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鶏を割くのに牛刀をもってする

「艦爆隊長の戦訓」 阿部善郎 光人社NF文庫
「幻の最後通牒 アメリカ大使館附海軍武官補佐官の太平洋戦争」
  実松譲  1995年8月18日発行 五月書房 
を読む。
 「鶏を割くのに牛刀をもってする」真珠湾攻撃後、セイロン島攻撃までの南雲艦隊の作戦行動について、多く耳にするセリフである。ウェーク、カビエン、ラバウル、ポートダーウィン、チラチャップこれらの攻撃がお気に召さないらしく、あくまでも主敵は米主力艦隊、空母や座ったアヒル、オット失礼戦艦なのらしい。当時、紛れも無く世界最強の打撃力を誇った艦隊は、商船など歯牙にも掛けないのである。であるから、ポートダーウィンにしろチラチャップにしろコロンボ、ツリンコマリー、反復攻撃を行ない商船を徹底的に沈めるなど考えも及ばなかったのであろう。弱った犬を叩くなど帝国海軍の矜持からも許されないことなのである。(南雲艦隊がチラチャップで沈めた艦船の連合国側からの詳細な話をだれかプリンスに御教示ください。)
 2冊目の本は面白かった。ニューヨークの海軍監督官事務所が開戦前、工業ダイヤモンドを秘密購入したり、スペリー社で製作され対英援助物資として送られるスーパー・チャージャー(過給器)をカナダのハリファックスで盗んだ話は初めて聞いた。また、在米資産が凍結される前に、アメリカ大使館で90万ドルもの現金を用意していた話はとても興味深かった。大使館での開戦前後の大使館員の行動は今も変わらぬ伝統的なもので、彼らは悠久の時の流れに身を任せていたのだ。

ビタミンC

  昔々ある所で、ビタミンCの含有量を実験で調べたことがある。クラスのみんなは芸が無いので蜜柑の果汁や皮の含有量を調べていたが、プリンスはその当時も貧しかったので、みんなから蜜柑の房に付いた白い筋を恵んで貰い実験を行なった。その実験結果はほとんど覚えていないが、確かほとんど含まれていなかったと思う。
 ビタミンCは人間にとって必須なビタミンであり、体内で合成されることが無く、外から何らかの形で摂取されなければならない。はるか昔、大航海時代が始まり、多くの船乗り達がビタミンCの不足からくる「壊血病」で命を落とし、日本では幕末、ロシアに備える為、蝦夷地に派遣された東北諸藩の武士達が、越冬時の生鮮野菜や果実の不足からくる「壊血病」で多くの命を落とした。
 戦時中、補給体制の不備や冷蔵設備不足などで、陸海軍を問わず、将兵が「壊血病」に罹る恐れがあった。ビタミンCは食物から摂取するのがベターであるのだが、注射や錠剤の形でも摂取できる。今回は、日本での戦前、戦中のビタミンCの化学合成と生産について紹介する。
 昭和8年(1933)、スイスのホフマン・ラ・ロシュ社(ライヒスタイン
Reichchstein)がビタミンC結晶の合成・工業化に初めて成功した。
合成の過程は
① 澱粉(塩酸を加え、加熱)
② ブドウ糖(高圧還元)
③ ソルビット(菌培養、ソルボーズ発酵)
④ ソルボネーズ(アセトン、濃硫酸で処理、ベンゾールに溶解)
⑤ モノアセトン・ソルボーズ(炭酸カリ溶液で処理)
⑥ ジアセトン・ソルボーズ(過マンガン酸カリで処理)
⑦ ジアセトン・エル・ケトグロン酸
⑧ ジケト・エル・グロン酸
⑨ ジケト・エル・グロン酸メチルエステル
⑩ ビタミンC(アスコルビン酸ともいう)
となる。(わからないのが当たり前です。)

 ロシュ社は昭和7年に日本ロシュ株式会社を設立、すべての製品について関東では田邊元三郎商店(後の東京田辺製薬)、小西新兵衛商店、鳥居商店が代理店となり、関西では田邊五兵衛商店、武田長兵衛商店(後の武田薬品)、日本薬品洋行が扱っていた。このような経緯から、田邊元三郎商店ではビタミンC製剤についても輸入することとし、アスコルビン酸結晶をロシュ社より輸入して、これを製剤化し、昭和11年7月から純ビタミン製剤「アスコルチン」として、翌8月から「アスコルチン注射液」として発売した。
 田邊元三郎商店ではビタミンCについては一括専売することを希望し、その旨をロシュ社に申し入れた。ところがロシュ社は一手販売よりはむしろビタミンC結晶の日本での工業化を逆提案してきた。当時、日本の精密化学工業は、まだ初歩的段階にとどまっており、初めからの一貫工程は無理であるため、最終工程に至る前の中間体であるエル・グロン酸の供給を受け、それを製品化してはどうかという提案であった。田邊元三郎商店は早速この提案を受け入れてロシュ社と交渉を開始し、途中からこの導入には武田長兵衛商店も参加することとなって、両社でビタミンCの生産を行うこととなった。
 当時、ビタミンCの国産化を強く望んでいたのは海軍で、遠洋航海には必須の栄養源であった。また陸軍も壊血病予防の製剤として国産化を奨励していた。このような事情を背景にして、その当時としてはきわめて珍しいといわれていた海外製薬企業との技術提携が実現することとなった。
 田邊元三郎商店は東京市足立区梅田町に土地を取得し、昭和14年11月25日から工場の稼動を開始した。当初は中間原料のジアセトン・グロン酸を輸入して、これを処理し、月産300kgのアスコルビン酸を製造していたが、翌年よりジアセトン・グロン酸の自家製造を図り実験工場を作り、ビタミンCの完全国産化の研究に乗り出した。
 スイスのロシュ社に対しては引き続きジアセトン・グロン酸を発注していた。昭和16年に入って2,000kg発注がなされ、1,500キログラムが入荷して、残り500kgの到着を待つ状態となっていたところ、開戦を迎えスイスを出発したジアセトン・グロン酸500kgは船積みのままタイに滞留することとなってしまった。この中間原料は後に海軍の斡旋で入手することができたが、戦争の勃発によって中間原料の輸入は絶望的な状態となった。しかし、この間にもビタミンCの完全国産化をめざす関係者の努力は続いていた。
 まず、澱粉メーカーと提携してソルビットの生産に目処をつけ、国産化にこぎつけた。次いでソルボーズの培養に進み、実験室での培養から開始した工程を乗り越え、ようやくジアセトン・グロン酸の精製に成功、ビタミンCの完全国産化に途を開いた。こうして一貫生産体制の見通しがつき、昭和16年に入ってから「臨時資金調整法」に基づく認可を得て資金を調達、工場増設に踏み切った。
 ビタミンCを製造する工場は月産800kg程度の生産能力を確保するよう設備し、完全国産化は昭和17年8月からスタートした。昭和17年中には月平均120kg程度の生産量で、昭和18年に入って平均月産230kgベースとなり、同年10月600kg、11月810kgとピークに達する盛況をみせた。そのころビタミンC製剤は戦時医療薬品として重要な位置を占め、梅田工場製の「エル・アスコルビン酸」も、陸軍糧秣本廠受注分を含めて、製品の約92%は軍納入分となっていた。
 この後、梅田工場から送り出されるビタミンC製剤は、昭和19年中に月産平均370kgとなり、昭和20年終戦までの月産平均は150kgだった。

 武田長兵衛商店では昭和10年4月役員が東京で開かれた合成化学の講演を聴き、ビタミンCの将来性に着目し、その研究と製造を研究部に指示した。まず合成研究と並行して、昭和11年8月から新鮮な植物からのビタミンC抽出を開始した。大根葉の粉末535gからビタミンC結晶を2.5g、柿の葉3kgから1.3gの同結晶を得た。この結晶は注射液にして昭和11年「ビタシミン」の名で発売された。
 一方、昭和11年5月からライヒスタインの合成法を追試しながら、各工程について改良が行われた。まず、バイエル社のソルビットを使ってソルボーズ発酵を開始した。しかし、昭和13年ごろにはソルビットが入手困難となったので、ブドウ糖の電解還元方式によるソルビットの製造を行なった。この電解還元法によるソルビットの製造は順調に進んだ。次にソルビットの発酵法によって得られたソルボーズにアセトンを縮合させて、ジアセトン・ソルボーズを作る工程も改良された。これを電解酸化してグロン酸を得、メチルエステルとした。これにマグネシウムによるエノール化反応を行ない、最終工程を経てビタミンCの結晶を得ることができた。このマグネシウムによるエノール化反応は独自の方法で特許登録された。
 昭和13年より大阪工場に機械設備の据付けが開始された。同年5月ジアセトン・ソルボーズ工場が完成し、以後本格的生産態勢(年産約1t)に入ったのは昭和15年5月ごろであった。太平洋戦争が始まり人員の確保並びに原料の入手が困難となり生産は思うように進捗しなかった。終戦時にも悪条件下生産は続けられていた。
 武田長兵衛商店の海外事業場「満州武田薬品工業㈱」は満州国奉天市鉄西に新工場を作り、昭和18年5月からソルビットからのビタミンCの生産を始めた。昭和18年11月には9.5kgの製品を得た。また、軍・官の強力な要請により、当時内地でもみられなかった(?)ビタミンC月産500kgの大設備計画を推進するため昭和19年1月26日満州武田VC工場建設委員会が発足した。昭和19年には第2工場が、昭和20年7月には第3、第4工場がほぼ完成した。

 田邊五兵衛商店(後の田辺製薬、田邊元三郎商店は田邊五兵衛商店から明治34年独立)は昭和18年6月、軍の要請によるビタミンC製造のため、大阪の建材鉄工場遊休施設を買収、改造して十三(じゅうそう)工場を設置した。同年末、工場の改造とともに海軍の管理工場に指定され、昭和19年4月から操業を開始した。
 ビタミンCの合成は昭和13年7月ごろから約2年間、研究室で研究していたことがあったが、発酵法による本格的な製法の研究は昭和17年12月、海軍の要望に応じて開始し、工業化の目処のついた昭和18年10月に試作に当たったものである。まったく未経験のソルボーズ発酵法であったため、操業当初は収率が悪く、製造量はごくわずかにとどまっていたが、やがて生産は軌道に乗り、昭和20年5月ころには量産の見通しを立てることができた。しかし、まもなく終戦を迎え、結局はみるべき成果を挙げえないままに終わった。

 どうも各社の協力体制もわからないし、他に製造または製造を計画した会社があったのかプリンスは知らない。それにしてもこんな話、誰も
面白くないか。

引用・参考文献
「全訂ビタミン」鈴木 梅太郎
 昭和25年11月30日発行 日本評論社
「発酵ハンドブック」財団法人バイオインダストリー協会 発酵と代謝研究会
 2001年7月25日発行 共立出版株式会社
「東京田辺製薬社史」三菱東京製薬株式会社
 2000年9月発行
「田辺製薬三百五年史」田辺製薬株式会社
 昭和58年10月発行
「武田二百年史(本編)」武田薬品工業株式会社
 昭和58年11月発行

アルミ粉

 戦時中、日本海軍が機雷や爆雷の爆薬カーリットの代りに使用しようとした一式爆薬(ピクリン酸アンモン81%、アルミ粉16%、木粉1%、重油2%)は、アルミ粉の不足で生産はあがらず、ついで魚雷用として研究された九八式爆薬がこの目的に使用された言う。
 また、弾丸の炸薬として二式爆薬(TNA60%、アルミ粉40%)が海軍制式火薬、爆薬一覧表に載っている。
 アルミ粉が爆薬原料として用いられる説明として
 含水爆薬原料として用いられるアルミニウムには、鱗片状のものと粒状のものがある。含水爆薬の鋭感剤としては前者が有効であるが、可燃剤としてならば後者でも十分である。空気との混合系で粉塵爆発を起こすおそれがあるので、静電気対策などの安全措置がひつようである。含水爆薬の鋭感剤、可燃剤の他に、硝安爆薬、コンポジット系推進薬原料あるいは各種火工品として、その高発熱性が利用されている。
   (火薬ハンドブック 工業火薬協会 共立出版株式会社 
        1987年5月20日出版より)
とあるが、プリンスには化学的なことは分らない。
 戦時中、アルミ粉の使用は海外でも当然行われていた。
 米国で爆弾、魚雷の爆薬として使われた「HBX-1」
 (ヘキソーゲン40%、TNT38%、アルミニウム粉17%、その他5%、水中における爆発圧はTNTの1.5倍といわれている)
 ドイツの魚雷に使われた
 SW18 TNT50%、HND24%、アルミ粉15%
 SW36 TNT67%、HND8%、アルミ粉25%
 SW39 TNT45%、HND5%、硝酸アンモニウム30%、アルミ粉20%
 SW39a TNT50%、HND10%、硝酸アンモニウム5%、アルミ粉35%
 ソ連ではアンモナル(アルミ粉末と硝酸アンモニアの爆薬)を1941年6月頃、レニングラード爆薬製造トラストで月産205トン生産していたという記述を見たことがある。
 今回、日本で戦時中に爆薬用のアルミ粉を製造していた会社の社史を見つけたので紹介していきたいと思う。
 株式会社福田重商店は戦前、京都で錫箔、銅粉などを主に生産していた。昭和5、6年頃アルミ粉の下請け生産(大阪府河内工場)と販売を始めた。その時分から満州の撫順炭鉱で爆薬用のアルミ粉の需要が急に増加したのである。このアルミ粉はステアリン酸を含んだ鱗片状粉であるが、これとは別に粒状で油脂分なしのアルミ粉の研究をしたのが矢張りこの時期である。その用途は爆薬用であるが大阪陸軍造兵廠からの依頼であった。いろいろ苦心して粒状油ナシアルミ粉の試作に努力し、試作品も何度か提出したが生産能率が非常に低く、いかにもソロバンに乗る見込みがないので、遂にあきらめた。これが後の海軍の火薬用アルミ粉の前身とでもいえるべきものであるが粒状油ナシアルミ粉の失敗第1回目で昭和9年の事である。
 昭和14年、社員が台湾へ出張した時、搗砕アルミ粉でなしに蒸留アルミ粉が爆竹用にアメリカから輸入されている事がわかった。その時から懸案になっていた「蒸留法」によるアルミ粉の製造を翌年から研究しはじめた。陸軍の依頼でもなければ、満鉄へ売るつもりでもなく、金属粉の製法として機械粉砕と電解とは一応やっているのだから、第3番目に検討すべき製法としてとりあげた研究であった。1年足らずかかってようやく目鼻がついたのが昭和16年7月の終わりであったが、丁度、その頃海軍からドイツの「油ナシ粒状極微アルミ粉」の見本(小さな瓶にほんの少量)を持って、技師が来訪、その研究を依頼された。研究、試験を重ねた結果、実験的には一応の成功を見た。海軍(平塚第二火薬廠)も期待してくれたが、しかし、残念ながら、その方法は工業化について致命的な難点があり、遂に断念せざるを得ぬ事になった。
 昭和16年、油ナシ粒状アルミ粉を搗砕機を用いて作る方法も平行して研究が行われ、試作に成功し、工業化も一応の見当が立てられる所まで行ったが。肝心のアルミ粉の細かさが、ドイツの見本には到底及ばず、これまた苦心惨憺した。
 昭和16年末、12月30日に海軍艦政本部からアルミ粉製造について内命があったが、昭和17年1月7日、正式に「アルミ粉年産200屯の生産設備を建設せよ」との「示達」をうけたので直ちに計画に着手した。はじめ、山科の真鍮粉の工場を転用しアルミ粉の製造をはじめたが、6月13日火災で失われた。建設途上であった新工場は建設を急ぎ7月30日上棟した。しかし、またもや9月24日河内アルミ粉工場(塗料用)を火災で失った。爆薬用のアルミ粉は海軍の用語をそのまま使用し、「10号戊剤」と呼ばれた。
 アルミ粉の製造はその後、原料のアルミ地金の入手難になやまされながらも、追々と軌道に乗って来た。はじめ海軍では爆雷等の特殊な用途に限って使用されたらしいが、この頃には応用範囲がひろがってその他の火薬にも使用されるようになった。昭和19年10月はじめに陸軍からも「アルミ粉年産300屯生産の可能なる設備をせよ」との命令を受けた。この頃には山科工場は海軍省だけの管理工場ではなく、軍需省も一緒のいわゆる共管工場となった。
 アルミ粉ははじめ舞鶴の海軍第三火薬廠に主として納入した。そして陸軍は東京志村の第二造器廠と大阪の香里の火薬廠が主な納入先であった。昭和20年のはじめから宮城県船岡の海軍第一火薬廠にも納入するようになった。
 昭和20年4月、船岡の海軍第一火薬廠の付近へアルミ粉製造設備の疎開建設命令を受け、アルミ粉メーカー4社(大和商会、日本金属粉、大阪金属粉、福田重商店)がそれぞれ割り当てられた製造設備、機械を海軍の工作隊員の手によって運搬疎開した。この工場建設予定地は仙台、山形間の文字通りの山間僻地であった。その工場用地の調査その他いろいろ苦心したが結局、建設に至らずして終戦になった。
 「日本陸軍火薬史」を見てもアルミ粉の使用や研究の話は無い。また、第一海軍火薬廠の終戦時における在庫品に「アルミニウム 四〇瓲」の記載があるが、これがアルミ粉にあたるのかプリンスにはわからないし、アルミ粉の使用やアルミ粉工場の疎開の話も見当たらない。

参考・引用文献
「福田金属の歩み」 福田金属箔粉工業株式会社
 昭和39年8月1日発行
「機密兵器の全貌」 原書房
「工業火薬事典 限定版」木村 真
 昭和53年3月20日 白亜書房
「火薬」 千藤 三千造 昭和44年5月1日発行 共立出版株式会社
「日本陸軍火薬史」桜火会 昭和44年11月1日発行 非売品
「第一海軍火薬廠 追想録 ふなおか」ふなおか刊行会
 昭和62年9月20日発行 非売品
「日本産業火薬史」日本産業火薬会
 昭和42年5月9日発行 非売品
「攻防900日〔上〕」〈包囲されたレニングラード〉早川書房
 H・ソールズベリー 訳大沢正 昭和47年3月31日発行 
と人に貸した本

北海道立図書館

「自由」とはなんと美しい言葉だろう。明日、妻は家に帰り、私はまた暗黒の闇の中に閉ざされる。航空燃料の質問にもはや答えている場合ではない。そこで、今日も午前中に時間を作り、プリンスのホームグラウンド「北海道立図書館」に出かけた。ここは札幌の郊外、江別市にある。隣には酪農学園大学があり、のどかに牛が草を食んでいるような場所である。公文書、専門書、一般書を収蔵した道内最大の図書館であり、プリンス好みの戦前、戦時中の専門書も、今のところ読み切れないほどある。
 さて今日は幸運なことに、いままでの疑問を解くカギを2つほど見つけた上、図書館から会社に向かう途中、赤信号をアイスバーンのため止まれず、突っ切ることができた。
 今日見つけた面白い本は2冊
「独逸人造石油に関する調査」 昭和16年8月9日発行
 帝国燃料興業株式会社技術部調査課編纂 非売品
「パレンバンの石油部隊 後編」 昭和57年9月吉日発行
 パレンバンの石油部隊刊行会 非売品
である。
 前者には次のような興味有る(プリンスにとって)記述があった。
① 1936年、ドイツのガソリン消費量は200万トンを超える。その原料の割合は
原油よりの生産         6%
褐炭タールよりの生産      2%
水添及合成による生産     39%
ベンゾール          36%
アルコール          17%
だった。
② 1938年、ドイツのベンゾール生産量は52万5千トン、内モーター用消費量は44万トン。ベンゾール生産の87%がコークス製造所の生産、残りがガス事業及びタール乾溜事業からである。
③ 1937年、ドイツの燃料用アルコール(ガソリンに混合)の消費量は18万4千トン、これは専売局の総販売高の45.3%を占める。ドイツのアルコールはじゃがいもから作られるが、食糧政策上、生産は制限されている。
④ 占領した白、蘭、仏で年13万トンのベンゾール生産がある。
⑤ エストニアでは頁岩油(シェール油)の生産があり、ドイツは1939年に9万トン、1940年第一・四半期に約20万トンのシェール油を購入した。
この数字の真偽のほどはプリンスにはわからない。

「パレンバンの石油部隊 後編」は名著「パレンバンの石油部隊」の続編である。うかつなことに、今日現物を見るまでその存在を知らなかった。内容はこれからじっくりと精査するつもりだ。それにしても、戦時中、日本で最大最良そして最高の生産量をあげた石油精製所達のことがなぜこうもわからないのだろう。戦後、誰も気にかけなかったのはなぜなんだろう。

北海道立文書館

 逃げた女房にゃ未練はないが、もうすぐ大阪の実家から帰ってくる。この自由を有効に生かすべく、今日、午前中に半休を取り、数年ぶりに北海道立文書館に行って来た。ここは札幌市内のど真ん中、重要文化財「北海道庁旧本庁舎」通称赤れんが庁舎の中にある。北海道の地方史、郷土史の殿堂であり、私のような不純な動機で一般刊行物(とも言えないか)を閲覧する人間が立ち入ってはいけないところである。普通、地方史、郷土史研究家の皆さんは人殺しの道具である「兵器」を愛でたり、調べる人間を鬼畜と思っていらっしゃるようである。プリンスも実は居心地が悪い。しかし、人間辛抱である。ここには、おそらく戦時中の公文書類も多量にあると睨んでいるのだが、それに手をつけると大変な事になりそうなので、老後まで封印している。
 今回、ここを訪れたのは、某所で紹介した。
 「日本産業火薬史」 昭和42年5月9日発行 
   日本産業火薬会 非売品
を、今一度熟読するためである。(SUDO様この本は絶対お薦めです。手元においても絶対損はありません。)そして、前にさらっと眺めた
 「日本無機薬品工業史」 昭和37年12月10日発行
   日本無機薬品工業史編集委員長 大塚 寛治 非売品
を読み直す為であった。特に後者は、今年一年書き続ける上での指針となったような気がする。
 この中で面白い話をひとつ、戦時中、ドイツのMe163(あれ、すすむちゃんワルタータービンはどうだっけ?まあ、いいか)に使われた過酸化水素、ドイツでは建設された設備は純過酸化水素換算年産17,000トン、建設中のもの66,000トンに達した。日本では秋水に使われる予定の過酸化水素、江戸川工業所が80%過酸化水素182トンを海軍に納入した。また、日本染料製造が製造した35%過酸化水素12トンから四日市海軍第二燃料廠で83%過酸化水素4トン製造されたといわれる。この2社以外にも十数社で計画あるいは設備の建設が行われたが、新設工場の一部が終戦間際に完成し生産が緒についたほかは、大部分が未完成もしくは机上の計画に終わった。
 なお、今年一年、社会情勢が許せば「飛燕(地上襲撃型)」のように地を這う様、受けない話を書いていこうと思う。たまには、この日記も覗いていただければ幸いである。

ハズレ

 最近、目録買いの古本の結果が芳しくない。「航空朝日」と「モーターシップ(戦前の船舶技術雑誌)」を入手するがプリンス向きの内容ではなかった。田舎にいると、大都市では直接手にして内容を確かめ買うことができる物が、一か八かの選択になる。本当に貧乏とはスリルに溢れたものだ。ところで、「モーターシップ」の中に船舶のプロマイドの通信販売広告があった。戦前、こんな物がコレクターアイテムとしてあった事を知る。それにしても、当時船舶の主機(エンジン)のプロマイドを買う人間がいたことに・・・・今も変わらないか。
 ところで、すすむちゃん、現用の軍用ジェット機と装輪装甲車両はカッコイイぞ。プリンスと一緒に宗旨替えしないか。

キツネ

 ボーナス大減額のショックも癒えぬうちに、今シーズンがスタートする。欲しい洋書より当然、娘のコンタクトレンズが優先する
 誰も信じてくれないのだが、4年程前のある冬の夜の出来事を話そう。
 その当時、零戦の機体が埋もれているというニセコで働いていた。思いっきりシバレついた夜、ニセコへ向かう途中、札幌のはずれの信号で車を止めた。ふと何気なく信号の下、横断歩道の手前を見るとキツネが一匹座っていた。歩行者用の信号は赤信号だった。青信号に変わるとキツネは立ちあがり、横断歩道を渡った。北海道ではキツネも交通法規を遵守する。

Notting Hill

 はるか大昔、ロンドンに立ち寄った事がある。軽巡洋艦ベルファースト(HMS BELFAST)と大英戦争博物館Inperial War Museumには行った記憶がある。そのころ骨董市が大好きで、当時住んでいた京都の弘法さんや天神さんには欠かさず行っていた。そこでロンドンでもポートベロ・ロードPortbello Roadの骨董市にもいった。当然、〇〇を捜しに行ったが、なにせ言葉が通じないので4インチ迫撃砲の照明弾の打ち殻だけが収穫だった。ロンドンのポートベロ・ロードのある一帯をノッティングヒルNotting Hillという。映画「ノッティングヒルの恋人」はこのあたりを舞台にした物語だ。この映画はジュリア・ロバーツとヒュー・グラントが主演し、しがない旅行専門書店の店主とハリウッドの大女優の純愛を描いた物だ。さほどヒットもしない映画だったが、英国人のウイットとジュリア・ロバーツの可憐さが心地よいプリンスにとっては秀作だ。気分が落ち込んだり、仕事がうまく行かない時にこの映画を見ると、人生まだ捨てたもんではないと思う。プリンス、老後に生活の足しに、ちんけな菓子屋か古本屋を始めた時、店の名は「ノッティングヒル」と名づけようと思っている。
 「ノッティングヒルの恋人」リチャード・カーティス 小島由紀子訳
    竹書房文庫 平成11年8月27日初版発行

縄文式土器

 そろそろ精神的にも肉体的にもお仕事モードに戻し、忌まわしい趣味と決別すべく、北海道埋蔵文化財センターに縄文時代後期の土器を見に行く。プリンス、中学生の頃考古学者になりたかった。学生時代はサークルに一時属し、旧石器から中世寺院まで穴を掘っていたこともある。縄文時代の土器で美しいと思うのは中期の火焔式土器と晩期の亀ケ岡式土器だが、後期の注口土器(やかんみたいなもの)も中々味がある。特に今日見た水銀朱で彩られた八雲町出土の赤彩色注口土器はことのほか美しかった。

ねずみ

 プリンス、自分の着る物も他人の着る物も、女性の下着を除けば何の興味もない。ここ数年、靴下1足自分で買ったことさえない。だから戦時中、将兵何を着ていようと知ったことでは無いのだが、その材料となると俄然興味が湧く。
 戦時中、将兵の防寒着、帽子、手袋、靴の裏地として毛皮が使われていた。毛皮は主にウサギが使われていたのだが、戦争半ばこれだけでは足りなくなり、いろいろな毛皮が使われるようになったようだ。雪印乳業の前身、「北海道興農公社」は戦時中、北海道内で各種農製品の集荷、加工を行ない、毛皮も大々的に扱っていた。昭和16年度―昭和19年度までウサギ皮を平均14万枚生産していたのだが、昭和19年度になると決定的に足りなくなり、いろいろな動物達が登場する。
 犬皮    15,000枚
 猫皮    45,000枚
 ねずみ皮  50,000枚
 きつね皮   4,000枚
 りす皮   23,000枚
 いたち皮  14,000枚
 あざらし皮  3,710枚
また、他の団体が集めた海軍用の銀黒狐、赤狐4,000枚の加工も行なっている。この中のねずみ皮は、昭和18年樺太で野ねずみが大発生し60万匹が捕獲された物を有効利用したものである。ねずみ皮、襟元、頭につけるのはプリンスはチョット抵抗が…・
 犬皮、猫皮の取得に関しては「献犬、献猫運動」というのがあったらしいが、これは印度総督様書いてくださいね。
 おまけとして、北海道の土産物店でトド肉の缶詰を見たり、買ったりした人もいると思う。プリンスこういうのが苦手なので貰っても捨ててしまうのだが、実は戦時中から、北海道興農公社でトド肉の缶詰(ソーセージも)が作られていた。これは貴重な蛋白源として重要産業方面に配給されていた。

  引用・参考文献
 「雪印乳業史 第一巻」
 「PX.NO.1 日本陸軍航空隊パイロットのユニフォーム              黒澤 郁二」
 「PX.NO.2 日本海軍特殊被服① 航空被服の変遷                柳生 悦子」
 「PX.NO.3 陸軍軍用被服の変遷 Part-1 高橋 昇」
 「PX.NO.15 日本海軍特殊被服⑮ 防寒被服の変遷               Part3 柳生 悦子」
 「PX.NO.16 日本海軍特殊被服⑯ 防寒被服の変遷               Part4 柳生 悦子」