Archive for category 日記

命懸け

  最近、印度総督様が本の収納について書かれているので、私も負けていられないと思い書いてみた。
 今から八年ほど前、借家に住んでいたのだが、「天井が抜ける」との悲痛な妻の声を聞き、しょうがなく4LDK、89㎡のマンションを買った。引越しの時、運送屋さんの恨めしそうな顔が見たくなかったので、友人であるキツイとその後輩とプリンスの三人で、キツイの1.5トントラックを使い、前もって「本の引越し」をした。途中「坂を登れない」なんぞとキツイが喚いていたが、当然アクセル全開で乗り切った。さて、本の収納だが6畳間一室を妻に与えられ、窓以外の三面は天井までの本棚を入れ、仕事の本と値の張る本(あくまでも私にとって)はリビングに納めた。本を片付け初めてすぐに本が納まりきらない事に気がついた。話はよく出来てる物で、本番の引越しをやってくれる会社がなんと貸倉庫までやっているとパンフレットを渡してくれた。そこで、一般書や優先度の低い「丸エキストラ版」「兵器と技術」「軍事研究」その他おおぜい、そして第2次世界大戦以後の兵器本、戦史などはすべて深い眠りについていただいた。当然、目録を作るなど、そんな知恵もないし、請出す自信もまったくなかったので、全ては混沌とした闇の中にある。その後、本は増殖を続け、寝室、子供部屋に進出し、預けるダンボールの数は増えるばかりである。最近は、図書館でのコピーもかなりの量になり(百円ショップで売っているファイルケースに収納)書庫の床を侵食している。
 こんな事ではいけない!
 と考え、家から車で30分程離れた、山奥のキツイの家の向かいに100坪の土地を買った。しかし、冷静に考えれば、建物(トレーラーハウスでもいい)を建てる甲斐性もなく、何より先月の9日から毎日元気に働き続けるプリンスさんがここに居た。なお、書庫では一時間以上はいたくない。地震が起きたら圧死する事間違い無いから。この趣味も命懸けである。
 ちょっとここに通りすがりの皆さん、本にまつわる悲惨な話を聞かせてください。お待ちしております。

椰子油とパーム油

 「アジア歴史資料センター」田舎者にとっては楽しくて、珍しくて堪らなく、旧式な接続方法に頼るプリンスは、市内通話6000円の請求を妻に詰め寄られるのであった。
 ここはプリンス好みのキーワードで検索すると、見たことも聞いたこともない話がゾロゾロ出てくるのである。プリンスの興味ある「逆柳船」に関する資料もたくさんあり、当然、積みこんだ物資も少しはわかってきた。
 前に書いた「だってよめないんだもん」で南方占領後も、ドイツにタンカーで大豆油が送られていたと知ったかぶりをしたが、実は全然違っていた。本当に送り、送ろうとしていたのは「椰子(やし)油(コプラ油)」「パーム油、パーム核油」であった。

 椰子油はココ椰子(Coconut Palm)の椰子の実の 中にある胚乳を乾燥させたコプラから搾油した物である。ココ椰子とは南の島にあるお馴染みの椰子である。で用途となると当時の本にはこう書かれてある。
「まづこれを精製して、諸種の食料油脂を製出し得べく、高圧還元操作によって各種高級アルコールを得、これより柔軟材、香粧品、洗剤、香料を精製し得べく、また加水分解によって、グリセリン及び脂肪酸を製出し得べく、グリセリンの広範な用途にについては、ここに贅せざることとしても、脂肪酸よりは、石鹸、クリーム原料、洗剤、乳化剤、トリラウリン、蝋燭、防水剤、殺虫剤、香料溶剤等の外、さらに各種潤滑油、ディーゼル油、ガソリン、重油代用燃料等をも製出し得るものとされる。」

 パーム油は油椰子(Oil Palm)の果肉から直接搾油したもので、パーム核油は果核から搾油したものである。油椰子の果実は、ぶどうの房のようにぎっしりと固まって結実する。房の大きさはひと抱えほどになる。
「パーム油は、牛脂に代用し得る固状脂肪であって、まづ食料用として、諸種の食料油脂となるのみならず、工業用としては、石鹸、蝋燭等、広く油脂製品の原料として用いられる外、内燃機関の燃料としても利用し得る。パーム核油はこれを精製して食料油脂を得べる。本来、この油椰子は、アフリカ原産であって、東亜への移植は、今世紀に入ってからのことであるが、最近、蘭印及び英領マレーに亙るその栽培は、急速に発展し、原産地を凌駕するにいたっている。」
 何年か前、インドネシアなどで急激な焼畑が行われ、深刻な大気汚染が発生したが、実は油椰子の栽培の為だったのは、記憶されているだろうか。

 アジア歴史資料センターの資料中(元々は防研にあるものです。)
 「対独コプラ油供給ノ件」
 「南方物資対独供給ニ関スル件」
を開かれて見ると色々おもしろい事が分かる。
 ただ、なぜコプラ油やパーム油がドイツに供給されたかが、はっきりわかりにくいのだが、これは単に日本に輸送する手段、タンカーが決定的に不足していたからだ。日本国内でもこれらの油脂は不足していて、咽喉から手が出るほど必要としていたが、運ぶ方法がなかったのである。そこでドイツに売却された。(初めて知ったのだが、きちんと販売価格も決まっていた。)また、日本側の情けない事に、これらの油脂を受け取りに行く際も、受け取り地まで石油類の輸送をしっかり頼んでいる。

 『ホーヘンフリードベルグ号渡シ「コプラ」油授受関係独逸人ノ件』
を読むと、ドイツタンカー、「ホーヘンフリードベルグ」(Hohenfriedberg)
は昭和17年11月17日頃マニラにコプラ油、12,000トンを積みこみに行っている。そしてインドネシア、バタビアを12月22日出港し、翌18年2月26日、イギリス重巡洋艦サセックス(Sussex)に沈められた。
 日本支配下の港から出港したドイツタンカーは一隻も帰りつけなかった。

 引用・参考文献
 「南方圏の資源 第一巻 マレー編」小林 碧
  日光書院 昭和17年5月25日発行
 
 「週刊朝日百科 世界の食べ物 果物とナッツの文化」
  朝日新聞社 昭和58年6月5日発行

 「世界の艦船 増刊第46集 イギリス巡洋艦史」
  海人社 平成8年11月15日

 そして、解読不能の例の本

 おととしのクリスマスに出会った少女を覚えていてくれたであろうか。去年のクリスマスも会うことが出来た。

 おととしは、ひとりぽつんと座っていた君にも、語り合い、一緒に行動する仲間ができたね。そして何よりも「サンタさん」を真っ先に自分の皿の上に載せていた。君は多くの事を学んだ。

          少女よたくましく生きよ。

焼夷カード

 昔、ビルマ戦線で英軍機から撒かれた紙が、発火しジャングルを焼き
払い、隠れ場所がなくなったという話を本で読んだことがありました。
空中から落ちてきた紙が燃えるといっても、私の頭では想像もつかず、
他にそんな話も見ることがなかったので、いつか記憶の縁に追いやられ
ていました。
 今回、目録でまとめ買いした戦時中の「科学朝日」にその説明が書い
てありましたので紹介します。

イギリスは焼夷カードを用いて、ドイツを空襲している。これは4㎝
4角位のセルロイド板2枚の間に黄燐をつけた綿を挟んで水に浸したも
ので、爆撃機一台で十万枚くらい積んで来て、広告のビラを撒くように
投下する。乾くと発火して、セルロイドに燃え移り、約三十秒間くらい
燃える。これは気のつかぬ間に燃えるので藁屋根や木の庇で発火すると
火事になることがあり、また落ち葉や枯草の上で発火すると山火事にな
る。雨が降って枯草が濡れて燃え難い時には、焼夷カードも濡れていて
発火しない。二、三日晴天が続いて枯草が乾いた頃に焼夷カードも乾い
て発火して山火事になる。黄燐を含んでいるから発見しても直接に素手
で触れてはならない。

 黄燐とは?
 天然産のリン酸カルシウムに計算量のコークスとケイ砂を加え、電気
炉内で1300~1500℃に強熱すると、燐が蒸留され、これを水中に凝縮さ
せると得られる。黄燐は暗所で青白色の燐光を発する。これは固体の燐
の表面で燐の蒸気が酸化されるためである。また、湿った空気中で自然
に酸化され、その反応熱で発火点(約60℃)に達し燃え始め、5酸化燐
を生じる。黄燐は極めて有毒(致死量は0.15g)である。蒸気を少量ずつ
吸入しても骨が冒されるという。指に触れると火傷する。
                     万有百科大事典より
 
 引用文献
 「科学朝日9月号 第2巻第9号」昭和17年9月1日発行

 「科学朝日6月号 第3巻第6号」昭和18年6月1日発行

ペニシリン、2

 久々に日中、時間が取れましたので市立図書館に行ってきました。
目に付く所は攻撃済みなのですが、2、3目新しい本がありました。
 日本の戦時中の碧素(ペニシリン)開発・製造については、過去に二度程触れているのですが、今回、「俺達だって作っていたんだから」と書いてある社史が出ていましたので、不公平にならないように紹介します。

 萬有製薬株式会社は陸軍軍医学校が主宰した「碧素委員会」の主要メンバーであった東京大学伝染病研究所の梅沢浜夫博士の依頼を受け、その指導、協力の元で開発、製造を行ないました。昭和19年末、森永製菓と共に工業化に向けて動き始めました。
 日本でのペニシリンの工場生産は森永が最初だと言われていますが、実は萬有製薬ではないかと述べています。昭和20年2月目黒工場で生産が始められ、4~5月頃には安定した生産をあげるようになりました。4月末岡崎工場でも生産を始めました。目黒工場は5月25、26日の空襲で生産を停止しましたが、岡崎工場は終戦まで安定した生産をあげました。(日産アンプルで100本以上?)また、肺炎に対し内服で使用し治療効果をあげたと自画自賛しておりますが、前にも書いた通り、海外からの情報がヒントになっていたのではと私は想像しています。
 引用文献
 「萬有製薬八十五年史」 萬有製薬株式会社
   2002年7月31日発行

  借りてきて眺めてる本
 「エンジンのロマン」鈴木 孝
  1988年1月29日 増補改訂第1刷発行 プレジデント社

 「軽駆逐戦車」ヴァルター・J・シュピールベルガー
  高橋 慶史訳 大日本絵画

 「重駆逐戦車」ヴァルター・J・シュピールベルガー
  富岡 吉勝監修 木村 義明訳 大日本絵画

 工場で製造中の戦闘車両が、1番美しいと感じる私は、やはり精神を
病んでいるのでしょうか?フェルディナンド1輌を18t牽引車5輌で
牽引ですか。勉強になります。

日本油化工業株式会社空知工場

 札幌から富良野へ向かう道の途中、赤平市の中で「平岸」の地名を書いた看板を見ることができる。ここに戦時中、人造石油の工場「日本油化工業株式会社空知(そらち)工場」が建設された。
 アメリカ合衆国戦略爆撃調査団・石油・化学部報告
 「日本における戦争と石油」の記述の中で人造石油工場一覧があり、
水素添加法、日本油化工業空知工場、所在地北海道平岸と書いてあった。今から8年ほど前、私は札幌市豊平区平岸に住んでいた。私の住んでいた土地に、そんな物が在ったのかとびっくりし、慌てて「札幌市史」の戦時中の記載を調べたものだ。残念ながらそんな話はなく、取れていたのはリンゴだった。それから暫らくして、富良野へ向かう車中から「平岸」の看板を見つけた時、天啓のように幻は現実の物となった。
       ・・・・・「ここだ。」・・・・・

 赤平市では、昭和18年9月アルミニューム精錬用のピッチコークス製造を目的として北海道炭素工業株式会社が、また、翌19年には化学燃料油の製造を目的として日本油化工業株式会社空知工場の建設がはじめられた。この両工場は海軍の指導下におかれ愛国第83工場と呼ばれた。
 平岸に工場をもってきた理由は、赤平市内にあった昭和電工豊里炭鉱の石炭が原料炭に適していたことがあげられる。(人造石油を作る場合、原料炭の向き不向きは決定的な要因となる。石炭であればなんでもよいというものではない。)
 建設は地崎組が請け負い、18年11月いっぱいに基礎工事に着手し19年9月までには竣工予定であった。
 大東運輸は、油化工場建設機械等の輸送を、北海道炭素工業から受け、月島、高浜および鶴見の石井鉄工所製品を艀積み、海上輸送後、平岸駅レール渡しまでであった。期間は昭和19年から20年3月まで。その重量は約1万7,000トン、容積は5,500トン程度であった。

 プリンスが知り得たことは、今のところこの程度しかない。水添法とは石炭や石炭を乾溜して得たコールタールを耐熱高圧筒に入れ、触媒下に水素を添加し人造石油を作る方法である。元々ドイツで開発され、工業化された物で、ドイツでは立派に高オクタン価の燃料を量産した。日本では、海軍が実験室程度の技術を完成させたのだが、ドイツからの技術導入を望む民間会社に海軍方式を強要し、事実上全てを無駄にさせた。(「海軍燃料史」の中で海軍技術者達は、その事実をなんら悪びれることなく認めている。)どちらにしても、工場は完成しなかったし、完成していない技術を海軍の指導下で運営しようとしていたのだから・・・・・・・油は出来ない。

 引用・参考文献
 「赤平八十年史」
  昭和48年12月1日発行

 「あかびらふるさと文庫 5号」
  昭和61年2月発行

 「地崎工業百年史」 株式会社地崎工業
  平成4年3月発行

 「大東運輸五十年史」 大東運輸株式会社
  昭和60年5月30日発行

 札幌並びに札幌近郊にお住まいの同じ趣味をお持ちのみなさん。
今月20日以降(夜)にオフ会(第一回選友会、軽くお酒を飲んでの語り合い、お酒飲めなくても構いません。ただし20歳以上)なんかをやってみようかと思っています。詳しくはWar Birds 内 Birds Town 123番目にお住まいの「不運な北方不敗様」の所へお越しください。お待ちしております。 

北の国から 2002 絶望

駐車場
 マーク2から降りる二人。
 意気揚揚と歩くプリンス。
 肩を落とし後ろから付いてくる誉。

プリンス
 「いいか、ここが富良野市立図書館だ。どんなお宝が隠されて
いるか分からないんだぞ。ワクワクするだろう?」

 「はあ。」
プリンス
 「俺の日記ももう1ヶ月も更新していないんだ。全国の数少
ない読者が一日千秋の思いで待ち望んでるだぞ。3ヶ月も
図書館と名の付く物に近づいてないのに書けるわけないだ
ろう。」
誉の語り
 「父さん、うちの上司は人に言えないような恥ずかしい趣味
を持っているわけで、こうして社員旅行の自由時間にさえ付
き合わされて。父さん、最低です。」

図書館の受付前
 プリンス振り向く
プリンス
 「よし、お前に1時間、時間をやろう。おもいっきり楽
しめ。」
 茫然と立ち尽くす誉。
 自分の世界に浸るプリンス。

駐車場
 車に向かう二人
プリンス
 「だめだな、ここは俺の趣味に合わない。まあこういう事も
よくあるんだ。よし、次ぎは、土産に富良野の銘菓『へその
おまんじゅう』を買いに行くぞ。」

 「?・・・・」
語り
 「うちの上司もけっして悪い人じゃない訳で。でも・・・」

車中
 流れる尾崎豊「I Love You 」
 ハンドルを握る誉、声も無く流れる涙。

重箱の隅を突つく

   [歴史群像] 太平洋戦史シリーズ 39
  「帝国陸軍 戦場の衣食住」

 出るとは聞いていたが、ここまで書いてくるとは思いもよらなかった。この値段でこの内容、絶対に手元に置いておくべき本である。例え、これ以上の本が出来ても値段が高くなりすぎるであろうし、そんな本を買う物好きは「精神を病んでいる」。
「衣食住」の内、「食」にしか興味のないプリンス、それでもほとんど
知らないことばかりだった。プリンス性格が捻じ曲がっているので、これから「食」について書いても、食品製造学、食品栄養化学、農学の立場からしか書けなくなってしまいそうである。つまり今後は「重箱の隅を突つく」ことしか出来そうにないのである。
 この本では引用・参考文献が書かれていないが、プリンスがチョット
引っ掛っている本を2冊紹介しよう。

 「ビスケット工業史」編纂者 森永太平
  昭和26年1月刊 発行者 全国ビスケット協会

 この本は鉄砲伝来・・ようはヨーロッパ人との交流の中でビスケット
もどきが渡来し、そして、昭和26年までのビスケットとそれに関連する物の通史である。この本の中では「乾パン」についても詳しく書かれ
ている。軍用乾パンについてはイマイチ分りにくい記述なのだが、なんせ他に乾パンについて書かれた本をプリンスは見たことがないので、大変貴重な本である。ただ、戦中の軍用乾パンの詳しいレシピと製造方法に一度はお目に掛かり、じっくりとあらゆる方向から検証したいとは思っている。(それらしいレシピもあるのだがプリンスの趣味には合わない。)

 「社史 アルミニウム五十五年の歩み」
  昭和32年4月15日発行 日本アルミニウム工業株式会社

 日露戦争前、日本で始めて大阪砲兵工廠ではアルミ製飯盒や水筒を作りはじめる。そしてそれをすぐ追うように民間のアルミ器物製造業者(砲兵工廠技術者も加わる。)が生まれた。日露戦争中の兵用の飯盒や水筒は砲兵工廠で全部つくられたが、将校用のアルミ製飯盒や水筒、兵用のアルミ製各種食器はすべて民間で作られた。これらについての詳しい話が載っているのがこの本である。食器の内容一覧などとても興味深いものがある。そして時代が下るとエレクトロン(マグネシウム合金)焼夷弾の弾体製造や航空機用アルミ製部品製造などおもしろい話も出てくるのである。

ミリタリー趣味を極める

 「 戦下のレシピ
     太平洋戦争下の食を知る」 岩波アクティブ文庫
   斎藤美奈子 2002年8月9日発行

 某質問コーナーに出ていた「ミリタリー趣味を極める」私にはまったく関係のない言葉であり、はっきり言って余りに意表を突いた発言だったので、椅子から滑り落ち未だに立ち直れません。この夏出版されたミリタリー関連の書籍の中では、もっとも優れているとプリンスが想う上記の本、こだわりのある方なら目を通されていることでしょう。この本、文芸評論家と紹介されている著者の方がお書きになっているのですが、一部言葉足らずの所があったり、時代背景や食品、農業に対する理解が充分でない為、なんとな~くしっくりいかない所もあります。これはあくまでも私だけのこだわりであり、この本の価値をいささかも減ずる物ではありません。これから私が書く事は実に些細な事で、単なる揚げ足取りになってしまったらゴメンナサイ。
 戦時中、代用食の中で「うどん(乾麺)」や「すいとん」が多用されていた事はこの本からよく分ります。また「パン」にしても重曹などの化学的膨張剤を使用した「蒸しパン」と言われる物がよく食べられました。これはとうもろこし、大豆などの雑穀、豆類を粉にして利用出来る事と、国産および日本支配下で採れる「小麦」から作った「小麦粉」が現在、一般的に食べられているパン作りに不向きだからです。小麦粉は蛋白質(グルテン)含量により次ぎの3種類に分類されます。蛋白含量が多ければ多い程、水で捏ねた時の粘り(ひき)が出て、パンの製造には適します。
 1、薄力粉
 2、中力粉
 3、強力粉
 薄力粉はクッキーやスポンジケーキ、中力粉はうどん、強力粉はパンなどに使用されます。当時、日本での小麦は中力粉つまりうどん用の物であり、日本産の小麦で現在食べられているようなパンを作ってもパンの形にはなりません。現代の主要小麦生産地(当時においても)米国、豪州などを見れば分るとおり、強力粉を作る小麦は日本などの湿潤な気候では、その生産にはまったく向いていなかったのです。(今でもパンに向いた国産小麦は作りにくい事に変りがありません。)また、一部の読者なら絶対に考える「スパゲッティを食べればいいじゃないか。」これまた、日本にはまったく産しない小麦の種類から作られた物なのです。なかなか小麦粉の世界も奥が深いのです。
 戦前、戦中日本はお米を海外から輸入したのですが、この著者の方はその輸入先を「タイ」と「インド」と盛んに仰っています。これは単純な間違いで「インド」ではなく「インドシナ(印度支那、仏印)」現在のベトナムの事です。インドは当時米の輸入国で戦前は同じ英国支配下にあったビルマから米の輸入をしていました。ビルマが日本に占領された為、インドの一部地域では米不足の上、英国の無為無策により多くの餓死者を生じました。また、インドシナでも戦争末期、日本軍の激しい収奪により米不足になり、現地住民に餓死者が生じました。

孫引き

 一部、有識者に蛇蝎のように忌み嫌われる「孫引き」チョット常識に欠けるプリンスはやっぱり書いてしまう。
 昔、血液アルブミン接着剤に触れた事があるのだが、実際に日本で実用された話を始めて見た。軍事・兵器に興味のある方なら絶対に開く事は無い本である。

 豚の血を塗った段ボール
          三成紙器㈱会長(昭和51年当時)服部 豊氏
 戦争中に開発された特殊な包装に「一九梱包」というのがあった。戦争が長くなって資材が不足、釘もなくなって木箱が出来なくなった昭和19年、糧秣省(廠?)が研究して開発したものであった。
 当時、ファイバーといったものに防水塗料を塗布していたが、その防水塗料は、なんと豚の血を加工したもので、これを刷毛で塗っていた。この一九梱包には、乾燥野菜や乾パンなどを入れていたが、海軍では、潜水艦に積んでもスペースをとらないことから、重宝がられてずいぶんと使われた。
 これは、当時の内閣総理大臣であった東条英機から、内閣総理大臣賞をもらった。
 現在と違って当時は、大量生産の体制はなく、戦時体制下の人手不足でもあり、学徒動員に頼ってなんとか人手は確保したもの、高学年の学徒はみな軍需産業の方にとられて、段ボール産業のような軽工業には、小学生が勤労奉仕にやってきた。100名ぐらいくるのだが、その監督をするのが厄介で、まったく子供たちのお守りをするようなもので、たいへんな騒ぎだった。なかには、豚の血の臭気に当たって、気分が悪くなる子供もいた。これでは日本の国はもういかんなあと、しみじみ思ったものだ。
      (「だんだん」第8号、昭和51、9、15)
 段ボール産業の歩み ー団体結成40周年記念誌ー
   編集兼発行者 日本段ボール工業会
          全国段ボール工業組合連合会
   昭和63年12月1発行
 に転載

 今回紹介した話は接着剤としてではなく、塗料として使われている。なお100~120℃位に加熱しないと固化、防水性を持たないようだが段ボールの場合どうしていたのであろうか?また、牛の血より豚の血で作った物が優秀だそうだ、理由は知らない。
 参考文献
 「接着剤」編集者日本学術振興会
  昭和26年5月20日発行 産業図書株式会社

 「戦前船舶」第26号が送られてきた。この中で
 高オクタン価航空燃料工業ノ確立ニ必要ナル諸方策ト本工業ノ適正配置計画ニ対スル意見書ヨリ抜粋
 との記述があり、イソオクタンにも触れられているのだが、私の知識がたりないのか、言わんとする事がさっぱり分らないし、資料の貴重性も分らない。出来れば詳しい解説を付けていただきたいものである。

粉末醤油

陸軍糧秣廠においては噴霧式乾燥機を用い、微細なる孔より80度内外の加熱気中へ醤油を噴霧させるか、或は熱気中に装置せられた急速に回転する円盤上に醤油を滴下せしめて遠心力を利用するクラウゼ式粉末乾燥機を使用して醤油を細粒粉末とし、粉末醤油をつくっている。

 「増訂 醤油醸造法」深井 冬史
  昭和10年10月15日発行 昭和23年12月20日増訂五版
  産業図書株式会社
 
 最近買った本
 「東京人⑩特集神田神保町の歩き方 PART3」
  東京に行ってみたい。

 「日本自動車産業の成立と自動車製造事業法の研究」大場 四千男
  2001年4月10日発行 信山社
 この本は戦前、戦中の自動車に関しては、かなり優れた参考書のような気がするのだが、つい最近まで20年間もペーパードライバ  ーだったので何ともいえない。平岸にお住まいの私を避けているH  様、あなたの母校の先生がお書きになった本です。
  
 道産子として道産子らしく「北の国から」を鑑賞する。
 今から五年前、お医者様は「悪性だと進行は早いですから。」といとも簡単に告知なさり手術した。でも、なぜか私はこうして生きている。