Archive for category 日記

寄せ集めの第七師団

昨年発売された
「昭和史の大河を往く 第五集 最強師団の宿命」保坂正康
 二〇〇八年七月二五日発行 毎日新聞社
我が郷土、北海道を愛する者には読後は心地よい調べで終わるはずであった。ところがどうも読み終わってもしっくりこないものが残るのである。軽井沢で読んだ下記の「日露戦争と群馬県民」を読んでやっと胸のつかえが取れた。
 日露戦争前、なんとか編成された第七師団、その当時こそ誰かさんが言うように「人の住むところではない土地」。兵を召集しようにも人口が余りにも少なすぎた。日露戦争期(その後も)兵は北海道だけではなく第一、第二、第八師団管区からも集められた。第七師団の「師団歴史 第壱号」によれば
明治34年12月1日の新兵入営状況を見れば
新兵2437名
 内第一師管より1200名
  第二師管より449名
第七師管より876名 
第八師管より180名(合計数計算合いません?)
明治35年12月1日、12月3日の新兵入営状況を見れば
新兵2170名  +  新兵1497名
 内第一師管より2201名
  第二師管より750名
第七師管より909名 
第八師管より184名(合計数計算合いません?)
となる。
明治三十九年に発行された「第七師団日露戦役紀念史」によれば「東北男児を以て組織せる我第七師団」とあるが実は各地から集めた言葉も通じないような寄せ集めの師団だったのである。
さて下記で取り上げた「忠魂録」より第七師団第二五連隊の日露戦役の曹長以下の死者数を都道府県別で調べてみたのでここに書いておく。なお「忠魂録」によれば第七師団の日露戦役による死者は将校同相当官147名下士官兵以下4191名合計4338名である。

北海道 303
長野  203
新潟  121
東京   67
埼玉   61
栃木   46
群馬   36
岩手   28
神奈川  22
宮城   18
茨城   16
福島   10
千葉    3
青森    2
石川    2
島根    1
富山    1
岐阜    1
広島    1
宮崎    1
鹿児島   1
合計  945名
将校   32名
特務曹長  6名
総合計 983名

戦死者数    764名
戦傷死者数   167名
戦病死者数    49名
事故・変死者数   3名
合計      983名

日本占領支配下の独逸船

 これは昔、敬愛する艦船研究家hush様に差し上げた物である。hush様の許可は頂いていないが、ここに移すと共に手直ししていきたいと思う。
 ドイツから日本に譲渡されたもので「帝国船舶株式会社(昭和15年7月25日、外国船の傭船、輸入の業務を行う国策会社として設立)」がまず、大連で停泊中だった4隻のドイツ船を購入した。売却の対象となった船は、船齢が古く、航続力が短い石炭焚きのレシプロ船などで、柳船には使えないようなものだった。

「Fulda」所有者N.D.L 7,744総トン 1924年建造
  日本名「帝海丸」1940年8月6日受渡 購入価格46万5千弗
  1944年12月30日、フィリピンにて米軍機により撃沈
  「商船が語る太平洋戦争=商船三苣寬梠D史=」
   P467参照
「Bremerhaven」所有者N.D.L 1,614総トン 1920年建造
  日本名「帝雲丸」1940年8月6日受渡 購入価格15万5千弗
  1942年1月1日、リンガエン沖にて触雷沈没
「Saarland」所有者H.A.L  6,725総トン 1924年建造
  日本名「帝洋丸」1940年9月30日受渡 購入価格55万弗
  1943年3月2日、ダンピール海峡にて米軍機により撃沈
「Augsburg」所有者N.D.L 6,512総トン 1915年建造
  日本名「帝龍丸」1940年12月5日受渡 購入価格37万弗
  1944年7月19日、フィリピン沖にて米潜水艦Guardfish
(SS-217)により撃沈

 帝国船舶により傭船されたのは

「Ursula Rickmers」所有者Rickmers Line 5,050総トン 1917年建造
  日本名「帝仙丸」1941年5月28日傭船契約
  1944年5月3日、仏印沖にて米潜水艦Flasher(SS-249)
により撃沈
  「日本郵船戦時船史」P653参照

 ドイツの補給艦(タンカー)として日本にやってきたもの。途中大西洋、インド洋で仮装巡洋艦、Uボートに補給。日本寄港時には南方から石油還送を求められた。日本で艦体整備の後、補給物資を積載さらに南方で補給用燃料を積み、インド洋でUボートへの補給活動を行った。ドイツ支配下のフランスに帰る具体的な計画はなかったが、帰る場合には植物性油脂(大豆油、ヤシ油、パーム油)を積載するようになっていた。

「Charlotte Schliemann」    7,747総トン 1928年建造
  1942年2月23日、アゾレス諸島Las Palms発 1942年10月20日横浜着
  (途中、南方で石油を積み日本に還送)
  1944年2月11日、インド洋にて英駆逐艦Relentless(H-85)
  により撃沈
  「Uボート総覧」大日本絵画 P150参照

「Ukermark」         10,698総トン
  旧名「Altmark」
  1942年9月9日ボルドー発 1942年11月24日横浜着
  (途中、バリックパパンで揮発油6,000トンを積み、川崎で陸揚げ)
  1942年11月30日、横浜港にて爆発事故で全損

「Brake」           9,925総トン
  1942年9月27日ボルドー発 1942年12月23日横浜着
  1944年2月26日シンガポール発 1944年3月12日、インド洋にて
  英駆逐艦により撃沈
  「Uボート総覧」大日本絵画 P150参照
 
 仮装巡洋艦としてやってきたもの

「Thor」        3,862総トン 1938年建造
  1942年1月10日ジロンド発 1942年10月9日横浜着      
  1942年10月30日横浜港にて「Ukermark」「ロイテン」と共に沈没

「Michl」          4,740総トン
                1943年3月2日神戸着
  1943年5月21日神戸発 インド洋、中部太平洋で行動
  1943年10月17日、八丈島沖にて米潜水艦Tarpon(SS-175)
  により撃沈

 日本海軍に譲渡されたもの

「Scharnhorst」所有者N.D.L 18,184総トン 1935年建造   
  1942年6月30日、日本海軍航空母艦に改造決定
  1942年9月21日、呉工廠で改造に着手
  1943年12月15日、航空母艦「神鷹」として完成
  1944年11月17日、米潜水艦Spadefish(SS-411)により撃沈

 当時存在していたが、今ひとつ分からないもの

「R.C.Rickmers」所有者Ricmers Line 5,198総トン 1921年建造
  開戦前より日本支配下地域に存在
 日本名「帝福丸」
  1942年12月22(29日?)日
  犬吠埼沖にて米潜水艦Trigger(SS-237)により撃沈 

「Ermland」所有者H.A.L 6528総トン 1922年建造
  開戦前より日本支配下地域に存在

「Havenstein」所有者H.A.L  7,974総トン 1915年建造
  開戦前より日本支配下地域に存在
  日本名「帝祥丸」
  1944年10月12日、高雄沖にて米空母機により撃沈
  
「Winnetou」       5,113総トン 1913年建造
  開戦前より日本支配下地域に存在。唯一のタンカー
 日本名「帝坤丸」
  1944年2月23日、米潜水艦Pogy(SS-266)により撃沈
  「太平洋戦争沈没艦船遺体調査大鑑」の記載とは違う

「Havelland(Haferland?)」所有者H.A.L  6,334総トン 1921年建造
  「Munsterland」姉妹船
  1943年12月22日、和歌山県沖にて米潜水艦Gurnard(SS-254)
  の雷撃を受け損傷、以後神戸にてドイツ海軍の宿泊船として使用
  戦後、台風により座礁、1946年1月解体
  「世界の艦船No,475」P228参照

「モーゼル?」 8,428トン
  日本名「帝瑞丸」
  1941年12月24日~29日、三菱重工横浜ドックで修理
  1942年8月29日~9月4日、三菱重工横浜ドックで修理
  日本側に傭船、台湾九州間で雷撃を受け撃沈
  「Uボート977」「横浜港ドイツ軍艦燃ゆ」参照

  

   

   

 

検証海軍の脚気対策

 日本海軍の脚気対策における最初の試み(実験)である明治十七年、「筑波」での遠洋航海で生徒及び下士官以下が摂った食糧を検証してみよう。
      毎人一日分ノ食量表
米   百八十匁  味噌 十四匁  豆類 十二匁
魚類  四〇匁以上 醤油 十六匁  麦粉 二十匁
肉類  八十匁以上 野菜 百二十匁 茶  二匁
脂油類 四匁    酢  二匁   塩  二匁
砂糖  二十匁   香料 三分   漬物 二十匁  
牛乳  十二匁   酒類 五十匁  菓物 適宜
                  匁=3.75g
 巷間伝えられる話では米食を排し、パン食にしたとあるがどうも話が違うらしい。小麦粉75gでは最大限に見積もっても一食分のパンにしかならない。ということは主食と呼べる物は実は白米だったことが分かる。この表で特筆すべき事は肉類・魚類合わせて450g以上摂っていたことだ。実際、今日自分が摂った肉類・魚類の量を考えてみよう。450g以上食べた人間はそうはいないはずだ。カロリー量からいえば確かに米(炭水化物)摂取の方が有利なのだが、肉類、魚類に含まれる、必須アミノ酸、必須脂肪酸、ビタミン、無機塩類を忘れてはいけない。(当時は知らなかったが)さらに、カロリー量では劣るが、蛋白質や脂肪の消化では炭水化物(グルコース代謝があるため)の消化よりビタミンB1の所要量が少なくてよい。(これも当時知らなかった)また、パンのビタミンB1含有量がご飯(白米)のビタミンB1含有量に対して多いと思われているようだが、実際のところそう大きな差があるわけではない。それは現在の学校給食でパンにビタミンB1を添加していることからもわかる。

続きNo.1

 明治34年8月31日『公衆医事』に掲載された森林太郎の麦飯の脚気予防効果を否定する「脚気減少は果たして麦を以て米に代えたるに因する乎」、下記本の著者が「支離滅裂な文、全然医学問題を論ずる文になっていない。」と評する論文なのだが、著者は日露戦争前夜といえるこの時期に書かれたのは、第十二師団軍医長として、日清戦争時の台湾での脚気惨害の責任を取り左遷されたので「抑圧し鬱積している無念の思いがにわかに沸騰して制御できなくなったにのにちがいない。」と簡単に流している。
 日露戦争時、明治37年4月8日、第二軍がまだ広島に滞在していた時、第二軍軍医部長の森林太郎に、第一師団の軍医部長・鶴田禎次郎は第三師団軍医部長・横井俊蔵といっしょに麦飯の給与を森に進言したという。すなわち、「横井第三師団軍医部長と共に麦飯給与の件を森軍軍医部長に勧めたるも返事なし」(『日露戦役従軍日誌』)である。
 アジア歴史資料センターでも、簡単に見られるのだが(この本で特徴的なのは日露戦争の記述に関してもアジア歴史資料センターの一次資料の引用がまったく無いことだ。)統計的にも麦飯の脚気予防効果が陸軍の資料では実際証明されているにも関わらず、イエスと答えなかった森林太郎に対し、著者は「麦飯をやりたければ、自分の師団で好きなようにやったらいいだろう。という暗黙の容認の含みもあったと思われる。」と実に好意的な書き方をしている。内地では師団の軍医部長の裁量のもと、麦飯を兵食として供していたが、そもそも兵食として正式には認められていなかった麦飯を戦地で供給することは、緒戦期には不可能であったろう。脚気の発生を見て泥縄式に麦飯の供給を始めたが、当然、供給は遅れ、麦飯が絶対的な脚気の予防効果を持たない点を合わせて、膨大な脚気による患者数と戦病死者を出した。
 日清戦争前の麦飯供給による脚気の発生の激減、日清戦争台湾における脚気大発生と麦飯導入による脚気の事実上の撲滅、日露戦争前の内地師団の麦飯導入による脚気発生の抑制と麦飯の脚気予防効果は理由は分からずとも認知されていたのである。
日露戦争前夜ともいうべき時期に「脚気減少は果たして麦を以て米を代えたるに因する乎」という論文を書いた以上、森林太郎は無策の上、脚気で死んだ兵士達に対する責任の一端を持つことを決定づけたのである。

馬糧

 とある東北の営業所長に昔書いた「脚気と森鷗外」について「もっと書いたらいいんでないかい。」と2月程前に言われていたのだが、今日、本屋を覗くとこの本が置いてあったので買い求めた。
「鷗外森林太郎と脚気紛争」山下政三
 2008年11月11日発行 日本評論社
 この本は「森鷗外は脚気問題で大変誤解されている。正しい事実をぜひ書いてもらいたい」との要請の元書かれたものである。さらには「兵食問題や脚気問題を精密に検討するには、基礎栄養学、ビタミン学、脚気医学の専門医学の専門知識が不可欠である。それらの知識なくしては、問題の内容を正確に把握できるはずはなく、核心を正しく論評できるはずはない。錯誤におちいるのは必然である。」とある。この本の著者は東大医学部卒、脚気の歴史についての第一人者である。
 さて、分厚い本なので今日目を通す事が出来た所は、日露戦争に関する所だけであるが、一地方の職人風情が見つけた、勘違いを指摘する。昔、座敷牢上で日露戦争中の輜重輸卒の日記について書いたことがあるのだが、この本でも引用されている。「大量に輸送された麦(大麦)が実は第一軍で麦飯として食べられていたのではないか?」と書かれているが、座敷牢上の日記でも書いた通り、これらは全て馬糧であり、おそらく兵は一粒も食べてはいない。よって密かに陸軍のある種の組織が開戦より麦飯を提供する用意をし、脚気対策を図っていた事実は一切ない。今回の信州遠征において、かなり多くの市町村史の日露戦争に関する記述を読んだのだが、基本的には大麦は馬糧として陸軍に買われているところからもそれはうかがえる。
 また、輜重輸卒の脚気に対する被患率が異常に多いのが「待遇(食餌・給養)」の苛酷だった表れである。と書いてあるが、体力、年齢という要素を忘れている。これなども輜重輸卒の制度、当時の徴兵制度に対する理解が充分でないためかと思われる。
 取りあえず今日はパラパラとめくっただけだが、著者の日露戦争に対する知識が今ひとつであり、森鷗外を擁護するには詰めが甘いと感じた次第である。ぜひともwar birdでも覗いてみればいいんでないかい。

ニッケルを運ぶ

 はるか昔、「ニッケルと太平洋戦争」なんてとっても恥ずかしい話を書いたことがあるのだが、アジア歴史資料センターを眺めていると「負けました。」という資料が出てくる。
レファレンスコードB05013023900
『セレベス島「ポマラ」ニッケル内地還送量』
このまま書くのも情けないので、補足する。
到着年月     船名    屯数(乾量) 品位(%)
昭和17年7月   第五日の丸 1886.981  3.285
昭和17年10月  北昭丸   1989.359  3.347
昭和17年12月  第七東亜丸 3642.611  3.072
昭和17年12月  台東丸   2895.681  3.061
昭和17年計          10414.735

昭和18年2月   神和丸   3095.266  2.924
昭和18年3月   乾隆丸   3691.518  2.989
昭和18年4月   たるしま丸 2583.500  3.149
昭和18年4月   朝風丸   4908.744  3.138
昭和18年5月   長興丸   3374.317  3.098
昭和18年5月   昌平丸   2785.858  3.138
昭和18年6月   辰春丸   4977.227  3.323
昭和18年7月   北陸丸   4902.472  3.310
昭和18年8月   たるしま丸 2802.901  3.296
昭和18年10月   昌平丸    496.019  3.491
昭和18年10月   福山丸   3511.804  3.712
昭和18年11月   北陸丸   5473.065  3.591
昭和18年11月   昭武丸   1269.376  3.622
昭和18年12月   稲荷丸   1375.250  3.628
昭和18年計          45048.435

昭和19年1月   松栄丸   1414.342  3.346
昭和19年2月   国島丸   3227.632  3.477(戦時輸送船団史P120参照)
昭和19年2月   洛東丸    283.317  3.358
昭和19年3月   千代丸   3206.267  3.441
昭和19年3月   台東丸   1880.252  3.200
昭和19年4月   讃岐丸   1098.934  3.639
昭和19年4月   泰国丸   1356.092  3.728
昭和19年4月   長田丸   3000
(22日、聖雀にて米軍機の攻撃を受け沈没、「戦時輸送船団史」P162参照)
昭和19年7月   日興丸   4210
(1日、被雷?触雷?により沈没、「戦時輸送船団史」P201参照)
昭和19年12月   壽山丸   2719.136  3.433
昭和19年計          15184.972

昭和20年3月   辰泰丸   2326.787  3.520

合計             72974.926

こんなことを書いても喜ぶのは、宮城のオッサンだけかもしれないが、自分自身も忘れそうなので書き写す。

厚岸町太田屯田開拓記念館

引越しの準備もろくに済んでいなかったのに、スターリングラード転進の前日にここを訪れる。(近くには「太田屯田兵屋」がある。)入館帳を見ると2日間程来訪者がいなかったようだが、入館料¥100を収め「後、閉館まで15分です。」の声をききながら、館内を見る。屯田兵の事はほとんど知らないのだが、最近「日露戦争と屯田兵(第七師団)」に興味を持ち、チョット調べてみようかな~と思っていたところである。さて、この部落の戸主(屯田兵)、日露戦争で驚くべき戦死率を出している。今日は誕生日である。

軍犬

「ノモンハン美談録」関東軍司令部内財団法人忠霊顯彰會内 梨岡 壽男
   昭和十六年十月十八日発行
 今年の正月に大好きな黒豆と一緒に買ったと思う。軍用犬と言えば「渥美清とシェパード」かソ連の「地雷犬」、後は地下壕を捜す米軍のワンちゃんぐらいしか知らないミリタリーマニアなのだが、生まれて始めて目にする日本の軍用犬の話である。

      陸軍軍曹  山崎友吉
    昏倒するも任務を忘れぬ軍犬班長
 八月二十四日八時…攻撃前進を開始した。
 この時有線の通信網が出来るまで、部隊本部と隊の連絡は軍犬班が当ることになり…
 第一信、第二信と、銃砲弾、飛び交ふ中を、山崎軍曹は軍犬を使って確実に連絡した。

 鳩通信の話は出てこない。
 ところでノモンハン事件の主役といえば当然、第七師団なのだが、何かよく分からないのが第八国境守備隊の存在である。戦史叢書によれば歩兵20中隊、砲兵3隊(1隊1.5中隊換算)と6中隊、工兵4隊、野(山)砲24、十榴8、中迫28、十加8、十五加8、高射32とあり、九四式軽迫のソ連側の捕獲写真があるのに日本軍の迫撃砲の使用状況を書いた話を見た事が無いのである。
 引用・参考文献
「戦史叢書 関東軍〈1〉対ソ戦備ノモンハン事件」防衛庁防衛研修所戦史室
 昭和四十四年七月七日発行 朝雲新聞社

九八式臼砲と刺突爆雷

 「続鳴呼中千島」 中千島戦友会
    平成三年一二月二五日発行
 終戦時、北海道は稚内に主に駐屯していた第四十二師団の千島での状況を将兵達が書いた本である。日露戦争当時、旅順攻囲戦で活躍した「九糎臼砲」「十五糎臼砲」いつまで使われていたのかずっと疑問に思っている。

 独立臼砲第十五大隊は東部第七十五部隊(旧横須賀重砲兵連隊)にて昭和十九年自三月十二日至五月十二日に、其の編成を完成した。
 大隊本部-将校、下士官、兵   四一名
 第一中隊-将校、下士官、兵  二八〇名
 第二中隊-将校、下士官、兵  二八〇名
  大隊長 陸軍大尉 島森 晃以下将兵合計数六百一名
 昭和十九年五月二十九日小樽港で輸送船「日振丸」に乗船し、六月一日千島列島の松輪島に上陸を始めたのだが、米潜の魚雷攻撃を受け轟沈した。戦死、行方不明将校下士官兵二百六十一名に及んだ。(其の時の水温は-八℃?)臼砲二十四門、兵器、弾薬、被服、糧秣、需品、医薬品、野戦炊具、(最新式歯科医器具一式、最新調理器具一式)等々、戦斗、警備、駐留に必要なる一切の器具、材料を海没してしまった。その後特別調達品(海没兵器、その他の必要品の補充)は次々急送により到着し、補充将兵の到着は昭和十九年九月末であった。
「独立臼砲第十五大隊(島森部隊)始末記」独立臼砲第十五大隊本部 釼持 善夫氏著

これらの臼砲はてっきり九糎か十五糎と思っていたら、なんと、日本の秘密兵器「九八式臼砲」だった。シンガポール、インパール、硫黄島?、沖縄で使われていた貴重品が北の果てにも送られていたのであった。

刺突爆弾(ドイツ、タ弾式)
当時盟友国、ドイツから伝授されたという我隊の鍛造兵が製作した
爆装部は丸型でジョウゴ形、大きいところの外径は二十糎位のもの
木棒長さ二米
ブリキ(乾燥野菜入の缶など利用)
火薬(最も強烈である灰色薬を使用)
良洋丸(座礁船)鉄板(厚さ七~八ミリ)
正面は鉄片か?ブリキ?か忘れました
砲弾起爆用の信管(瞬発信管で激突すれば即炸裂)
実験は二十年六、七月頃、松輪島旭台下の陸揚場近くで行なわれた。そこには難破船の海軍船がありこの分厚い鉄片部を目標に行なわれた。
成功、見事五、六センチのやや丸い穴で二十糎位の鉄肉部を貫通している。
これが製造は三十個位作ったが終戦時海中に全部投棄した。
この新兵器は日本軍の各戦線に通報されたが作製まではいかなかった処が多いらしい。
「松輪島の思い出」第四十二師団兵器勤務隊 牧 良助氏著

刺突爆雷、フィリピンで実演中に死傷者を出した事を聞いたことがある。北の果て、寒いのによく自分達で作った。ところで、満州では使われたのだろうか?

「日振丸」山下汽船4367総トン大正8.4大阪鉄工・桜島で建造
「良洋丸」東洋汽船5974総トン昭和6.1.15神戸・川崎造船で建造

引用・参考文献
「嗚呼中千島」中千島方面戦没者慰霊碑顕彰会
 昭和五十四年八月一日発行
「日本の大砲」竹内昭/佐山二郎
 昭和61年4月25日発行 出版協同社
「日本商船・船名考」松井邦夫
 2006年8月1日発行 海文堂
部屋には船と大砲の本はこれくらいしかないのです。

歯科医将校

 ここ霧の町にも少しは骨のある古本屋は存在する。

「元陸軍歯科医将校の記録
   太平洋戦争と歯科医師」
 昭和59年6月20日発行 歯科ペンクラブ

 昔、社史を調べていたら歯科医療材料の製造会社の物を見つけ、いづれこの方面も勉強しなければ、と思いつつ、適当な資料がまったくなかったところを、北のはてで入手することが出来た。追々、ストーブにあたりながら(3時ごろ気温を見たら摂氏6℃だった。)読もうと思う。
 最近、霧の町に来てから読んだ本

「笠戸丸から見た日本」宇佐美昇三
 2007年2月15日発行 海文堂出版株式会社

「写真で似る海軍糧食史」藤田昌雄
 2007年3月12日発行 光人社