歩兵第三十六聯隊

 目が回る程いそがしいのだが、写経しておかないと年を越せない気がするので書き写す。だってやっぱり「坂の上の雲」でしょ。
第九師団鯖江歩兵第三十六連隊の日露戦役時における旅順攻囲戦での損害を

 「福井県史 通史編5 近現代―」
   平成6年11月30日発行
P333より書き写す。

干大山攻撃 (明治37年7月30日)
  戦死      5
  戦傷     97
    将校    2
  合計    102
    将校    2

旅順第1回総攻撃 (明治37年8月19日~8月24日)
  戦死    420
    将校   17
  戦傷    710
    将校   26
  合計   1130  
    将校   43

前進堡塁攻撃準備 (明治37年8月25日~9月18日)
  戦死     45
    将校    1
  戦傷    153
    将校    1
  合計    198  
    将校    5

前進堡塁群攻撃 (明治37年9月19日~9月22日)
  戦死    227
    将校    7
  戦傷    504
    将校   23
  合計    731  
    将校   30

旅順第2回総攻撃 (明治37年9月23日~10月31日)
  戦死     72
    将校    1
  戦傷    285
    将校    7
  合計    357  
    将校    8

第3回総攻撃準備 (明治37年11月1日~11月25日)
  戦死     47
  戦傷    155
  合計    202

旅順第3回総攻撃 (明治37年11月26日~12月6日)
  戦死    110
    将校    4
  戦傷    317
    将校   12
  合計    427  
    将校   16

二竜山堡塁占領戦 (明治37年12月28日~明治38年1月2日)
  戦死     96
    将校    5
  戦傷    300
    将校    6
  合計    396  
    将校   11

この数字は分からない。戦死者に将校の数が含まれるのかどうか?戦傷者も合計も同じことが言える。数字は「歩兵第三十六聯隊史」から持ってきているそうだから、原本を見た方はぜひ教えて欲しい。

SABAWOYOMU

 就職のための諸手続きで走り回っている中、次の本を見つける。

「第二次世界大戦史② ノモンハン事件とドイツの対ソ戦準備」
   ソ連共産党中央委員会附属
   マルクス・レーニン主義研究所編
   訳者 川内 唯彦
   弘文堂 昭和三八年一一月三〇日発行

 ソ連が輝いていた時代の仮想戦記である。ノモンハンといえば仕事も忘れる姫、妻の目を掠めて買い求める。

「日本第六軍の兵力の大部分は包囲、殲滅された。七月から八月までのあいだに日本軍の損失は戦死者だけで一万八八六八人、負傷者二万五九〇〇人であった。五月から九月までの全期間にわたる日本軍の総損失は将兵五万二〇〇〇-五万五〇〇〇人に達し、そのうち戦死者だけで約二万五〇〇〇人であった。ソビエト=モンゴール軍部隊の損失は戦死者、負傷者合わせて九八二四人であった。
 ソビエト=モンゴール軍部隊は八月攻勢の期間だけで、つぎのような戦利品を鹵獲した。重砲三〇門をふくむ火砲一七五門、機関銃三四〇挺、小銃一万二〇〇〇挺、砲弾四万二〇〇〇発、実包約二〇〇万個、その他多くの軍事資材。五月から九月までに日本軍は六六〇機を失い、そのうち二〇四機はわずか八月二十日から三十日までに空中戦で破壊されたものである。ソビエト空軍は二〇七機を失った。」

 当代一流の軍事研究家といわれる人間ですら年齢さばをよむのであるから、戦果ごときどう書いても構わないのである。だけど、ああ~砲弾が四万二〇〇〇発、軍用機が六六〇機もあったらなと思うのが地方の一ミリタリーマニアの感想である。

歩兵第四十四聯隊

 「高知県史 近代編」高知県
   昭和四十五年三月発行
より

被害者意識がやたら強く、日露戦役でも最も不幸な目にあったと思い込んでいた北海道人の一人として、旅順攻囲戦の聯隊別の戦死傷者など調べている。
今回は第十一師団歩兵第四十四聯隊(高知県出身者)の損害を書き写す。

第一回総攻撃(明治三十七年八月十九日~二十四日)
戦死者 将校以下   988名
戦傷者 将校以下 1,030名

第二回総攻撃(明治三十七年十月二十七日~月末)
戦死者 将校以下   253名
戦傷者 将校以下   325名

第三回総攻撃(明治三十七年十一月十一日~年末)
戦死者 将校以下    76名
戦傷者 将校以下   418名

この誰も読んでいないと思われる日記にもコメントが初めて送られてきた。非常に有難い事である。しかし、コメントに対してどうやって返事をするのか、まだ方法を会得していないので返事のしようがない。戦鳥書房様申し訳ございません。

歩兵第三十五聯隊

 「富山県史 通史編Ⅴ 近代 上」 富山県
    昭和五十六年三月三十一日発行
より
 日露戦争時、第九師団歩兵第三十五連隊は富山県出身者で編成された。
旅順攻囲戦での主な戦闘と損害を書き写す。

于大山戦闘(明治37年7月30日)
戦死者数 将校       1名
     下士兵卒    51名
戦傷者数 将校      12名
     下士兵卒   319名

盤龍山東旧砲台(明治37年8月31日)
戦死者数 将校      12名
     下士兵卒   360名
戦傷者数 将校      33名
     下士兵卒 1,008名

旅順要塞第二回総攻撃(明治37年10月30日)
戦死者数 将校       3名
     下士兵卒    69名
戦傷者数 将校       8名
     下士兵卒   258名

旅順要塞第三回総攻撃(明治37年11月26日)
戦死者数 将校      10名
     下士兵卒   311名
戦傷者数 将校      17名
     下士兵卒   371名

望台西北H高地占領(明治38年1月1日)
戦死者数 将校       2名
     下士兵卒    26名
戦傷者数 将校       2名
     下士兵卒    70名

立ち読み

 本屋で立ち読みをしていたら、面白い本があったのでお知らせする。

「 MINERVA西洋史ライブラリー79
   石炭で栄え 滅んだ大英帝国
    ―産業革命からサッチャー改革まで― 」
 著者 山崎勇治 2008年6月30日発行 ミネルヴァ書房

 このところ頭から離れないカーヂフ炭、いい参考書に出会えた。この本の中で特に面白いのが、第1次大戦前夜、1910年までのヨーロッパ各国の石炭消費に占めるイギリス炭(英炭)の割合を書いた表だ。イタリアでは9割以上を英炭が占め(という事は伊国海軍はカーヂフ炭にまったく依存していたことになる)、フランスでも国内消費の25~45%をイギリスをはじめベルギーおよびロシアに依存し(その半量は英炭であり、艦船にも大量に使用されていたであろう)、また石炭輸出国としてヨーロッパ市場に激しく食い込んでいたドイツでさえ1907年には石炭消費量の9.2%にあたる1,182万トンの英炭を輸入していた。これをみれば、カーヂフ炭だけが持つ絶対的優位性が明らかになる。

「潰滅〈シュペー艦隊の最後〉」 エドウィン・ボイト 訳 実松 譲
  昭和44年9月25日発行 フジ出版社
を読み返している。その石炭補給の話は実に興味深い。

省外極秘

 ミリタリーマニアと名乗りながら、「大和」も「零戦」も語るだけの知識が無い寂しい存在なのだが、昨日、本屋を覘いても心惹かれる物が無い(正確にはお金と自由が無い)。そこで某所で見つけ、コピーをお願いしたのは

 「省外極秘 昭和十八年七月
   北海道石炭輸送ノ概要
     札幌鐡道局業務部運輸課」

という更紙に印刷された物だった。
 戦時中の日本における石炭の生産・消費動向は「石炭国家統制史」というバイブルが存在するのだが、当時の一次資料の現物を目にすることは地方では難しい。この内容はミリタリーとは外れた話なので触れないが、これに付随していた

 「昭和十九年度
  北海道炭等級別炭名炭種一覧表
          札鐡業務部貨物課」

は素晴らしい内容だった。炭鉱名、炭種、カロリー数、用途が一覧になっており、長年の宿題が解決した。
なお、戦時中の鉄道の輸送状況を把握したいなら

「日本陸運十年史(第一巻)」日本国有鉄道

という優れ物がある。ところで石炭用貨車について誰か教えてコメント下さい。 

防潜網

 偽装網の事を書けば、次に防潜網の事を書かなければいけないと考えるのが、軍事知識に乏しいミリタリーマニアの悲しさである。

 防潜網は敵の魚形水雷(魚雷)と潜水艦が要塞地帯へ侵入してくるのを防ぐ兵器である。上段は魚雷を防ぐ径5㎜、0.8%C(炭素)のワイヤーを使用した径1mのリングを組み合せた網であり、下段は構成「6×7、6×24」径8~10㎜の鍍金を施されたワイヤーロープを組合わせた網で、こちらは潜水艦の侵入を防ぐためのものだった。張った網はやはり当社が制作した5~150kgのブイで吊られた。別の5~10kgの軽量ブイには燐系統の火薬が挿入してあり、潜水艦が網にかかると発火発煙する仕掛けになっていた。イギリスでは「トーピードネット・アンド・サブマリンネット」といわれ、そのうちサブマリンネットはイギリスで考案されたものだった。上部のトーピードネットは海軍と当社の共同研究から生まれたもので日本の戦艦は戦闘中の敵魚雷攻撃に備えて、これを艦の周囲に垂れ下げているのが常であった。
 昭和7年川崎工場内に「海軍機雷関係兵器鍛造工場」が設置された。
製品は軍関係としては艦船艤装用ロープ(麻)、機雷係留索、掃海索、防潜網、捕獲網、阻塞気球係留索、ガン・ワイヤ(46㎝砲用も、小倉工場)、航空機用鋼索、弁バネ、機銃バネ、シンガポール浮ドック用ワイヤロープ(昭和19年製造)などだった。

 防潜網を付けて戦闘したならば抵抗が増えて速力が出ないなどとはゆめゆめ考えないで下さい。何処でどの様に作っていたか書かれてあるだけでも貴重なのです。興味のある方は図書館でお読み下さい。

引用文献
 「東京製網100年史」東京製網株式会社
  平成元年4月発行  

偽装網

 昔見つけた偽装網生産の話である。

 昭和15年暮れ、陸軍航空技術研究所(立川)より航空機偽装網試作の依頼を内命に受けた。戦闘機に搭載するため軽量でなければならない。不時着時どこでも張れるものでなければならない。寸秒を争う出勤には、戦闘機は1分、爆撃機は3分以内に撤収することができなければならない等の要求があった。試作に日夜わかたず取り組み、半年余りの労苦の結果、ようやく試作に成功し、昭和16年7月、陸軍航空機用偽装網を初受注した。当社は、この航空機用偽装網を防諜上の必要から「角目網」と名付けた。これは偽装網の網の目が真四角であることから出た名前であった。太平洋戦争突入とともに、17年に第2次、第3次の航空機用偽装網の発注を受けた。17年7月、新地工場が陸軍航空本廠監督工場の指定を受け、この頃からは、陸軍のみならず、海軍からも航空機用偽装網を受注し、さらに他の軍用偽装網(兵員用、鉄帽用、高射砲陣地用、軍用自動車用等々)の注文も相次いで入ってきた。「角目網」の特長としては、布切れを使った点が上げられる(迷彩用)。しかし、この布切れを網地に取り付ける作業が大変であった。ともかく、多くの工程を有するこの偽装網生産には、当社の人員ではとうてい足りず、市内の婦人会、女学校生徒はいうに及ばず接客業婦人をも動員し、学校なども利用しての本格的作業が続けられ、1日動員数は3,000~5,000にも及んだ。

引用文献
 「50年の歩み」日本漁網船具株式会社
   昭和44年8月17日発行

エムデンと石炭

 「エムデンの戦い」R.K.ロックネル 訳者 難波清史
  1994年4月10日発行 朝日ソノラマ

 重油が艦船の燃料となる前、石炭が燃料だったことは誰でも知っている。しかし、戦時において艦艇がどんな石炭(煉炭)を使っていた興味を持つ人間はまずいないであろう。
一般に石炭といえば一括りに語られる事が多いが、実は産地、性状によりまったく違う表情をみせる。例えば、日清戦争中、海軍艦艇は九州の有煙炭を使用し、戦闘用にはまったく不向きな事が判明した。また、日露戦争時には英国のカーヂフ炭を輸入、戦闘時に使用した。石炭が燃料だったころ、艦艇にとって最良の物は英国のカーヂフ炭だった。当時、日本及びアジアにおいてこれを超えるものはなかった(それも圧倒的に)。艦艇において使用される石炭はなるべく煙が出ないことが求められる。これを無煙炭というのだが、日本国内の石炭は一般に生成時期が若いため、揮発成分が多く有煙炭がほとんどを占める。また、国内・アジアの存在する無煙炭にしても灰分(燃えカスになる)が多く、単位当たりの熱量がカーヂフ炭に比べて圧倒的に少ない。国内・アジアの無煙炭は採炭後風化作用が著しく、粉、鱗片、ザラメ状になりボイラーで燃やしにくいが、カーヂフ炭は劣化が少なく塊状のまま残る率が高い。また国内の無煙炭は一般的に硫黄分が多くボイラーを傷めやすいなど、実は石油だけではなく石炭でも日本は大きなハンデを背負っていたのである。
(日露戦争後、徳山で煉炭を作り始めるのだが、最初はカーヂフ炭の粉炭を使い、国産の無煙炭も使っていた。また、東亜で最良の無煙炭と思われる仏印のホンゲイ炭も使ったが、最終的には朝鮮の平壌無煙炭を使用するようになった。しかし、これらの無煙炭で作った練炭でもカーヂフ炭の粉炭で作った練炭より、カロリーで1割以上は違ったと想像している。このカロリーの不足を重油混焼で補ったのではなかろうか)

 ドイツが第一次大戦中、艦艇の燃料として何を使ったのかはほとんど知らない。たまたま、上記の本を読んでいて興味深い事が分かった。
P126
 〈ポントポラス(捕獲船)〉が積んでいたインド炭は、規格外の下質炭であった。おそらくは最初にして最後の経験となるであろうが、無煙炭を扱うようにはいかなかった。ボイラーの火格子は燃え滓が山となり、炉床には膨大な量の灰が落ちた。これまで通りの焚き方を二十四時間したあとには、炉内と煙道が煤と灰に覆われていた。インド炭は、世界で最も良質のカジフ炭に比べれば、同じ仕事をするのに五五パーセント余計に必要であり、青島から運んできた山東炭に比べても、同量で七五パーセントの能力しか発揮できなかった。
P147
 一九一四年九月二十七日
この貨物船はこれまでで最高の収穫であった。イギリス石炭運搬船〈ブレスク〉、四三五〇トンは、最高級のカジフ炭を少なくとも六六〇〇トン積載していた。〈マルコマニア〉が当初積んでいたより一六〇〇トン以上も多い量であった。〈ブレスク〉はイギリス海軍にチャーターされ香港へ向かうところであった。

 さて、ドイツの補給船〈マルコマニア〉は青島から山東炭を積んで、エムデンに同行していたのだが、中国の山東省といってもどこのどんな石炭なのか分からないので、調べてみた。1898年にドイツが膠州湾租借条約によって、膠濟線沿線30支里内の鉱山採掘権を獲得した。1901年徳華煤礦公司を設立し、1911年には淄川、金嶺鎭、それに坊子の諸鉱山の採掘を行なっていたのである。おそらくこれらの炭山からの物だと思われる。この中で艦船向きの品質の良い石炭の性情を書き写す。

坊子東坑
 水分    4.2
 揮発分  14.6
 固定炭素 69・0
 灰分    12.2
 硫黄    0.54
 カロリー 7,534

引用文献
「最新燃料の知識」吉村 萬治
  昭和12年9月13日増訂発行 誠文堂新光社
「支那の鉄・石炭と東亜」手塚 正夫
  昭和18年2月20日発行 朱雀書林

未完 本邦航空潤滑油資料 続きNo.1

 航空機用潤滑油について長々と書き連ねたが読みにくいので、新たに書き始める。

 「三菱鉱業社史」
   昭和51年発行  より

 三菱鉱業研究所において、最初は低温乾溜によるコールタールを原料として、高圧水素添加によって揮発油と同時に潤滑油をも製造しようと試みた。優秀な触媒も発見し、特許も得ていたが、出発した原料の関係もあって航空機用のような最高級の潤滑油は得難いと考え、パラフィン属のもの、あるいは将来期待せられるフィッシャー法による合成物を1度接触分解し、これを更に重合する方法に方向を転換した。実験室的には相当の成績を収めたが、のち戦局の発展に伴い、原料を植物油、主として椰子油に変更せざるを得なかった。これを脱水重合後水素添加を行って目的を達しようとしたのである。
 しかし一部の性質に充分でないところがあって研究を続けていたが、昭和19年に至り、主たる研究員が三菱化成工業黒崎工場の植物油より生成する合成潤滑油工場の創設に協力することとなり、約1か年も同工場に出張することとなって、中絶のやむなきに至った。