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含ニッケル鉄

 戦時中、日本、ドイツで最も必要とし、かつ不足していたレアメタルがニッケルである。
戦前には最大の産出国カナダ(日本でいえばニューカレドニア等も)から鉱石や製品を輸入していたのだが、戦時中には日本の支配下でも、ドイツの支配下でも、必要量を産出する鉱山が無く、採掘された鉱山も小規模か、品位が低かった。特殊鋼を作るに当たってニッケルは金属ニッケルやフェロニッケル、含ニッケル鉄(ルッペ)の形で用いられたのだが、今回は日本とドイツで特異的に行われ、それなりに生産量をあげた日本のあるセメントメーカーの含ニッケル鉄の生産について書き写す。

「住友大阪セメント百年史」 住友大阪セメント株式会社
 2008年3月発行

含ニッケル鉄の生産
 七尾工場(北陸地方 旧七尾セメント)が開戦前から生産していた含ニッケル鉄は、飛行機・魚雷・戦車などの主要部品や砲弾などに欠かせぬ金属で、軍から増産を強く要望されていた。同製品は京都府北部の大江山鉱山から供給される含ニッケル鉱土を主原料にしており、同鉱山を発見した日本電気工業㈱(現・昭和電工㈱)社長の森矗昶(のぶてる)からの要請もあって事業化に着手したものだった。休止中のキルンを利用して試験製錬を開始したのは昭和14(1939)年で、製錬法は、当時有名だったドイツのクルップ社のレン法導入には多くの資金と時間を要したため、工務部長の眞田義彰が独創的な方法を開発した。(含ニッケル鉄鉱土・無煙炭・石灰石を湿式粉砕機で粉状にして一定化でよく調合した後、ロータリーキルン内で約1,300℃まで加熱して、鉱土中のニッケルと鉄を還元して含ニッケル鉄を得る。)
 その後、製法に自信がつき、軍需物資としての重要性も認識されてきたので、16年8月にはさらにキルン1基を含ニッケル鉄生産に転換、同年12月には陸軍の監督工場に指定された。太平洋戦争開戦後は海軍にも製品の真価が認められ、その後援のもとに17年4月から3号キルンも含ニッケル鉄生産に転換し、セメント生産を休止、18年9月には高松宮殿下が工場視察に訪れている。主な納入先は、大阪陸軍造兵廠、日本冶金川崎工場、日本ニッケル若原工場、大谷重工業恩賀島工場など陸海軍の指定工場であった。19年2月には海軍監督工場にも指定された。
 また、この間の17年8月、当社は昭和製鋼所および三菱鉱業から、レン法特許実施権の譲渡をうけている。
 含ニッケル鉄生産数量
昭和17年   21,042トン
昭和18年   24,939トン
昭和19年   15,787トン
昭和20年上期  2,090トン
 戦時中の日本におけるニッケル生産の最良のバイブル

「ニッケルとコバルト」日本鉱業会
 昭和26年9月5日発行 白亜書房

よりこれらの記述を補足する。

取扱原鉱量(乾鉱量)
1939年
 大江山鉱山    8,531トン
1940年
 大江山鉱山   27,443トン
 若狭鉱山       667トン
  合計     28,120トン
1941年
 大江山鉱山   46,038トン
1942年
 大江山鉱山   64,550トン
 若狭鉱山     6,945トン
  合計     71,495トン
 以後不詳

原鉱主要成分(1942年)
大江山鉱山 Ni0.47% Fe23.83% Cr0.44%
若狭鉱山  Ni0.50% Fe37.74% Cr0.69%

含ニッケル鉄生産実績
1939年     115トン
1940年   4,511トン
1941年  10,261トン
1942年  14,892トン
 以後不詳

含ニッケル鉄主要成分(1942年)
Ni2.08% Co0.11% Cr1.61% Fe94.13% S0.223% P0.090% C1.18% 

 含ニッケル鉄をそのまま単独に塩基性電気炉で熔錬し試製した鋼材の成分は
N0.1
C0.36%, Si0.20%, Mn0.42%, P0.03%, S0.014%
 Ni2.78%, Cr0.87%, Co0.33% 
N0.2
C0.15%, Si0.14%, Mn0.64%, P0.018%, S0.029%
 Ni2.81%, Cr0.14% Co0.28%
となり、コバルトの含有を除けばそれぞれ陸軍地金仮規格自動車鋼7号Ni-Cr鋼 、陸軍地金仮規格自動車鋼7種Ni-Cr鋼に近い。

参考資料
「呉海軍工廠製鋼部資料集成」平成8年8月15日発行

「戦前軍用特殊鋼技術の導入と開発」日本鉄鋼協会
 平成3年3月28日発行

豚肉

  「日露戦争軍医の日記」
   昭和55年11月1日発行 ユニオン出版株式会社

 姫が学校に行くため、塩っぱい川を渡るまで「すき焼き」といえば豚肉を使っていた。当時は「肉鍋」と言っていた。牛肉など数えるほどしか食べたことが無く(確かに貧しかった事もあるが)、子供の頃住んでいた町の肉屋にも牛肉は売っていなかったと思う。
 日露戦争当時、満州に渡った陸軍将兵が豚肉を食べる事により、ある程度「脚気」を防ぐ事が出来て救われたと書いたことがる。しかし、上記の本を読んでなかなか上手くはいかないものだと思った。
 上記の本は、日露戦役に第八師団加藤健之助軍医の日記と参考綴りを大江志乃夫氏の監修のもとに作られたものである。第八師団の実戦参加は遅く、明治38年1月末の黒溝台戦と3月の奉天会戦が主なものである。戦地に赴いたのも遅かったが、総予備として実戦に参加する機会が与えられなかった。参考綴りの中には多岐に渡る事が書かれ、軍糧に関する事も書かれていて、豚肉に関する面白い記述がある。

   動物性食品
 本種類中最モ多ク調弁シタルモノハ豚鶏及鶏卵トス比較的廉価ニシテツ初メ兵卒ノ嗜好ヲ受ケ三十七年十月上陸以来三十八年五月迄之ヲ調弁支給シタル然レトモ由来肉食ニ慣レサル我兵ハ暫次之レヲ嫌厭スルニ至リ上陸当時ヨリ三十八年一二月頃ニ亘ルノ交宿営地方(烟台附近黒溝台附近)豚ノ払底ニ拘ラス捜索徴買ニ努メタル兵卒ハ五六月ノ頃ニ至リテハ宿営地附近豚頗ル豊富ナルニ拘ラス之レヲ獲ント欲セサルノミナラス支給スルモ喜ハサルニ至レリ加之三十八年五月十四日沙苓堡ニ於テ其筋ヨリ該地方産ノ豚肉ニ旋毛虫ヲ有スルニヨリ煮熱ヲ励行スヘキ件達セラレ且ツ沙苓堡姑夫屯附近ノ豚肉ハ往々一種の包子虫(獣医ノ検診ヲ受ク)ヲ有スル等益々兵卒ハ之レヲ食スルヲ欲セス時亦タ漸ク暑ニ向ヒタルヲ以テ豚ヲ食スルコトニ就テハ殆ント全ク無ナルニ至リ三十八年六月以降ハ之ガ支給ヲ見合セリ然レトモ時漸ク寒ニ向ハハ各兵再ヒ之レヲ欲スルニ至ルヘキヤ疑ナカラン
 (P144~145)
 
家の奥さんじゃないけれど、「肉」といえば「鶏」か「牛」なのである。欧米並みに、ハム、ソーセージ、ウインナー、ベーコンなどの豚肉加工品がないところが悲しいところである。

 「脚気」と「麦飯」に関する第八師団の面白い記述があるので書き写す。
 
 明治三十七年十一月十八日脚気予防トシテ試用小豆ヲ同廿六日ヨリ脚気兆候ノ希望者ニ挽割麦ヲ同三十八年四月十三日ヨリ一般麦飯ヲ給セラレルルニ至リタリ其ノ結果支給前ニ比シ該患者減少シタルカ如シ
 (P172)

 日露戦役における麦飯の全面支給は奉天会戦後の中だるみ状態の中で行われた事は間違いない。

小ネタ

 最近、通勤途中で読む文庫本しか買えない。ここ半年あまりで入手した大きなサイズの本で感じた事を書いてみる。

「世界の傑作機 No.138 WWⅡ ヤコヴレフ戦闘機」文林堂
「航空朝日 昭和十九年一月号 航空機と木材」
「航空朝日 昭和十九年二月号 航空機と木材」

 昔、航空機の材料としての木材(強化木)や接着剤について書いたことがある。その当時は、「間に合わなかった素材」という捉え方をしていたのだが、上記の3冊の本を読んで「苦労の割には使えない素材」であることが分かった。やはり、日本ではどんなに苦労してもアルミニウムしか選択の余地はなかったことになる。
“おまけ”
 昭和14年住友金属工業は、航空機用強力軽合金「超々ジュラルミン」の量産を開始した。超々ジュラルミン製造に使われるメタリックマンガン(乾式金属マンガン)の国内生産に先鞭をつけたのは中央電気工業株式会社(昭和9年創立)であった(と書いてあるが、マンガンを含有するのであれば単なるジュラルミンだと思うのだが。ジュラルミンの成分は銅約4%、マグネシウム0.5%、マンガン0.5%)。初めメタリックマンガンは少量であったが英国から輸入され、艦船のスクリュー用マンガン青銅の製造に使用されていた。
中央電気工業㈱でのメタリックマンガンの生産高は
昭和11年    19t
昭和12年    32t
昭和13年   228t
昭和15年   230t
昭和16年   530t
昭和17年   728t
昭和18年   852t
昭和19年   514t
(当然、超々ジュラルミンより普通のジュラルミンの方が使用頻度は多いし、生産量も多いはずだ。)
参考・引用文献
「中央電気工 業四十年史」中央電気工業株式会社
 昭和50年2月20日発行
「住友金属工業六十年史」
 昭和32年5月20日発行

後備歩兵第十六聯隊

 妻と娘がソウルに行ってもお父さんは仕事である。

「明治卅七八年日露戰史 第五巻 第六巻」参謀本部編纂
  大正二年七月二十日発行
より後備歩兵第一旅団後備歩兵第十六聯隊の旅順攻囲戦の損害を書き写す。明治37年2月5日、新発田(新潟県)の歩兵第十六聯隊に戦時編成への移行が命じられると同時に、後備歩兵第十六聯隊にも動員令が下り、部隊の編成が進められた。2月18日には軍旗が授けられ、部隊の編成を終えた。部隊は、4カ月ほど待機したのち6月5日に新発田を出発6月11日に広島に到着し、後備歩兵第一聯隊、後備歩兵第十五聯隊とともに、後備歩兵第一旅団に編成され、第三軍に編入された。6月19日に宇品を出帆した部隊は、6月25日、遼東半島東岸の塩大澳に上陸し、7月下旬には旅順攻略のための攻囲陣地占領の戦闘に参加した。

●(明治37年7月26日~28日)
後備歩兵第十六連隊第一大隊
 戦傷    将校     1 
       下士卒    3
 戦傷合計         4

後備歩兵第十六連隊第二大隊
 戦傷    下士卒    2

後備歩兵第十六連隊
 戦傷合計  将校     1 
       下士卒    5
 戦傷合計         6

●(明治37年7月26日~28日)
後備歩兵第十六連隊第一大隊
 戦死    将校     1
       下士卒   79
 戦傷    将校     6 
       下士卒  155
 戦死合計        80
 戦傷合計       161
 総合計        241

後備歩兵第十六連隊第二大隊
 戦死    将校     2
       下士卒   22
 戦傷    将校     1 
       下士卒   78
 戦死合計        24
 戦傷合計        79
 総合計        103

後備歩兵第十六連隊
 戦死合計  将校     3
       下士卒  101
 戦傷合計  将校     7 
       下士卒  233
 戦死合計       104
 戦傷合計       240
 総合計        344

●(明治37年8月13日~15日)
後備歩兵第十六連隊第一大隊
 戦死    下士卒    1
 戦傷    将校     1 
       下士卒    5
 戦死合計         1
 戦傷合計         6
 総合計          7

後備歩兵第十六連隊第二大隊
 戦死    下士卒   11
 戦傷    将校     2 
       下士卒   26
 戦死合計        11
 戦傷合計        28
 総合計         39

後備歩兵第十六連隊
 戦死合計  下士卒   12
 戦傷合計  将校     3 
       下士卒   31
 戦死合計        12
 戦傷合計        34
 総合計         46

●(明治37年8月19日~24日)
後備歩兵第十六連隊第一大隊
 戦死    将校     1
       下士卒   35
 戦傷合計  将校     7 
       下士卒  122
 戦死合計        36
 戦傷合計       129
 総合計        165

●(明治37年8月25日~9月18日)
後備歩兵第十六連隊第一大隊
 戦死    下士卒    5
 戦傷    将校     2 
       下士卒   83
 戦死合計         5
 戦傷合計        85
 総合計         90

後備歩兵第十六連隊第二大隊
 戦傷    将校     1 
       下士卒   16
 戦傷合計        17

後備歩兵第十六連隊
 戦死合計  下士卒    5
 戦傷合計  将校     1 
       下士卒   99
 戦死合計         5
 戦傷合計       102
 総合計        107

●(明治37年9月19日~22日)
後備歩兵第十六連隊連隊本部
戦傷    将校     2

後備歩兵第十六連隊第一大隊
 戦死    将校     6
       下士卒   32
 戦傷    将校     6 
       下士卒  459
 戦死合計        38
 戦傷合計       465
 総合計        503

後備歩兵第十六連隊第二大隊
 戦死    将校     3
       下士卒   77
 戦傷    将校    16 
       下士卒  580
 戦死合計        80
 戦傷合計       596
 総合計        676

後備歩兵第十六連隊
 戦死合計  将校     9
       下士卒  109
 戦傷合計  将校    24 
       下士卒 1039
 戦死合計       118
 戦傷合計      1063
 総合計       1181

●(明治37年9月23日~10月15日)
後備歩兵第十六連隊第一大隊
 戦傷合計  下士卒   10

●(明治37年10月17日~25日)
後備歩兵第十六連隊第一大隊
 戦死    下士卒    2
 戦傷    下士卒    9
 総合計         11

後備歩兵第十六連隊第二大隊
 戦傷    下士卒    1

後備歩兵第十六連隊
 戦死合計  下士卒    2
 戦傷合計  下士卒   10
 総合計         12

●(明治37年10月26日~31日)
後備歩兵第十六連隊第一大隊
 戦傷    下士卒    2

後備歩兵第十六連隊第二大隊
 戦死    下士卒    1
 戦傷    下士卒    6
 総合計          7

後備歩兵第十六連隊
 戦死合計  下士卒    1
 戦傷合計  下士卒    8
 総合計          9

●(明治37年11月1日~25日)
後備歩兵第十六連隊第一大隊
 戦傷    下士卒   12

後備歩兵第十六連隊第二大隊
 戦傷    下士卒    2

後備歩兵第十六連隊
 戦傷合計  下士卒   14

●(明治37年11月26日~12月6日)
後備歩兵第十六連隊第一大隊
 戦死    将校     2
       下士卒   54
 戦傷    将校     3 
       下士卒  166
 戦死合計        56
 戦傷合計       169
 総合計        225

後備歩兵第十六連隊第二大隊
 戦死    下士卒   18
 戦傷    将校     5 
       下士卒   88
 戦死合計        18
 戦傷合計        93
 総合計        111

後備歩兵第十六連隊
 戦死合計  将校     2
       下士卒   72
 戦傷合計  将校     8 
       下士卒  254
 戦死合計        74
 戦傷合計       262
 総合計        336

●(明治37年12月7日~17日)
後備歩兵第十六連隊第一大隊
 戦死    下士卒    1
 戦傷    下士卒    3
 総合計          4

後備歩兵第十六連隊第二大隊
 戦傷    将校     1 
       下士卒    1
 総合計          2

後備歩兵第十六連隊
 戦死合計  下士卒    1
 戦傷合計  将校     1 
        下士卒    4
 戦死合計         1
 戦傷合計         5
 総合計          6

●(明治37年12月19日~27日)
後備歩兵第十六連隊第一大隊
 戦死    将校     1
        下士卒    1
 戦傷    下士卒    5
 戦死合計         2
 総合計          7

後備歩兵第十六連隊第二大隊
 戦傷    下士卒    3

後備歩兵第十六連隊
 戦死合計  将校     1
         下士卒    1
 戦傷合計  下士卒    8
 戦死合計         2
 戦傷合計         8
 総合計         10

●(明治37年12月28日~明治38年1月2日)
後備歩兵第十六連隊第一大隊
 戦死    下士卒    1
 戦傷    下士卒    5
 総合計          6

後備歩兵第十六連隊第二大隊
 戦傷    下士卒    3

後備歩兵第十六連隊
 戦死合計  下士卒    1
 戦傷合計  下士卒    8
 総合計          9
  
引用・参考文献
「上越市史 通史編5 近代」
  平成16年3月31日発行

負けました

 石油がそもそも太平洋戦争の原因だといわれるが、もう一つのエネルギー資源の柱である石炭の生産は、昭和14年渇水による電力不足を補完する石炭火力使用における絶対量の不足から始まり、戦前、すでにその能力を超え事実上日本の継戦能力を奪い始めていた。
 日本支配下の石炭埋蔵量に不足はなかったが、採鉱能力、輸送(船舶)、インフラ全ての面で限界に達していた。
 当時の日本の鉄生産のほとんどを占めていた日本製鉄の資料の中に、昭和15年下期、「戦争に負けました」と裏付ける物がある。それは「昭和15年度下期における石炭不足による銑鉄・鋼塊・鋼材の生産減、および石炭過不足調整についての各作業所方策記録(P359~361)」である。

Ⅰ 八幡製鉄所
(1) 各用途別の石炭不足割合をみるに、使用予定量に対してつぎのごとし
          使用予定量    不足量   不足の割合
コークス用炭    1,853,902    95,424      5%
発生炉炭       322,000    45,952     14%
一般用炭       403,700    91,863     23%
計(または平均)  2,579,602    233,219     9%
  以上のごとくにして、一般用炭において著しく不足を生じ、このまま推移する時は発電用・運搬用等石炭不足のため、全工場を休止するの止むなき重大事態に立ちいたる恐れあるをもって、この際鋼材の減産を最小限度にとどむるため、比較的不足量少なきコークス用炭の一部を、一般用炭ならびに発生炉炭に振替え得ることとす。
(2) コークス用炭より他に流用する量
1,853,902t×(9%-5%)=73,000t
 このうち発生炉用炭として流用を希望する量
   322,000t×(14%-9%)=16,000t
 さらに一般用炭として流用を希望する量
   403,700t×(23%-9%)=57,000t
 従ってコークス用炭の不足量は
   95,424t+73,000t=168,500t
(3) コークス用炭減による銑鉄の減量
168,500t÷21=80,000t
(4) 銑鉄ならびに発生炉炭減による製鋼減量
 銑鉄減によるもの    80,000t×1.45=116,000t・・・・・・・(a)
 発生炉炭減によるもの (45,932t-16,000t)÷0.3=100,000t・・(b)
 従って製鋼減の総量  (a)+(b)=216,000t
(5) 一般用炭の不足はなお 91,863t-57,000t=35,000t
ついで銑鉄減による石炭の不足量は
80,000t×40kWh÷1,430kWh×2=4,500t・・・・・・・・・・・・(a)
製鋼減による石炭の不要量は
216,000t×25kWh×1,430kWh×2=7,500t・・・・・・・・・・(b)
圧延減による石炭の不要量は
216,000t×80%×120kWh÷1,430kWh×1.6=23,000t・・・・・・(c)
これを製銑製鋼圧延減による石炭不要量合計は
(a)+(b)+(c)=35,000t
となり、一般用炭の不足量はこの石炭不要量をもって補うこととする。
結局、コークス用、発生炉用、一般用炭の不足を彼此融通すると、下記のごとくなる。
 銑鉄   80,000t減
 鋼塊   216,000t減
 圧延   173,000t減
 Ⅱ 富士製鋼所
 供給不足炭は1,139tなり。鋼塊瓲当りの石炭を345kgとせば1,139t÷345kg=3,300tの鋼塊減となる。従って3,300t×0.8=2,600tの鋼材減となる。
一般用炭の不足は輪西より振替える。
 Ⅲ 大阪製鉄所
 発生炉用炭5,110t不足なるも、広畑より池野炭2,000t流用し、不足3,110t
となるも、これは重油およびクレオソートにて補うこととす。
 Ⅳ 輪西製鉄所
 コークス用炭不足による銑鉄減産量
 79,810t÷1.99=40,100t
 Ⅴ 広畑製鉄所
 コークス用炭不足による銑鉄減産量
 79,810t÷1.88=23,040t
 Ⅵ 釜石製鉄所
(1)各用途別の石炭不足割合をみるに、使用予定量に対してつぎのごとし
          使用予定量(A)  過不足量(B)  過不足の割合(B/A ×100)
コークス用炭    338,520t     +778t     0.23%
発生炉炭       0    0     0
一般用炭      33,000t  + 1,443t (輪西より融通) -80%
-26,443t
計      371,520t    -24,222t      -6.5%
  以上のごとくなり、一般用炭の不足は全工場に重大影響あるをもって、コークス用炭の一般用炭に振替えるものとして、つぎのごとく考究す。
(2) コークス用炭より一般炭として流用すべき量
33,000t×(80%-6.5%)=24,000t
(3) コークス用炭減による銑鉄の減量
24,000t÷2=12,000t
(4) 銑鉄減よる製鋼減量
12,000t×1.45=17,400t
(5) 製鋼減による圧延減量
17,400t×80%=14,000t
結局、一般用炭の不足をコークス用炭にて融通するとして減産量はつぎのごとくなる。
 銑鉄   12,000t減
 鋼塊   17,400t減
 圧延   14,000t減

 以上各作業所の減産高を集計すると(昭和15年度下期石炭不足による鉄鋼減産高)

銑鉄減産高       155,140t
本期生産予定量    1,451,000t
減産割合         10.7%

鋼塊減産高       236,700t
本期生産予定量    1,440,000t
減産割合         16.4%

鋼材減産高       189,600t
本期生産予定量    1,160,000t
減産割合         16.3%
となる。

以上は、各作業所が、主として一般炭不足による生産減をいかに克服するか、苦心の跡をのぞいてみたわけである。昭和15年(1940)といえば、国内炭も輸入炭も最絶頂の時期であったにもかかわらず、このように前途の多難が予想される状況を呈しつつあったのである。

戦前、戦中、鉄鋼生産のキーポイントはコークス用炭(ほとんど中国から強粘結炭)の入手と広範言われていたが、実は一般炭ですでに躓いていたのである。(当時、一般炭増産の余地は北海道の釧路炭、樺太炭、満州炭あとは中国にあったのだが、輸送、インフラを考えれば不可能であった。)昭和15年すでに日本は敗戦をむかえていたのである。

シベリア鉄道経由欧亜連絡輸送 NO.2

 前に、「シベリア鉄道経由欧亜連絡輸送」と題して、第2次世界大戦勃発から独ソ開戦の間のシベリア鉄道を利用した日独間の軍需物資の輸送について書いた。今日はそれに関する小ネタを書き写す。
 日本の明治以降の兵食史を語るに当たって、基礎文献の1つとして次の本に目を通しておかなければならない。

 「日本缶詰史」2冊セット 日本缶詰協会
  昭和37年5月25日発行 定価5,000円

 この本には日清・日露戦役の軍用缶詰について詳細に書いてあるのだが、それはいづれ触れようと思う。
 外貨無くしては国が立ちいかなくるという致命的弱点を抱えた日本、戦争継続の為に輸出振興と金採掘に奔走した。第2次世界大戦勃発後、欧米から輸出入は先細りし、南米とシベリア鉄道を利用した独伊間の貿易の重要性が増した。
 ドイツなどと違ってろくな工業製品のなかった日本、貿易の決済には日本を含めたアジアの資源(食糧も)を利用した。
 第2次世界大戦勃発前、独伊の日本からの水産缶詰の輸入は微々たるものだった。小林多喜二の「蟹工船」が知られる通り、英米に対する「蟹缶」「鮭缶」「ツナ缶」の輸出代金は、日本の艦艇の燃料に弾丸に実は化けていたのである。
 第2次世界大戦勃発後、独伊の水産缶詰の需要は急増し、ベルリン三菱を通じて発注してきた缶詰は
 まぐろ油づけ 35万1千余箱
 いわし油づけ  1万箱
シベリア鉄道経由で実際にドイツへ送ったのは
 まぐろ油づけ 21万6千4百箱
 いわし油づけ  4千8百箱
である。(1缶当たりの容量、箱当たりの缶数は調べていません)

 なお余談だが、満州産大豆とイタリアフィアット社製トラックのバーター取引も決定していた。
 もうひとつお勧めの兵食史を研究する上の参考文献として
「日本冷凍史」日本冷凍協会
  昭和50年発行
という物もある。

「コーカサス油田」

 地方のミリタリーマニアの知識なんてたかがしれているので、本に書かれていれば「ああ、そうなんだ」と鵜呑みにしてしまう。第2次大戦でもドイツがソ連の「コーカサス油田」を真っ先に占領していれば、ドイツが勝っていたのにと書かれていればそうだったんだと信じていた。

「ドイツ第三帝国のソ連占領政策と民衆 1941-1942」永岑 三千輝
平成6年9月1日発行 同文館出版株式会社

を会社近くの地区の図書館で見つけ眺めていたら、ちょっと話が違うのである。
1942年2月末のドイツ側の予測では

○ヨーロッパ枢軸国の石油月額需要量は115万トン
○備蓄は1941年8月末には消費されてしまう
○産出と輸入で月量85万トンは調達可能
○月量30万トン不足
○コーカサス油田は月産225万トン
○全ロシアの産出量の90%(こんど調べてみる)
○占領地域のロシアの農業と工業が必要とする月当たり90万トンと枢軸国自身が必要とする月当たり30万トンを供給できるようには修復可能
○陸路で大ドイツ領域に運べるのは10万トン
○残りはダーダネルス海峡、エーゲ海経由の海路しか利用できない

ということは、「コーカサス油田」を占領してもソ連がドイツと講和して、パイプラインでも敷設しないかぎりドイツは石油を使えない。でも現実にはなんとか戦争を続けていけたのだから、どうにかはなっていたんだ。

旅順攻囲戦と明治三十七、八年日露戦役給養史 NO.3

「明治三十七、八年日露戦役給養史」の旅順攻囲戦における第三軍の状況を読めば、あたかも挽割麦が必要量を供給されていたかの錯覚を覚える。「アジア歴史資料センター」で「挽割麦」をキーワードに検索してみれば、場当たりで拙速な印象を受け到底、明治三十七年中は必要量をまったく満たさなかったことを想像させる。脚気のはっきりした原因を把握していなかった当時、経験的に編み出された「麦飯」の導入を、補給態勢の不備(糧食品の繁雑化、補給能力の不足)の為と一部頑迷な軍医たち無言の圧力の前に、開戦にあたりあっさり切り捨てた陸軍も、開戦後、脚気患者続出の前に当たり前のように「麦飯」を給与するしかなかった。
 日露戦役に陸軍の脚気について考えると上記の本から色々な事が見えてくる。
「磨擦米」精米をさらにキレイにしたもので現代の無洗米と同様のものである。戦地での水の欠乏を考え導入されたもので、ぬか部分(ビタミンB1)がさらに取り去られている。
これも本当にわずかであるが、脚気を助長することになったかもしれない。
「重焼麺麭」アメリカなどから輸入された小麦粉で焼かれたもので、栄養的には精米となんら変わらない。当時は原因が分からなかった性もあるが、「麦」という言葉から脚気に対して何らかの効果があると思われていた節がある。
「牛缶」牛肉は脚気に対して何らかの効果があると思われていたのであろう。しかし、実際のところ「味付け缶詰」100g(汁も含む)に含まれるビタミンB1はわずかに0.03mgである。ちなみに鶏もも(皮つき)で0.09mg、羊(ロース マトン)で0.06mg、山羊で0.07mg、鶏卵(ゆで)で0.07mgである。
「豚肉」戦場になった土地がらか食肉としてはもっとも用いられている。豚ばら脂身なし(中型種)で100g当たり0.52mgのビタミンB1を含有している。ビタミンの存在を知らなかったとはいえ、実は中国の豚さんが多くの日本兵の命を救ったのである。
「海苔」下賜された食品の中に見たことがある。青のり(素干し)100g当たり0.56mgのビタミンB1を含む。(ところで、握り飯を海苔で包むようになったのはいつのことなんだろう?)
「食品標準成分表」によれば生活活動強度Ⅲ(やや重い)における栄養所要量を見れば男性(20~29歳)でビタミンB1 1.2mg、エネルギーで3,050キロカロリーである。

旅順攻囲戦と明治三十七、八年日露戦役給養史 NO.2

第十一師団
① 攻城準備期間に於ける給養
此の時に方り各部隊共脚気患者の続出するありて師団軍医部長は麦飯給養を企望せる為八月六日より米五合、麦一合の割合を以て混用を励行したるに変敗速にして到底三食を一時に分配する能はす依て一食は重焼麺麭を用いしめ尚第一線部隊に限り炎熱の間強て麦飯を励行せしめさりき
② 第一回総攻撃間及其の以後の給養
(1)兵餉は梅干入の握飯と為し之を焼き副食物は牛肉缶詰、乾塩魚肉又煠鶏卵を分配せり但し最初は飯包布及菜包布等を用いたるも之を回収する能はすして遂に空箱、叺等に填入し     
(2)3食分同時に炊爨分配するときは変敗の恐れあるより一食は重焼麺麭を用いたる
もの多し
③ 総攻撃中止後の状況
此の時脚気病漸次猖獗と爲り新患者四百八十余名を出すに至り軍医部長は麦飯励行の急なるを主張せるにより八月三十日挽割麦の混合量を改め日量中の一合を一合五勺に増加したり

各師団の旅順攻囲戦間の現地調弁における主な食品(動物性たんぱく質)

第一師団
① 第一回総攻撃以後
   生牛    75頭
   豚     33頭
   鶏     50羽
② 第二回総攻撃以後
 生牛 1,752頭
 豚  2,375頭
 羊    429頭
③ 第三回総攻撃以後
   生牛    799頭
   豚   2,652頭
   鶏卵  1,379貫
   魚   8,112貫

第九師団
① 攻城準備間
   生牛    33頭
 豚    133頭
 山羊   200頭
 鶏  1,419羽
 鶏卵  4万5千個
 炎熱の為斃死せるもの亦少からす(山羊73頭)
② 第一回総攻撃以後
   生牛 約47,000貫   
   豚  約23,000貫 
   山羊   3,000貫  
   鶏    3,200貫
   鶏卵   3,900貫
③ 第二回総攻撃以後
 生牛 約27,800貫
 豚    8,300貫
 山羊   3,000貫
 鶏    6,400貫
 生魚   2,700貫
 鶏卵   2,900貫
 野菜 約60,000貫
④ 第三回総攻撃以後
   生牛  61,000貫
 豚   11,300貫
 山羊   7,250貫
 鶏    4,200貫
 生魚   6,150貫
 鶏卵   2,650貫
 野菜 約59,200貫

第十一師団
① 攻城準備間
 食麺麭    346貫
   生牛肉    290貫
 豚肉     950貫
 鶏肉      41貫
 鶏卵    2160貫
   生魚      950貫
   乾魚肉      30貫
   野菜   10,400貫
② 第一回総攻撃以後
   生牛肉  1,500貫強   
   豚肉   3,200貫弱 
   羊肉     300貫弱  
   鶏肉   1,300貫弱
 鶏卵   4,250貫強
 生魚   8,000貫弱
 野菜  47,000貫弱
③ 第二回総攻撃以後
 生牛肉  2,100貫
 豚肉  14,600貫
 鶏肉   1,480貫
 生魚   5,000貫
 鶏卵   1,646貫
 野菜  37,600貫
 豆腐   1,140貫
④ 第三回総攻撃以後
 生牛肉  3,800貫
 豚・羊肉 3,850貫
 鶏肉   1,260貫
 生魚   5,670貫
 鶏卵   2,180貫
 野菜  90,100貫
 豆腐   2,640貫

第三軍経理部旅順攻囲間現地調弁高から主な食品(動物性たんぱく質)   
 牛肉  40,984貫
 豚肉   4,617貫
 鶏肉   3,450貫
 羊肉     271貫
 獣肉   4,477貫
 魚肉   9,543貫
 鶏卵   2,995貫
 生野菜 46,434貫
 馬鈴薯  3,065貫
 豆腐   1,140貫

                           続く

旅順攻囲戦と明治三十七、八年日露戦役給養史 NO.1

 妻より「この趣味を続けるのなら離婚する。」とはっきり宣告される。離婚するのはいいのだけれど、住むところも無く、仕事も忙しいので、表面的には趣味に封印をする。・・・・・が妻と娘が数日家を離れるので、書き込みをしようと思う。基本的に人の書かない事を書く主義なのだが、世間の反応がまったく無いという事は、結局誰も読んでいないか、訳が分からないからなのであろうから、危険な割には得る物は何も無い。

「明治三十七、八年日露戦役給養史」日露戦役給養史編纂委員会
       明治四十五年発行

最近、業務上、異常に血糖値の高くなる日々を送っているので上記のような本を盗み見る。
かねてより「日露戦役と脚気と森林太郎」に興味を持っているのだが、今回は旅順攻囲戦における第三軍の給養から色々な事を考えてみる。

前置き
日露戦役において陸軍が明治三十八年十二月までに内地にて調弁した主要な物は
精米    1,899,090石
玄米      533,210石
挽割麦     421,785石
糒        68,818石
重焼麺麭  7,136,485貫
大麦(馬糧)3,672,970石
燕麦(馬糧)  385,896石

日露戦役において陸軍が明治三十八年十二月までの出戦軍糧秣総受払から給与の主要な物は
精米    1,479,851石
糯米        5,836石
支那及台湾米   17,287石
台湾玄米      2,860石
挽割麦     351,172石
糒         6,063石
重焼麺麭  2,612,091貫
大麦(馬糧)2,956,701石
燕麦(馬糧)  120,317石

 明治三十七年八月から明治三十九年四月までの満州軍倉庫糧秣補給総量から第三軍向けの主要な物は
精米    181,854石
糯米      1,051石
支那及台湾米  2,017石
支那及台湾玄米 1,470石
挽割麦    59,582石
糒       1,116石
重焼麺麭  596,136貫
大麦(馬糧)442,772石
燕麦(馬糧) 26,412石
となる。

さて、旅順攻囲戦における第一師団、第九師団、第十一師団の給養のうち主食と脚気に関する記述を上記本から書き写し始める。

第一師団
① 攻城準備期間の給養
主食は脚気予防として精米定量の四分の一の割麦を混用
② 第一回総攻撃間及其の以後の給養
宿営地区は敵の防御線に接近し極めて危険なるより戦列隊の大部は大行李を招致する能はす遠く後方にて炊爨し夜暗を利用し之か運搬分配を為したり故に適当の時に於て良好の給養をなすこと頗る困難にして日々麺麭一食を混用するの止むを得さるに至れり
第一線部隊は殆と壕内に土居し兵卒は交互坑道作業に従事せるより自ら脚気病発生の傾あり即ち之か予防として麦飯給養を励行したり時恰も盛夏に会し日々三食を一時に炊爨し前送せさるを得さる状態なるより各部隊は其の腐敗を考慮し夕一食を麦飯とせるあり夕、朝二食を麦飯とせるものありしか昼食は一般に重焼麺麭を使用せり
糧食品の実況・脚気予防の為麦飯を実行したるも本期間に於ける実況は各隊却て企望する状あり
③ 第二回総攻撃及其の以後の給養
腐敗の憂なく寧ろ氷結の虞あるに至れり故に日々一回の麺麭食は自然必要なく三食共米麦飯を用うるに至れり

第九師団
① 第一回総攻撃間の給養
兵餉は握飯若は包布及古紙等に包み或は焼飯となせり内部に梅干しを入るるもの多し
② 第一回総攻撃中止後の給養
脚気予防の為麦飯を用い来りしも此の時期に在りては尚腐敗の恐れあり故に夕食は午後六時朝昼二食は午後十一時前後に運搬し変敗を防かしむることとせり
③ 第三回総攻撃及其の以後の給養
各部隊給養の状況は第二期と同一法を採り多くは握飯の分配を為したるも本期間は往々凍結の虞ありて麦飯の如きは一般に之を厭ふの傾と為れり故に第一線に於ては従来割麦の分量即ち米の四分の一なるを改めて五分の一とし後方は麦三分、米七分

                                                                   続く