前に、北海道は積丹半島突端「神威岬」のコンクリート製電探の基台
ついて書いたことがあるのだが、実際にその設置した電探の最終調整を
した方の手記を、この度古本屋で入手した。やはり、当時電探の下の海
の中にはウニ(雲丹)がウジャウジャいたのである。

 「通信技手の電探日記 巷説占領時代(太田特別電話局)」
  松本 多助 昭和61年10月1日発行 自費出版

 著者は戦時中、決定的に不足していた海軍の電波兵器技術要員として
、逓信省(現在のNTT)より文官(尉官待遇?)として従軍し、主に北東方面(千島、北海道、青森)で電探の設置、調整をなされた。
 神威岬では昭和20年5月24日(据付は既に終わっていた。)より調整作業を始められ6月28日には電探は完全に可動状態になった。
 設置された電探は
  112号(1号1型改2)遠距離対空見張用
   波長3m、出力30kW、最大有効距離250km、陸上(海岸)
   固定式、総重量8.7t
2基であった。(基台は1基しか無かったような気がする。)また、近くには陸軍のタ号?(要地用電波警戒機乙、波長  、出力50kW、警戒距離150 ~300km)も設置されていたようである。

 当時、日本全国飢餓状態の中で、輸送手段を失った漁村では海産物だけは豊富にあった。著者の同僚も現地に着いて早々、ホッケ(北海道に来た人なら分ると思うのだが、「開きホッケ」が有名、煮付けても、フライにしても、すりみにして汁にしてもうまい。)を食べ過ぎて寝込んだ程である。そして、著者の日記によれば、

 昭和20年6月6日
   晴 休業日
   雲丹・鰊・数の子・ワカメ・フノリ等小包便8ケ

 とある。著者の出身地群馬では、当時、海産物などほとんど目にする
事が出来なかったので、届くかどうかは分らないが家族、親戚に送ったのである。ウニは塩に漬けた「塩蔵ウニ」であろう。
 北海道では昔、鰊(ニシン)が大量に獲れ、その収益が北海道開発の一助となっていた。ここに書かれた鰊とは身欠きにしんのことで、京都で食べられる「鰊蕎麦」に入っているやつである。なお、身欠きにしんは学徒動員や軍需工場での体験談でよく語られているので、興味を持った方は覚えていたほうがいいかもしれない。最後に数の子は現在よくみられる塩数の子ではなく、留萌で極少量が今も作り続けられていると言う幻の「干数の子」のことであろう。
 ところで、電探のことなのだが、電気が関係するのでプリンスにはさっぱり解からない。

 今回読み返した本
 「幻のレーダー・ウルツブルグ」津田 清一
   昭和56年12月15日発行 CQ出版株式会社

 「ドキュメント 海軍技術研究所-エレクトロニクス王国の先駆者達 ー」
  中川 靖造 昭和62年6月25日発行 日本経済新聞社

 「日本海軍エレクトロニックス秘史」田丸 直吉
   昭和54年11月10日発行 原書房 

 「機密兵器の全貌」
   昭和51年6月25日発行 原書房
 
 「高射戦史」下志津(高射学校)修親会
   1978年12月1日発行 田中書店