Archive for category 日記

戦史叢書

 今日はサクランボ狩り以来の24時間会社に行かなくて良い日でした。(世間ではこのような時間を何と呼ぶのでしょうか?)
 背中に負んぶお化けを背負い、布団に横たわりながら戦史叢書「蘭印
・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦」を眺めながらウツラウツラと日を過
ごしてしまいました。
 印度洋機動作戦において、南雲艦隊、イギリス東洋艦隊を捕捉する機
会があったのですが、その場合、空母インドミタブルとフォーミタブル
は意地でも沈めるでしょうが、戦艦ウォースパイト、レゾリューション、ラミリーズ、ロイヤル・サブリン、リベンジの5隻の内、何隻を沈める事が可能だったのかうだうだと考えていました。また、小沢艦隊23隻にものぼる商船を撃沈しているのに、これについて詳しく書かれた文献を見たことがありません(船名、トン数、乗員、積荷等)、戦略的に言えばスラバヤ沖の海戦やバタビヤ沖の海戦より遥かに価値のある事なのになぜこのように冷遇されているのだろう、つまりほとんど遊兵化した敵国重巡の一隻や二隻何の意味があるのか、世の中間違っているとブツブツ呟きながら夢の世界に身を委ねました。

 最近読んだ本
 「みんなが読んでいる烈風の本」
  素人から見ると結局どうにもならんという話でした。

 「ラスト・オブ・カンプフグルッペ」高橋慶史
  2001年10月10日 大日本絵画
  実は秘密なのですが、枢軸国の車両や兵器が大好きなのです。ただ
 し好きなだけで知識はありません。この本に載っていた1942年10月分
 のルーマニア国産兵器生産数の表を見た時は、正直、悶絶しました。
  

だって読めないだもん

「RELUCTANT ALLIES」

 「GERMAN-JAPANESE NAVAL 
  RELATIONSIN WORLD WARⅡ」

  Hans-Joachim Krug,Yoichi Hirama,
Berthold J.Sander-Nagasima,and Axel Niestele

Naval Institute Press

 皆さんご存知なように、日本語にも不自由なプリンス、年に1、2回
読めもしないアチラの本を衝動買いしてしまう。まあ、だいたいボーナ
スが出てチョットは裕福になった時なのだが、この本の広告を「世界の艦船」で見た時、「これは神がプリンスに与えた本だ。例え何が書いてあるのか分らなくても買わなくてはならない。」と思った次第である。
 この本は戦前、戦中の日本とドイツの軍事的交流を書いた本らしいの
だが詳しいことは分らない。(だって読めないんだもん)そこで、おそらくこんな面白いことが書いてあるのだろうと創造(想像)したことを紹介してみよう。

 ①インド洋でUボートや仮装巡洋艦の補給のためフランスのボルドーからはるばるやってきたウッカーマルクなどドイツ油送艦、任務が終了後日本からドイツに帰る時、満州産大豆油を積んで帰る予定になっていたらしい。第二次大戦勃発後、シベリア鉄道を使いドラム缶入りの鯨油と共に満州産大豆油が盛んにドイツに送られていた。シベリア鉄道が使用できなくなり「柳船」が用いられるようになっても大豆油は主要な積荷だった。ドイツも食い物には相当困っていたのか、それとも鉄の焼き入れ、はたまたニトログリセリンの材料など工業的に使ったのだろうか?ただ、はるばるやってきた3隻の油送艦1隻も帰る事が出来なかった。

 ②シベリア鉄道が使用出来なくなると、「柳船」が用いられるようになるのだが、日本が開戦しシンガポールなどを占領した前後では積荷の内容が変っている。開戦前も後もゴムと食用油(満州産大豆油)の重要性は変らない。開戦前は大豆やラード(豚の脂肪)、乾燥卵、乾燥卵黄などリストアップされているが、開戦後はこれに加えて錫、タングステン精鉱、キニーネ、スパイス(胡椒、シナモン、ナツメグ等)など日本では入手しにくい東南アジアの特産品が積載された。さらに、ちょっと引っ掛る物として、「Canned fish」がある。北洋で獲れ生産された「鮭缶」「蟹缶(たらばがに)」戦前は重要な輸出品として、米国、ヨーロッパに盛んに送られていた。ドイツは貧乏だったのでこのような高級?な食材は余り輸入していなかったが、輸出先がなくなったのでアレやコレやの精密機械や兵器と交換することになったのであろう。

 ③Uボート、インド洋で活動するにあたり、日本が喉から手が出るほど欲しがっていた資源、バラスト代わりにして運んでくれた。実際ドイツが日本に積み出した量は、日本が訪独潜水艦で運んだ量とは比べものにならないほど多いのだが、半分以上がその航程の途中で失われた。
 日本が入手した資源は
  1、水銀       396トン
  2、鉛        383トン
  3、アルミニウム    63トン
  4、ガラス       12トン
  5、特殊鋼       14トン
 なぜアルミニウムを運んできたのか?もっと必要性の高い、日本では採れない、作れない物がたくさんあるはずなのに私には理解しかねる。
 (そういえば、カリブ海に日本向けの水銀を載せたUボートが沈んでいるのを発見した新聞記事を見たような気がする。)

 ④前に戦時中、ドイツでは天然ゴムが不足していたと書いたが、1943年12月26日、ボルドーに到着した最後の「柳船」オゾルノ(Osorno)がもたらした天然ゴム、1944年11月までドイツの必要量を満たしたらしい。
 「柳船」が4万トン弱、Uボート172トン、訪独潜水艦?これらの数
字からすると、さすがドイツは「化学の国」である。

 これ以上は読めないので、だれか札幌市内にお住まいの方、私の代りに訳してください。お貸しいたします。それにしても、頭の悪いのには困ったものである。

マグネシウム合金

前に「マグネシウム合金なんて知らない」と書いたら、心やさしい方が
チョットだけ教えてくれました。それからは、気にかけて関係するような本をチラホラ眺めています。
 「写真週報 第四十四号 昭和13年12月14日発行」
 のテーマは
    「独逸の代用品」です。
 
 独逸は欧州大戦に際し物資欠乏によって最大の苦悩を嘗めた国であった。当時独逸においては多数の科学者が動員され、得意の科学的独創力とゲルマン人独特の頑張りによって多数の代用品の発明を完成した。然しながら代用品工業は科学的に資源を創造する工業である。それは原料を全然本質的に異なる他物質に変化せしめる化学的操作を前提とする。従って代用品工業の振興には多年にわたる研究と多くの経験の集積が必要である。この意味では大戦当時の代用品工業は不成功であったといわねばならない。しかしこの貴重な経験と教訓とが今日の独逸における代用品工業の基礎をなし、且その発展の大きな要因をなしているのである。
 各国における代用品工業の特質は各国の原料供給の状態によって異なる。然しその共通する所は代用燃料、代用繊維、代用ゴム、人造樹脂等の工業がその主流をなしていた事である。

 そして紹介されているのは
①魚皮で出来た靴、ハンドバック
 (日本でも鮫皮を使った話は聞いた事があります。北海道の先住民族であるアイヌは鮭皮で靴を作っていました。)
②合成樹脂で金属、木材、陶器の代用
  コーヒーポット、砂糖入れ、コーヒー茶碗、ミルク入れ、皿、盆
 (今では当たり前)
③人造ゴムのタイヤ
 (さすがドイツ、昭和13年の時点ですでに形になっています。)
④金属マグネシウムで銀の代用
  見た所、銀のクリーム入れと変らないが、これは実は新発明の金属マグネシウム製だ。
 (依りによってマグネシウム合金・エレクトロンでミルクポットを作るとは)

 ドイツではマグネシウム合金の材料であるマグネサイトなどは、自国領内で潤沢に採掘され、アルミニウム原料であるボーキサイトのように自国内で採れないものではなく、100%国産可能な金属でした。
 国民自動車(フォルクスワーゲン?)のクランクや変速機箱などもマグネシウム合金で作っていたようです。
  ドイツマグネシウム生産高
1926年  300トン以下
1931年 2500トン
1933年 5000トン
1937年14000トン(世界総生産高27000トン)
 戦前、戦中、日本でのマグネシウム生産高は1944年が最大で、内地2577トン、朝鮮・台湾・満州で2548トン、合計5125トンです。

 ところで、エレクトロン、メタノールに弱いようだけれどMW50使って大丈夫なのかな~

  引用・参考文献
 「ドイツにおける『工業原料自給の科学』」訳者 内田源兵衛 
  昭和18年8月30日発行 経済図書株式会社

 「ドイツ工場技術全書『軽金属』」訳者 橋本正一
  昭和27年2月5日発行 資料社

 「マグネシウム及び其の合金」三ヶ島秀雄
  昭和15年8月20日 アグネ出版

もやし

 「 戦時下の『食糧と体位』」
    井上兼雄 高志書房 昭和18年7月10日

 身近にある社史も殆ど借り尽くしたので(田舎なのでたいした量があ
るわけでもないのですが)このような本を開いてみました。中に「兵隊
と栄養」という一章がありました。前に、ビタミンB1の話を書きまし
たので何か関連する面白い話が書いていないかと読んでみたのです。
 日華事変初期にごく一部ですがビタミンB1の欠乏により、脚気が発
生しました。陸軍が支給した主食は「七分搗き米」7割と「大麦」3割
を混ぜたものでした。本来なら脚気などにはならないはずなのですが、
後予備役の会社員や金持ちの子供の混じっている部隊だったようで、
「明日をも知れぬ命、不味い物は食べたくない。」ということで、米を
飯盒に入れてゴシゴシ洗い、胚芽や糠は綺麗に洗い落とし、浮かんでき
た麦は捨ててしまい、脚気を発症させたようです。中国戦線では補給も
ままならず「現地調達」がかなり行なわれているのに誠に罰当たりな話
であります。
 大航海時代、生鮮野菜や果物の不足により「壊血病」になり多くの船
乗りが死にました。「壊血病は」ビタミンCの欠乏から生じます。戦時
中、旧満州でも冬になると野菜が入手出来ずビタミンC摂取の為、大豆
の「もやし」を食べさせていたようです。そしてこれでは飽きてしまう
ので毎日お茶(番茶)を飲ませるようにしたそうです。
 ところで、もやしの効果は?
 座右の書「最新食品標準成分表」によれば
 現代の生活活動強度Ⅲ(重い)成人男子のビタミンC、1日所要量は
50㎎、大豆もやし100g当り生で8㎎、茹でた物で2㎎、もし単純
に茹でた物だけで必要量を満たそうとすれば2500gのもやしを食べ
なければなりません。ホンマカイナ。また番茶抽出液(ようはただのお
茶です。)100cc中に含まれるビタミンCも2㎎です。なお、イギ
リスの船員に用いられたライムジュースでは100g中33㎎のビタミ
ンCが含有します。
 不思議なことに「かぼちゃ水煮」100g中12㎎、「石焼芋」
100g中21㎎ビタミンC含有、・・・なんで「もやし」なんだ・・・

サクランボ狩り

精神を病んだサラリーマンを癒すのは、やっぱりサクランボ狩りである。北海道は積丹半島の付け根「仁木町」、フルーツの里はいまがサクランボ真っ盛りである。この近辺、観光農園が点在する。入園料1,000円で時間無制限、佐藤錦食べ放題である。本当、美味しいんだから。スーパーで売っている物、アレはサクランボではありません。「チェリークラフティー」「チェリージュビレ」「チェリータルト」「チェリーパイ」作ったら此の世の物とは思えない程美味しいだろうな~、BUN様食べたい?
 なお、残念な事に帰り道「蛇」を踏んづけてしまった。

Wカップ2

 ドイツチームも決勝進出である、よーし、オリバー・カーンのサインとドイツチーム関係者とイングランドチーム関係者から貰ったグッズの数々を叩き売り、「第七鹵獲集成戦車中隊」を充実させるしかない。
 ん、忘れてた。全部人にタダでやってしまったんだっけ。
(やっぱりソフトスキン出してもらわないと大隊編成にできないよな~)
 本日、ドイツ・ヒルデスハイム博物館所蔵「古代エジプト展」を見る。大英博物館やルーブル美術館の圧倒的物量には及びもしなかったが、田舎では貴重な物でした。

乾燥野菜

 ごく一部で人気のある雑誌「写真週報」面白い事は面白いのだがハズレも多いのである。印度総督様のように全部集めてしまおうなどと、不埒な考えは持っていないので、わらべの様に500円玉を握り締め、「ビニール袋」に包まれた本の内容を想像(妄想)しながら買わなければならないのである。そして、ハズレた時はやっぱり「男の悲哀」を感じてしまう事になる。
 戦時中前線で、乾燥味噌と乾燥野菜があれば、取り合えずご飯のオカズには困らないという話を何処かで読んだような気がする。乾燥味噌なら想像も付くのだが、乾燥野菜と言われても漠然としてよく分らなかった。当時冷蔵・冷凍庫もろくに無いし、缶詰では重いし嵩張るし、南方は暑過ぎて日本で馴染みの野菜が採れにくいし、戦場ではやはり乾燥野菜を食べるしかなかったのであろう。現在、世の中に出まわっている古典的な乾燥野菜と言うと「切干大根」と「乾芋」ぐらいしか食べた事はないが、戦前・戦中いろいろな物が作られていたようである。

 「写真週報、第275号」 昭和18年6月9日発行に

 「萬一に備え女学生の乾燥野菜つくり」
    岐阜県岩村高等実科女学校  の記事がある。
 岐阜県岩村町の県立高等実科女学校では、萬一の場合と、当然野菜不足に陥る冬の栄養補給を考えて、昨年から天火利用の乾燥野菜の製造をはじめ、原料も学校内の報国農場で自給して、昨年中に大根五十貫、人参二十貫、葱十貫の素晴らしい成果を収めたが、今年は更に里芋、キャベツなど野菜の種類もふやそうと、一生懸命な研究と準備を進めている。

 とある。これは自家消費用の乾燥野菜の例であり、「軍用」の乾燥野菜の作り方はさっぱり分らない、そこで当時の本を探しだしてきたので、チョット紹介しよう。但し、巷にある本を調べたものであり、、軍の正式な規定や文書があるのであろうが、私は知らないし調べるすべもない。ただ、調理の仕方、戻し方は次ぎの2冊に書いてあった。
 『復刻「軍隊調理法」』1982年 解説小林完太郎 講談社
  原本は昭和12年7月26日陸軍省検閲済「軍隊調理法」
 には、乾燥野菜の調理法として
    1.乾燥甘藷(さつまいも)
    2.乾燥馬鈴薯(じゃがいも)
    3.乾燥里芋
    4.乾燥牛蒡(ごぼう)
    5.乾燥にんじん
    6.乾燥蓮根(れんこん)
    7.乾燥慈姑(くわい)
    8.乾燥南瓜(かぼちゃ)
 が載っている。他には現在でも見られる「干瓢(かんぴょう)」「切り干し大根」「紫蕨(ぜんまい)」(これは干した物)の料理があった。

 『海の男の艦隊料理』1983年 イラスト監修高橋孟 ノーベル書房
  原本は昭和17年3月改正版「海軍主計兵調理術教科書」
 には、乾燥野菜の還元法(戻し方)、調理法として
    1.乾燥ニンジン
    2.乾燥ごぼう
    3.乾燥白菜
    4.乾ホーレン草
    5.小松菜
    6.乾燥キャベツ
    7.乾燥ネギ
    8.乾ナス
    9.乾燥甘藷
    10.乾燥馬鈴薯
    11.乾燥里芋
    12.乾燥レンコン
    13.乾燥南瓜
 が載っている。ここでも「切干大根」「乾わらび」が取り上げられている。

 さて、乾燥野菜の作り方なのだが、当然フリーズドライ(真空凍結乾燥)など派手な技は使えないので(当時の日本でも技術や設備はあったようだが)、太陽と風はたまた熱風乾燥機のお世話になる。

          乾燥野菜の作り方
1.原料とその手入れ
イ、原料の選別
   出来るだけ新鮮な物を選んでください。原料が悪いと良い製品は出来ま  せん。
ロ、水洗い 
 充分に水洗いして土砂、塵埃等を取り除いてください。
ハ、皮むき  
 ごぼう、芋類は皮を剥いてください。そして変色しないよう清水か塩水に  漬けください。
ニ、切断
 根菜類はそのまま調理できるよう均一な厚さに切ってください。厚さが  不揃いだと乾燥が一様にいかず、工業的大量生産が出来ません。
2.予備処理(野菜の色止め)
 野菜特に青物は加工中または貯蔵中変色し、見た目も良くなく、栄養価や  味にも影響します。そこで変色防止の為、熱湯処理または蒸熟処理します。加熱は短時間に行ない、加熱後冷水で急速に冷却します。そして水切りをします。
(遥か大昔「植物の褐変」について卒論書いたよな~)
3、乾燥
 乾燥法には1、天日乾燥 2、火力乾燥があります。
 火力乾燥にも イ、直火法 ロ、間熱法 ハ、熱風利用法があります。
 乾燥機は製茶用乾燥機、輸出が減り余剰となった乾繭機が通常使われます。(乾燥機を使用すると、ニンジンは摂氏71~82℃、4~5時間で乾燥します。)
4.梱包
 小松菜、ほうれん草のような葉菜類は嵩張っていますから、これらを梱包する際には、まず製品を圧搾枠につめ、水圧機で400ポンド位の圧力を加え圧縮します。糧秣廠納入の乾燥葉菜類はこの処理が必要で、出来た葉菜類は板状に硬結されているので運搬しやすく、しかも水分の浸入が少なく、空気に触れる部分が少ないので変質が防止されます。圧搾品は紙に包まれ、ブリキ或いはトタンの内函に入れてハンダ付けします。これを四分板の外箱に納め、板面に内容を表記し、荷造りします。・・・他の乾燥野菜はどうやって梱包したのでしょう?

   引用・参考文献
  「全書農芸実用 23 食品貯蔵」木村 金太郎
   昭和19年9月5日発行 産業図書株式会社

  「実用保存食品の製造法」星 忠太郎
   昭和14年1月15日発行 誠文堂新光社

Wカップ

本来なら、札幌ドーム、イタリアVSエクアドル戦を、お伝えする予定
だったのだが、やっぱり仕事である。
 サッカーなど見たこともない、欲に憑かれた人々が誘致したワールドカップ、人知れず影で泣いている人間がここに居た。
 旧同盟国と旧敵国のお世話の為、夜も眠れぬ地獄の日々を過ごし、聞く事も話す事も出来ぬ敵国語に悩まされ、飯を食う暇もなかった。
 例えオリバー・カーンのサインを直接貰い、ベッカムが靴の後ろを踏んで歩いていても、オーウェンよりクローゼの方が滅茶苦茶男前でも、私の心と身体は癒せないのである。
 今日の読売新聞で選手の行動予定を発表するべきだと書いていたが、選手達はそんなことはこれっぽっちも望んでいないのである。なぜならば、彼らは「戦い」そして「勝つ」為に来ているのだから。

 最近の戦果
 八八2門、フェルジナンド2台、四号2台、ティガー1台、シャーマン2台、妻より1週間に1個づつ買うよう厳しく説諭される。
 なお、イタリアVSエクアドル戦は姪の旦那が代わりに見に行き、他の2枚は泣く泣く譲る。

黒パン

「Uボート997」H・シェッファー 横川文雄訳 朝日ソノラマ文庫中の「南海のドイツ海軍」横川文雄著 それはそれはすばらしい内容なのだが海軍正規士官がお書きになっただけ、つまらないミスもあるのである。別にたいした問題でもないし、どうでも良いと言えばどうでも良いのだが、「旧軍糧食研究家」としてやっぱり書いてしまった。
 インド洋に進出したUボートに日本側としても食糧を調達しなければならなかった。上記文中に次ぎの記載があった。

 ドイツ大使館付海軍武官室からは早速十隻の潜水艦に必要な糧食のぼう大なリストが海軍省に提出されたが、大部分のものは海軍省軍需局の子安少佐、M大尉、S大佐などの絶大な尽力により、1944年4月に神戸を出港予定の『ロスバッハ』に積み込むことができたのである。海軍省が特に入手するのに苦労したのは、ドイツ人が無しにすますことのできない黒パンの原料である裸麦を十トン集めることだった。九州及び四国のごく一部でしか生産されていない裸麦も十トンもまとめることは、当時の海軍省の威光を以ってしても、誠になみなみならぬ努力を要することだった。

 一般的に黒パンと言われる「ライ麦パン」はその名の通り「ライ麦粉」を主とし(「小麦粉」などを一部混ぜる物もある。)作ったパンである。文中の「裸麦」は大麦の一種で粉にしてもパン(発酵生地)にはならない。ライ麦は小麦の実らない寒冷地でも栽培でき、ドイツ、東欧、北欧、ロシアなどでライ麦パンが食べられている。(噂によると、彼らも小麦粉で作られた白いパンが好きで、出来れば黒パンなど食べたくないのだという。)当時の日本でのライ麦生産など見たことも聞いたこともないのだから、九州、四国で生産されたと言われてもわけが分らない。ただ、旧満州には白系ロシア人が住んでいたこともあり、それなりの生産が行なわれていたと思うのだがどうなのであろうか?
 手元に一冊の小冊子がある。
 「   昭和十六年九月一日発行
    『北農』第八巻九号別刷

   郷土食糧としてライ麦の利用を奨む
                     山本晃治  」
 
 戦時中、北海道の泥炭地、酸性土壌地など地味のやせた土地でも栽培可能なライ麦の生産を奨めた本である。「人の住むところではない土地」だからこそ作って食べなさいと言う本である。専門的な事を書いても面白くないので、はなはだ怪しい黒パンの作り方を書き写しておく。

  ライ麦発酵パン(黒パン)
〔材料〕ライ麦粉100匁、砂糖5匁、脂肪及食塩少々、乾燥酵母1匁
    温湯1合余
〔製法〕温湯5勺に酵母を加えて撹拌し酵母の活性を促して置く。捏鉢に砂糖、食塩を入れ温湯5勺余を加えて溶解し、これにライ麦粉を入れ、活性を呈した酵母液と脂肪(バター又はラード等)を加え、耳たぼ位の硬さにしてよく捏ね、表面を滑らかにし直接風の当らぬようにして華氏八五度内外の処に保温すると二時間位で二倍大に膨れる。この時捏ね返して瓦斯を抜き再び保温して約一時間位すれば二倍位に膨れるから、取り出して軽く押えて瓦斯を抜き、適宜の大きさに丸め、油を引いた焼型に乗せ、前と同様に保温して二倍近く膨れたら天火に入れて焼き上げる。
(プリンス注、高温で充分に火を通し、焼き色をしっかりつけられると美味しくお食べになれます。切るときは薄めに。)
  参考文献
 「週刊朝日百科 世界の食べもの
     No122 ムギの文化」昭和58年4月24日発行

ペニシリン

「歴史群像6月号」を買ったところ、「魔法の弾丸 ペニシリン」
という記載がありました。戦時中の日本の様子がごくあっさりと書い
てありましたが、私にとっては淋しいことなので、またまた社史を引
っ張りだしてきました。

 ライオン株式会社は昭和15年9月薬品部門に進出する為、ライオ
ン製薬㈱を設立しました。ここでも戦時中ペニシリンの生産が行なわ
れました。

 昭和19年新聞紙上でペニシリンの開発を知ったのを機に、研究室
にある保存菌を再検討した。その結果化膿菌に対して弱い抗菌性があ
ることを確認し、さらに研究を進め数ヶ月後に1280倍希釈までの抗菌
性のある菌を発見することができた。
 この菌の培養液を海軍医学校に持ち込んだところ、海軍の支援を受
けることとなった。臨床研究の結果も好成績であったことから、19
年末には生産が間に合わないほどの需要であった。20年の大空襲で
すべてを焼失したが、海軍の要請もあり福島市の掛田に工場を設け、
わずかに残っていた菌を基に生産を再開したが失火で全焼し、伊達に
移転したものの24年には生産を続けるのが困難であった。

 グンゼ株式会社は生糸生産をおこなっていました。廃棄物として出
る蛹(さなぎ)の有効活用の1つとしてペニシリン生産を試みました。
(元々家畜の飼料や鯉の餌にすることは聞いた事があります。)

 昭和20年8月1日、第3製作所のひと隅に軍当局の許可を得て培
養工場をつくった。蚕蛹高度利用のひとつとして、蚕蛹をペニシリン
製造の培養源として活用するためであった。
 海軍軍医学校長が研究所長中田太郎の同郷の知人である関係で軍医
学校からペニシリンの情報が伝えられ、その要請もあって研究を開始
していた。青かびの採集には、培養材を入れたシャーレを全国各地に
運び、空気中の菌を付着させ、これを培養して青かびを探した。三谷
賢三郎がおもに担当して採集は国内はもとより朝鮮にまでおよんだも
のの、めざす青かびは発見できず、海軍軍医学校からドイツの青かび
を入手し、ペニシリン製造に着手できた。
 ペニシリンは傷病兵治療の特効薬として脚光を浴び、軍部も協力を
惜しまなかったが、工場設置の15日後は日本が無条件降伏をする日
であった。

 これらの記載から余り知られていなかった海軍側の動きがちょっぴ
り分ってきました。しかし、有効な菌種の提供や統一などの動きが感
じられないのは、いったいどういう訳なのでしょうか?

   引用文献
 「ライオン100年史」 ライオン株式会社
  平成4年10月30日発行
 「グンゼ100年史」 グンゼ株式会社
  平成10年3月発行

 「歴史群像 6月号」で「戦闘糧食」の記載がありました。この中
で勘違いなされていると思われるところがありましたので、チョット
書いてみましょう。文中で旧軍に関して
「日本の軍隊は、米と味噌さえあれば体力を維持できたのである。」
との記載がありました。明治期日本の陸海軍は「脚気」により多くの
死者を出しました。脚気とはビタミンB1の不足により生じ、精白米
と味噌汁だけで副食物が貧しい食事において容易にかかります。この
当時、ビタミンB1などの存在は知られていませんでしたので、治療
法も分りませんでした。海軍軍医高木兼寛はヨーロッパ諸国に脚気が
少ない事に着目し、明治17年麦飯(大麦)パン食(小麦)を導入し
脚気患者を激減させ、この問題に決着をつけました。大麦、小麦粉に
は精白米より、ビタミンB1の含有率が高いのです。陸軍は脚気を病
原菌による伝染性のものと見做し有効な対策を取れませんでした。日
清、日露戦争においても脚気による戦病死者を多く出したと記憶して
おります。明治44年東京大学の鈴木梅太郎によりビタミンB1が発
見されやっと脚気の治療法が確立されました。
 「『復刻』軍隊調理法」解説 小林完太郎 講談社 1982年
(昭和12年7月26日陸軍省検閲済「軍隊調理法」の復刻版)
において、
 第一、主食、一、米麦飯
  材料(一人分) 米麦(胚芽米200g精麦62g)262g
とあります。胚芽米は精白度が低い米であり、精麦は大麦のことであ
ります。その他に米飯の記載はありません。基本的に陸軍が提供する
ご飯には麦が入っておりました。