離脱」とも取れますので…。

(3)「ポープ」を襲う謎の急降下爆撃隊

 これは日本側資料・米側資料共に同艦が「龍驤の飛行隊」に爆撃されたことで一致しています。しかし日本側では「龍驤の九七式艦攻は水平爆撃を実施」したと考えられているのに、米側では常に「急降下爆撃でやられた」と書かれるため、「龍驤は九九式艦爆を臨時搭載していたのか?はてまた九七式艦攻で緩降下爆撃でもやったのか(゚∀゚)?」との疑問を持つ人も少なくありません。

 今回第五戦隊の第二次合戦の戦闘詳報を真面目に読んだところ、同日の一三〇〇時に第十一航空艦隊より「敵艦隊攻撃のため、零式観測機隊を一二四〇時に発進させた」という電文が発せられていることが分かりました。
 これを裏付ける資料を探したところ、当時第二次合戦の状況を上空から眺めていた安永弘氏の「死闘の水偵隊」に、観測機隊が艦攻隊より早く「ポープ」に降爆を実施していることが記載されていました。因みに同著の記載によれば、観測機隊の爆撃は駆逐艦の回避運動で全弾回避され、引き続いて行われた艦攻隊の爆撃で損傷を与えたとなっており、同艦に致命傷を与えたのが「龍驤」の艦攻隊であることは代わりはありません。
 これらの点を考慮すると、観測機隊の降爆と艦攻隊の水平爆撃が連続して行われた格好となったため、最初の攻撃もあって米側が「敵機の降爆でやられた」と誤認したことにより、米側で「ポープは急降下爆撃で損傷した」という話が出来上がったのでは無いかと思われます。

 因みに同著によると「ポープ」の止めを刺したのは駆逐艦の雷撃ですが、某駆逐艦が静止したポープに放った最初の魚雷三本は、見事に全部外れたそうであります。

アークロイヤルの大改装

 最近1966年から開始されたアークロイヤルの近代化改装の事なんぞについて調べていたりするんですが、あの改装は基本的に同艦の艦齢を大きく伸ばす気がないんで、装備については出来るだけ現状品を再利用する方針で実施されてるんですね…。
 その前に改装されたイーグルやヴィクトリアスがきちんとした三次元レーダーを搭載しているのに、あとで改装されたアークロイヤルが新造時以来の高角測距レーダーで代替していたりするとか、艦の装備に妙に旧い装備が目立つのは全てこれが理由だったりします。
 
 そりゃ再就役後にイーグルの方がセンサー類の性能が良い、と言われる訳だ…。

昭和一七年四月の日本潜水艦

 今回は某所で「昭和一七年四月に北部豪州方面で潜水艦による通商破壊戦を実施して、ポートモレスビーを封鎖」、みたいな話が出ていましたが、それに関して世迷い言でも。

 実施時期として上げられた昭和一七年四月の時点で、日本の各潜水艦は開戦以来対米作戦と南方侵攻作戦に続けて参加していたことから、かなり整備劣悪な状態となっていました。
 この結果両方面における作戦が一段落した際に殆どの艦を内地に引き上げて艦の整備を実施する必要が生じたため、一時的に稼動できる潜水艦は殆ど無くなる事態が生じます。

実際に開戦当時編成されていた各潜水艦部隊が
その頃何処にいたかというと、

○一潜戦(第六艦隊指揮下:新巡潜型で構成):
 対米作戦参加後、内地で整備中
○二潜戦(第六艦隊指揮下:巡潜型で構成):
 対米作戦より引き抜かれた後、
 インド洋での通商破壊戦を実施中。
 五月に帰還、整備実施の予定。
○三潜戦(第六艦隊指揮下:海大型で構成):
 対米作戦参加後、内地で整備中
○四潜戦(連合艦隊指揮下:海大型・海中5型で構成):
 南方侵攻作戦時に作戦艦としての能力が限界に達した
 艦が出たため三月に解隊。うち三隻は呉防備隊、
 三隻は五潜戦、二隻は六潜戦(七潜戦)へ移動
○五潜戦(連合艦隊指揮下:海大型で構成):
 南方侵攻作戦終了後、内地で整備中
○六潜戦:(第三艦隊指揮下:機雷潜で構成。
       四潜戦解体後海中五型二隻を編入)
 南方侵攻作戦終了後、内地に帰還。四月一〇日解隊。
 機雷潜は第一三潜水隊として第六艦隊直轄に。 
 海中5型は七潜戦へ移動。
○七潜戦:(第四艦隊指揮下:L型潜水艦で構成)
 海中5型で編成された第二一潜水隊はトラック島に進出。
 他のL型潜水艦は内地で整備中。

 てな感じで、動ける部隊がありません。この他に三月に新編された八潜戦がありますが、新造艦の編入が多いこともあって同隊の状況は

○八潜戦:(第六艦隊指揮下;新巡潜型で構成)
 内地で整備・訓練中。

 という案配でした。かくしてこの時期豪北に進出できそうなのは、トラックにいる第二一潜水隊の海中五型二隻だけなんですな。これでどうやってポートモレスビーの封鎖をやれと…orz。

 とはいえ同方面での潜水艦作戦実施が考慮されなかった訳ではなく、軍令部は潜水艦の手当が着き次第、同方面での通商破壊戦を実施することを既に検討している状況にありました。ただ各潜水艦部隊が全く動ける状況になかったため、軍令部と連合艦隊は艦隊作戦実施の案配を考慮しながら潜水艦の投入を検討することになり、各潜水隊の整備が暫時完了して潜水艦兵力が回復する五月以降に同方面に対して潜水艦部隊を投入する事を決定します。

 この結果この方面における通商破壊戦の実施は珊瑚海海戦後のことになります。まず第二次特別攻撃に参加した八潜戦の半数が投入されたのを皮切りに、ミッドウェー海戦後には三潜戦が、七月には同月の戦時編制変更で第八艦隊指揮下に入った七潜戦の第二一潜水隊が同方面で通商破壊戦に従事しています。
(なお、この時期の七潜戦はL型で編成された潜水隊が北方部隊である第五艦隊直轄艦となったため、第一三潜水隊と第二一潜水隊の二隊で構成される形に変更されています)。
 八月以降も三潜戦と七潜戦はそのまま同方面での通商破壊戦を継続実施する予定でしたが、ガ島戦の開始によりこの計画は水泡に帰し、各潜水艦は通商破壊戦実施を取り止めてガ島奪還の艦隊作戦に充当されることになります。

 かくしてこの話は、海軍は同方面での通商破壊戦実施を無用と考えていた訳ではなく、通商破壊をやろうにも潜水艦が無くてやれないだけ、という毎度おなじみの「みんなビンボが悪いんや」オチで終わるのでありました。

日米空母 太平洋の戦い

 「世界の艦船」の該当号見本誌が届いたので、読んでみた次第。

 特集記事は少ない項数で良くも纏めたと思わせる物で、太平洋戦争における空母決戦の通史本としては、中々良い出来だと思います。ただ本職の記事は、改めて読み返すと南太平洋海戦の方は兎も角、ミッドウェーの方は内容的には特に間違いは無い物の、以前某誌で出した同題材の記事と似通っている部分があるし、文章がおかしい所もあるなどの半端ぶり。現在記事を読み終えて、猛省している次第です。 

 この件に付き、「世界の艦船」編集部並びに読者の皆様に深く陳謝致します。このようなことが再び起こらないように、以後原稿執筆の際にはより内容の精査に努めるように致しますので、平にご容赦下さいますようお願い申し上げます。

町内会館問題、終戦

 約二年半にわたってすったもんだしていた町内会館の
問題が解決。こっち側が当該の会館の除却決議をしたことで、
厚顔無恥なS町会も漸く話し合いに応じ、二つの町内会館で
双方の持つ資産権を交換して当該会館をS町会の単独管理と
することで決着した次第。

ま、裁判所調停までやった割には無難な結果で
終わったかな、と思います。あとはS町会の馬鹿どもが、
また厚顔無恥なことを言い出さないことを祈るだけです…。
(まあ決着内容についての公正証書作ったから、
多分大丈夫だと思うけどね…)。

決定版太平洋戦争④:「第二段作戦」を読む

 P-38の戦記の次はP-49/P-58の話か、P-51D/K/Mの話でも書こうかな~、と思っているうちに月日が過ぎ(思うだけなら誰でも出来る)、気がつけば学研さんから題記の本が届いていたので読んでみた。

 この本編集段階でかなりグダグダしたのを見ていたので、こんなんで内容大丈夫かいな(´・ω・`)と結構心配だったのだが、出来上がった本を見てみればソコソコの出来映えで一安心。内容も幾つか「?」と思うトコロはあるけど、まあ普通に読めるもの。お好きな人は本屋で立ち読みの上、御購入を検討していただければ幸いです。

 とはいえ気にならない点がない訳ではなくて、特に個々の戦史部分の花形とも言えるミッドウェーの記事で、三空母被爆に居たるまでの解説補助に付いている最後の三枚のイラスト、絵も解説も間違いだらけというのはどうなのよ、と思いました。あとこれは通説がそうなっているから仕方が無いとも思うんだけど、三空母被爆時に「飛龍」が他の空母から離れて艦隊の先頭を走っている、という誤解が無くなるのは何時の事やら、とも思った次第です(…つくづく「日米空母決戦ミッドウェー」で、項数の都合で被爆時の艦隊陣形図を載せられなかったのは失敗だったなぁ)。

 

 昔「日米空母決戦ミッドウェー」の原稿を書くのに疲れた時、現実逃避に某所で「人形とボードゲームによるパノラマで見るミッドウェー海戦」として三空母被爆時の陣形を解説したことがあるけど、あれを使ってここでも解説しようかいな。

「P-38」最初の空戦

 今回は陸軍機絡みの戦史の話でも。

 アリューシャン方面に最初に出来た米側の飛行場は、ウムナク島のフォート・グレンに「秘密飛行場」として作られた陸軍飛行場であります(同飛行場はウラナスカ島のダッチ・ハーバーから西に約60浬の位置にあり、爆撃機の運用も考慮した全長1,500m、幅30mと実に立派な滑走路を持つ有用な航空基地でありました。…但し日本側はアリューシャン作戦開始前の時点で、同飛行場には全く気付いておりませんでしたorz。

 さてフォート・グレンの飛行場は一九四二年四月に完成、日本側のAL作戦実施に対応する形で五月二二日より同方面に展開する第11航空軍所属の陸軍機の展開が開始されます(同飛行場での作戦行動を開始した六月一日時点で、同基地への展開機数はP-40Eが17機、雷撃機として展開したB-26が6機)。この時期同方面にはP-39/P-40装備の第11と第18戦闘機隊が展開していましたが、日本軍の侵攻間近と考えられたため、米陸軍は航空兵力の増備を決定、その中には最新鋭の「P-38E」を装備した第54戦闘機隊も含まれておりました。

P38E

 同戦闘機隊は六月一日に米本土からアラスカのエルメンドルフ基地に展開、ウムナクへの進出準備に入りましたが、その二日後にフォート・グレンの飛行隊は日本の第二機動部隊によるダッチハーバー空襲により戦闘状態に入るという緊急事態を迎えます。同方面への大規模侵攻作戦実施も有り得ることから、同飛行場への増援兵力投入は緊急を要するとされたため、第五四戦闘機隊も六月五日より同基地への展開を開始します。

 しかしその前日の六月四日に同方面での日本側の航空攻撃は終結してしまい、この増援は見事空振りとなるのでした。六月中旬には米第11航空軍は攻勢に転じ、同航空軍の第二八混成爆撃航空群に所属する爆撃機はアッツ・キスカへの継続した爆撃作戦の実施に入ります。その一方でこの両島に一番近いフォート・グレンの飛行場はキスカより536浬ばかり離れておりましたので、この時期の攻勢作戦に戦闘機隊は参加できず、ダッチハーバーとフォート・グレンの防空任務に投ぜられますが、タマに東港空の九七大艇が来る以外日本機の来襲は無かったので、各戦闘機隊は同基地で無聊をかこつ日々を送る羽目になります。

 そんなこともあり、同基地に展開した「P-38E」が実際に空戦を経験するのは同基地に展開後約2ヶ月を経た八月四日のことになります。この日キスカを出撃してアトカ島爆撃に向かった九七大艇二機を、第54戦闘機隊の「P-38E」二機が同島上空でこれを迎撃、約30分の空戦の後に二機とも撃墜したことを報じました。

 

MAVIS

 

 米軍の公式記録ではこれが全戦域における「P-38」の最初の交戦記録であり、また本機が上げた最初の撃墜戦果とされています。もっとも日本側の記録によれば、東港空の九七大艇が「P-38」と交戦したのは確かですが、一機が被弾しただけだったとされています。故にこれは「P-38最初の撃墜記録」とするには、ややというかかなり問題があるのも確かです(とはいえ本機を扱う洋書では、必ずこれを「本機最初の撃墜記録」とされる様に、海外ではほぼ通説になっております…)。しかしこれが「P-38」最初の交戦記録であることは事実で、欧州方面での活躍が目立つ本機の最初の交戦が対日戦であったという事実は、航空戦史好きの方なら覚えておいても良い事項かも知れません。

 

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