戦時中、日本海軍が機雷や爆雷の爆薬カーリットの代りに使用しようとした一式爆薬(ピクリン酸アンモン81%、アルミ粉16%、木粉1%、重油2%)は、アルミ粉の不足で生産はあがらず、ついで魚雷用として研究された九八式爆薬がこの目的に使用された言う。
 また、弾丸の炸薬として二式爆薬(TNA60%、アルミ粉40%)が海軍制式火薬、爆薬一覧表に載っている。
 アルミ粉が爆薬原料として用いられる説明として
 含水爆薬原料として用いられるアルミニウムには、鱗片状のものと粒状のものがある。含水爆薬の鋭感剤としては前者が有効であるが、可燃剤としてならば後者でも十分である。空気との混合系で粉塵爆発を起こすおそれがあるので、静電気対策などの安全措置がひつようである。含水爆薬の鋭感剤、可燃剤の他に、硝安爆薬、コンポジット系推進薬原料あるいは各種火工品として、その高発熱性が利用されている。
   (火薬ハンドブック 工業火薬協会 共立出版株式会社 
        1987年5月20日出版より)
とあるが、プリンスには化学的なことは分らない。
 戦時中、アルミ粉の使用は海外でも当然行われていた。
 米国で爆弾、魚雷の爆薬として使われた「HBX-1」
 (ヘキソーゲン40%、TNT38%、アルミニウム粉17%、その他5%、水中における爆発圧はTNTの1.5倍といわれている)
 ドイツの魚雷に使われた
 SW18 TNT50%、HND24%、アルミ粉15%
 SW36 TNT67%、HND8%、アルミ粉25%
 SW39 TNT45%、HND5%、硝酸アンモニウム30%、アルミ粉20%
 SW39a TNT50%、HND10%、硝酸アンモニウム5%、アルミ粉35%
 ソ連ではアンモナル(アルミ粉末と硝酸アンモニアの爆薬)を1941年6月頃、レニングラード爆薬製造トラストで月産205トン生産していたという記述を見たことがある。
 今回、日本で戦時中に爆薬用のアルミ粉を製造していた会社の社史を見つけたので紹介していきたいと思う。
 株式会社福田重商店は戦前、京都で錫箔、銅粉などを主に生産していた。昭和5、6年頃アルミ粉の下請け生産(大阪府河内工場)と販売を始めた。その時分から満州の撫順炭鉱で爆薬用のアルミ粉の需要が急に増加したのである。このアルミ粉はステアリン酸を含んだ鱗片状粉であるが、これとは別に粒状で油脂分なしのアルミ粉の研究をしたのが矢張りこの時期である。その用途は爆薬用であるが大阪陸軍造兵廠からの依頼であった。いろいろ苦心して粒状油ナシアルミ粉の試作に努力し、試作品も何度か提出したが生産能率が非常に低く、いかにもソロバンに乗る見込みがないので、遂にあきらめた。これが後の海軍の火薬用アルミ粉の前身とでもいえるべきものであるが粒状油ナシアルミ粉の失敗第1回目で昭和9年の事である。
 昭和14年、社員が台湾へ出張した時、搗砕アルミ粉でなしに蒸留アルミ粉が爆竹用にアメリカから輸入されている事がわかった。その時から懸案になっていた「蒸留法」によるアルミ粉の製造を翌年から研究しはじめた。陸軍の依頼でもなければ、満鉄へ売るつもりでもなく、金属粉の製法として機械粉砕と電解とは一応やっているのだから、第3番目に検討すべき製法としてとりあげた研究であった。1年足らずかかってようやく目鼻がついたのが昭和16年7月の終わりであったが、丁度、その頃海軍からドイツの「油ナシ粒状極微アルミ粉」の見本(小さな瓶にほんの少量)を持って、技師が来訪、その研究を依頼された。研究、試験を重ねた結果、実験的には一応の成功を見た。海軍(平塚第二火薬廠)も期待してくれたが、しかし、残念ながら、その方法は工業化について致命的な難点があり、遂に断念せざるを得ぬ事になった。
 昭和16年、油ナシ粒状アルミ粉を搗砕機を用いて作る方法も平行して研究が行われ、試作に成功し、工業化も一応の見当が立てられる所まで行ったが。肝心のアルミ粉の細かさが、ドイツの見本には到底及ばず、これまた苦心惨憺した。
 昭和16年末、12月30日に海軍艦政本部からアルミ粉製造について内命があったが、昭和17年1月7日、正式に「アルミ粉年産200屯の生産設備を建設せよ」との「示達」をうけたので直ちに計画に着手した。はじめ、山科の真鍮粉の工場を転用しアルミ粉の製造をはじめたが、6月13日火災で失われた。建設途上であった新工場は建設を急ぎ7月30日上棟した。しかし、またもや9月24日河内アルミ粉工場(塗料用)を火災で失った。爆薬用のアルミ粉は海軍の用語をそのまま使用し、「10号戊剤」と呼ばれた。
 アルミ粉の製造はその後、原料のアルミ地金の入手難になやまされながらも、追々と軌道に乗って来た。はじめ海軍では爆雷等の特殊な用途に限って使用されたらしいが、この頃には応用範囲がひろがってその他の火薬にも使用されるようになった。昭和19年10月はじめに陸軍からも「アルミ粉年産300屯生産の可能なる設備をせよ」との命令を受けた。この頃には山科工場は海軍省だけの管理工場ではなく、軍需省も一緒のいわゆる共管工場となった。
 アルミ粉ははじめ舞鶴の海軍第三火薬廠に主として納入した。そして陸軍は東京志村の第二造器廠と大阪の香里の火薬廠が主な納入先であった。昭和20年のはじめから宮城県船岡の海軍第一火薬廠にも納入するようになった。
 昭和20年4月、船岡の海軍第一火薬廠の付近へアルミ粉製造設備の疎開建設命令を受け、アルミ粉メーカー4社(大和商会、日本金属粉、大阪金属粉、福田重商店)がそれぞれ割り当てられた製造設備、機械を海軍の工作隊員の手によって運搬疎開した。この工場建設予定地は仙台、山形間の文字通りの山間僻地であった。その工場用地の調査その他いろいろ苦心したが結局、建設に至らずして終戦になった。
 「日本陸軍火薬史」を見てもアルミ粉の使用や研究の話は無い。また、第一海軍火薬廠の終戦時における在庫品に「アルミニウム 四〇瓲」の記載があるが、これがアルミ粉にあたるのかプリンスにはわからないし、アルミ粉の使用やアルミ粉工場の疎開の話も見当たらない。

参考・引用文献
「福田金属の歩み」 福田金属箔粉工業株式会社
 昭和39年8月1日発行
「機密兵器の全貌」 原書房
「工業火薬事典 限定版」木村 真
 昭和53年3月20日 白亜書房
「火薬」 千藤 三千造 昭和44年5月1日発行 共立出版株式会社
「日本陸軍火薬史」桜火会 昭和44年11月1日発行 非売品
「第一海軍火薬廠 追想録 ふなおか」ふなおか刊行会
 昭和62年9月20日発行 非売品
「日本産業火薬史」日本産業火薬会
 昭和42年5月9日発行 非売品
「攻防900日〔上〕」〈包囲されたレニングラード〉早川書房
 H・ソールズベリー 訳大沢正 昭和47年3月31日発行 
と人に貸した本