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続き

 久々にメールが来たと思ったら「綴りが間違っているよ」と指摘された。そこで、もう少し調べてみた。
 大善丸(大阪商船、5,396総トン)昭和18年8月27日、日本鋼管鶴見造船所竣工の第1次戦標船の鉱石船K型(鉱石運搬船)だった。昭和20年2月18日ボルネオ島クチンを出港し昭南へ向かった船団は大善丸、南海丸(サルベージ船)関東丸の3隻と護衛の海防艦十勝、第16日東丸、他1隻の合計6隻だった。沈められたのは大善丸だけである。触雷の記載は見当たらなかった。
 大暁丸(大阪商船、6,982総トン)は昭和19年11月13日、三井造船所竣工の第2次船標船の貨物船改造油槽船、第3次応急タンカー2AT型だった。7000トンの石油と4000トンの貨物が積載可能だった。昭和20年2月4日昭南を出港し門司へ向かった船団はヒ88D、延元丸(日本郵船、6890総トン、2AT型)、大暁丸、治靖丸(拿捕船)の3隻と護衛艦、第13号海防艦、屋久、第31号海防艦の合計6隻だった。延元丸、大暁丸の2隻が雷撃で撃沈された。大暁丸の積荷は重油、ゴム、錫、スピンドル油等、計9300トンだった。
 オランダ潜水艦K-ⅩⅦ(排水量777トン、1933年竣工)は機雷により沈んだと思われるが、沈没場所がはっきりしないのでなんともいえない。昭和16年12月15日、特設敷設艦辰宮丸(元辰馬汽船、6343総トン、昭和13年11月21日、三菱重工神戸で建造)が12月7日に敷設した九三式機雷(456個敷設)に触雷して沈んだオランダ潜水艦O16(O12級、排水量715トン、1936年竣工)と同じ経過をたどったと思われる。しかし、12月7日には伊122潜が42個、伊121潜が42個シンガポール東方洋上に機雷を敷設している。
  引用・参考文献
 「敵潜水艦攻撃」木俣 滋郎 朝日ソノラマ
 「戦史叢書 比島・マレー方面海軍進行作戦」
 「戦時造船史」小野塚 一郎
 「船舶砲兵」「戦時輸送船団史」駒宮 真七郎
 「日本・油槽船列伝」松井 邦夫
 「創業百年史資料」大阪商船三井船舶株式会社
 「世界の艦船 戦時商船隊建造の回顧 正岡 勝直」
 「社史 合併より十五年」山下新日本汽船株式会社

Treasure

 昨日借りてきた本に
  「蒼海の財宝」H.エドワーズ著 井谷 善恵編訳 
   2003年7月30日 東洋出版
という本がある。これは「Treasure Hunting」すなわち、海洋における沈船からの有価物の引き上げについて書いた本だ。プリンス、昔から水中考古学そしてトレジャーハンティングについての本は読んできた。なにせ、日本で唯一体系的に発掘が行なわれた北海道江差町の江差港における幕府軍艦「開陽丸」の発掘に、学校の先輩が二人も大きく関与していたので興味を持たざるを得ない。トレジャーハンティングといえばカリブ海のスペイン船の話が有名だが、この本では南シナ海などのオランダ東インド会社商船、中国のジャンク船からの明・清朝期の陶磁器の引き揚げが話の中心だ。しかしこの本でプリンスに重要な所は、話の前置きに出てくる太平洋戦争中に沈んだ商船、艦艇の調査・積荷のサルベージの話だ。この本の主人公マイケル・ハッチャー Michael Hatcher はイギリスからオーストラリアに移民した方なのだが、かなりその行動は怪しい。しかし、プリンスにとってはとても有益な話なのである。今回はその話についてすこし書いてみる。

1、 ラバウル港に沈み埋め立てられて桟橋として使われている小牧丸(国際汽船、8,524総トン、昭和17年4月18日、空爆)と思われる船のプロペラを爆破、回収し売り飛ばしている。(1970年代)

2、 シンガーポール陥落直前にシンガポール港を脱出しリオウ海峡で日本軍の砲撃で沈没したロッホ・ランザ号(7000トン、積荷は錫、シンガポール向けの航空燃料、航空発動機、ハンダ、長い真鍮の延べ棒、ウイスキー、ビールなどの一般的な商品)の積荷(錫200トン?当時1トンで4万3000ドル)、プロペラ(青銅製27トン)を引き揚げた。錫は700万ドルで売れ、経費は20万ドル。
(ロッホ・ランザ号について知っている方はプリンスに教えてください。)

3、 UIT-23(旧イタリア潜水艦 レジナルド・ジュリアーニRejinaldo Giuliani)昭和19年2月13日シンガポールを出港しペナン港に立ち寄ったあとヨーロッパに帰ろうとしていたが、2月14日イギリス潜水艦タリホーTally Hoの雷撃を受け沈没している。ハッチャーはマラッカ海峡で1979年11月に発見し、翌年1月から3ヶ月かかって積荷の回収を行なっている。回収したのはゴム(ほとんど劣化せず、新品の25%で売れる)錫(船内のほかにもバラストキールとしても用いられた。)で総額700万ドルになった。戦死者は艦内にそのまま残され、レジナルド・ジュリアーニと書かれた羅針盤カバーはイタリアの海軍潜水艦乗組員協会に送られている。参考までにUIT-24(旧イタリア潜水艦 コマンダンテ・カペリーニComandante Caperllini)はゴム115トン、錫55トン、キニーネなど各種10トンを積載したという。

4、 U-168はジャワ島バタビアからスラバヤへ向かう途中、昭和19年10月6日、オランダ潜水艦ズヴェートヴィックZwaardvisch(旧イギリス潜水艦タレントTalent 1943年譲渡)に雷撃撃沈された。これも引き揚げを行なったが、金目の物は無かった。

5、 昭和19年2月20日、南シナ海でアメリカ潜水艦ホークビル(SS―366 Hawkbill)により、雷撃撃沈された大善丸(大阪商船、5,396総トン)。1200トンの錫を積みブルネイ沖で触雷し、一度港に帰って錫をおろし、軽くしてから機雷で壊れた部分が海面に出るようにし、その後、パレンバンで鉄道のエンジン?などの道具をおろしてから、シンガポールで修理しようと航海していたとある。しかし、錫がおろされたとは知らず、回収を試みたが、載っていたのは鉄道のエンジンだった。

6、 昭和20年2月7日、大暁丸(大阪商船、6,982総トン)は、南シナ海でグアヴィナSS―362 Guavina)により、雷撃撃沈された。別の会社が最初に400トン以上の錫を引き揚げ、次に著者が600トンの錫を引き揚げた。1000万ドルになった。

7、 昭和16年12月消息をたったオランダ潜水艦K-ⅩⅦと思われる沈没位置を確認し、舵柄と舵輪を引き揚げた。艦首に機雷によると思われる破孔があった。沈没時浮上航行中だったらしく、ハッチは全て開かれていた。

8、 その他にも駆逐艦、掃海艇、商船のサルベージも行なわれているらしいが詳しい話は書かれていない。

  参考・引用文献
「海底考古学と開陽丸」北海道江差高等学校 昭和55年3月10日発行
「海底の秘宝」ロバート・F・バージェス著 平野 勇夫訳
 1991年3月30日発行 図書印刷
「神戸市立博物館開館記念特別展 海のシルクロード」昭和57年11月
「太平洋戦争沈没艦船遺体調査大鑑」
「Uボート総覧」
「ナチスUボート、イギリス潜水艦史、第2次大戦のアメリカ軍艦」海人社
「U.S.SUBMARINE ATTACKS DURING WORLD WAR Ⅱ」
  John D.Alden Naval Institute Press
「Schepen van de Koninklijke Marine in W.O.Ⅱ」Chris Mark

中国が戦争末期、アメリカ潜水艦に沈められた病院船阿波丸をサルベージしたのは、ただ金欲しさの為だけではなかったのかと、ふと思う。

ケキ砲

 来週から始まる娘の中間テストの勉強の為、身の置き所の無いプリンスは、朝から市立中央図書館に出かける。ここも年に2回、春と秋に蔵書チェックしている。別段調べたい事も無かったので、室蘭関連の本を漁る。
 「室蘭防空隊」村田 勲 昭和57年12月20日発行
 「アメリカ海軍機動部隊」編著者 石井 勉
  昭和63年2月28日発行 成山堂書店
を読む。
 15糎加農砲ベトン俺体の写真を見、米戦艦アイオワ(BB-61)、ミズーリ(BB-63)、ウィスコンシン(BB-64)の砲撃経路をたどる。15糎砲の射界が狭く死角になっていることと、米戦艦の砲撃距離が3万m近くあることが分かり愕然とする。狙えない、打てない、届かない、つまり役に立たないのである。これでは、哀しすぎるのだが、「室蘭防空隊」で二式多連二十粍高射機関砲(ケキ砲)の話を読み気を取りなおす。ケキ砲は宮城、室蘭、八幡製鉄所、台湾、パレンバンで少数が配備がされていたらしい。室蘭には1セットが配備されたのだが、昭和20年7月14日の米軍艦載機の室蘭攻撃時には「思う存分打ちまくった」そうだ。これは、プリンスにとってケキ砲が実戦で使用された事を証明する始めての記述だった。
 参考・引用文献
 「日本の大砲」竹内 昭 /佐山 二郎
  昭和61年4月25日発行
 「高射戦史」下志津(高射学校)修親会
  1978年12月1日発行

 今日は面白い本を借りてくることが出来た。
 『古書肆「したよし」の記』松山 荘二
  2003年3月3日発行 平凡社
 「それでも古書を買いました」鹿島 茂
  2003年1月25日発行 白水社

モーターベンゾール 

 今日は仕事も早く終わったので某所で「航空機の全貌 下巻」の航空揮発油の部分を熟読する。これを最初に読んだ人は辛いだろうなあと、あらためて思う。家に帰り、最近お気に入りのモーターベンゾールを調べる為
 「タール工業五十年史」日本タール協会 昭和26年12月30日発行
を開く。そもそもモーターベンゾールの定義もあやふやなのに、自動車用モーターベンゾール、航空機用モーターベンゾールなどがさらりと書いてあるのでますます混迷は深まる。戦時中のベンゾールの生産統計もあるのだが、ベンゾール、燃料にだけに使われていたわけではなく、溶剤、原料としても使われていたので手の打ちようがない。
 たまたまここを通りかかった人もいると思うので、上記の本から気になった事を紹介する。人造石油製造法の1つ、低温乾留法で製造された低温(乾)タール、缶用重油として使えるのだが石油と混ぜると沈殿を生じて使えなくなるそうだ。
 ところで今、ハーゲンダッツのラムレーズンと共に「WTM対決編」を買ってきたのだが、これってあまりにも安易なのでは?

セールス

 本日、営業活動として幼稚園5ヶ所、保育園1ヶ所を訪問する。仕事はさておいて「ちひろ先生」を捜す。先生方のプリンスを見る目つきが性的異常者に対するものだったのだが、私はマイケル・ジャクソンではない。ところで、先生方の塗粧、一種独特なものがあった。幼児と同僚とママたちだけに囲まれ、先生達の特殊な世界が形作られているらしい。このような世界で大事な時期を過ごした(三つ子の魂百まで)子供達の将来が心配である。明日は千歳市方面に向かう。

続オバホルモン

 かつて「オバホルモン」について書いた事があるのですが、読者であり、「オバホルモン」を製造されている帝国臓器製薬にお勤めされていらっしゃる方から社史が発行されている事をお聞きし、また、札幌でこの呪われた趣味を共有する友人、ユンカース様から女性ホルモンである「オバホルモン」が男性の滋養・強壮に効果はないのではないかとのご指摘を受けました。今度、
「帝国臓器製薬80年史」 平成12年12月発行
を借り受けてきましたので、その辺のところをチョット書いてみたいと思います。
 帝国社臓器薬研究所は「オバホルモン」に続き、男性ホルモンの研究を始めました。1929年(昭和4年)、フンク(Funk)らが男性尿中に多量の男性ホルモンが存在することを明らかにし、1931年にはブテナントが男性尿から、男性ホルモンの一種であるアンドロステロンを取り出した情報によるものでした。男性ホルモン含有量の多い青年男子の尿を用いることにし、社内、続いて川崎中学校の生徒、さらには近衛三連隊のほか、東京の各連隊兵舎から原料尿を集めました。昭和9年3月学術名テスチホルモン(後にテストステロン)を「エナルモン」として発売しました。「エナルモン」は非常に好評で現在の川崎市高津区に人尿濃縮の為、高津分工場を建設しました。高津分工場で処理した人尿は昭和18年で1101kl、購入金額は1万700円でした。昭和19年5月、帝国臓器の工場は陸軍衛生材料廠の監督工場の指定を受けました。「科学朝日 通巻四十二号」昭和20年2月1日発行に「オバホルモン」と並び「エナルモン」の広告が載っています。そして、「記憶力減退、神経衰弱、疲労体質、血圧亢進」の症状に効果があると書かれています。つまり搭乗員に与えられたのは「オバホルモン」ではなく「エナルモン」だったのでしょう。

 話は変わって元々帝国臓器製薬は食品の製造販売から創業しました。国内でグリーンピースの栽培を始め、始めて水煮缶詰を製造、販売しました。そして、明治44年6月には海軍経理部にも大量の納入が認められるようになったのですが、いったい当時海軍ではどのように調理されていたのでしょうか?また、大正頃製造された豚肉の缶詰「濱焼」「帝国煮」そして牛肉と豆の煮付けの缶詰「日之出煮」は軍用として用いられたのでしょうか?非常に興味あるところであります。

ドイツの人造石油

 戦前、戦時中日本が必死に模倣しようとしたドイツの人造石油、その実態はよく分からない。外国語が分かれば王道を行く方法もあるのだが、なにせ日本語しか読めないので道は遠い。今回、次の本にドイツの人造石油生産の記述があるのを見つけた。
 「欧州のタール工業-渡欧タール工業専門視察団報告書-」
 昭和37年11月30日発行 日本生産性本部
これは1960年頃、日本の視察団がヨーロッパ石炭工業を見聞したものである。この中でドイツ(西ドイツ)の記述もある。

 戦前、戦時中ドイツで行なわれた人造石油の製造法は
① フィシャー・トロプシュ法
② 水素添加法
③ 低温乾留法
の3つである。

① フィシャー・トロプシュ法とはコークス由来の一酸化炭素と水素の混合ガス又は褐炭を直接ガス化し反応筒中でコバルト触媒のもと反応させ液化油を得る方法である。ドイツには9工場あり、戦時中、最大生産量は57万トン/年にも達し、これはドイツ国内石油生産量の約8%に及んだ。この方法の最終製品の72%は液体燃料(ガソリン及びディーゼル油)で、残る28%は精製ワックス、潤滑油、洗剤(高級脂肪酸?)油脂等の製品だった。日本でも2ヶ所で製造が行なわれたが、日本が望んでいた高オクタン航空燃料製造には不向きであり、当時日本側には分からなかったが、ドイツでも航空燃料にはほとんどされていない。

② 水素添加法は褐炭、瀝青炭、褐炭タール、瀝青炭タール、タール油、ピッチ及び石油系重質残渣油を原料として反応筒中で水素を添加するのものである。ドイツでは1944年には12の水添液化工場が操業し、液体燃料年産総計350万トンの生産規模に達し、これらの工場から、1939-45年にわたる第二次大戦中にドイツが消費した航空燃料の大部分を供給した。水素添加そのものが高オクタン燃料製造に向いているのであるから、ドイツが用いた96オクタンなどは意外に容易に製造出来たと思われる。日本がこの方法を物に出来なかったのは、実験室レベルで成功した海軍法の使用を強要したこと、反応筒の供給が順調に出来なかったこと、ドイツからの情報により石炭から直接液化油を作ったという事にこだわり、技術的に行き詰まったこと(ドイツでも石炭から直接作るのは苦労したようで、タールや重質油から製造する方がはるかに容易である。)などが考えられる。

③ 低温乾留法は製鉄に用いるコークス製造より低い温度で石炭を乾留する方法である。低温で乾留するほうがタール分の収量が多い。ドイツでは瀝青炭より揮発分の多い褐炭を用いた。乾留により得られた低乾タールは水素添加法の原料になると共に、低乾タールをさらに蒸留して揮発油、ディーゼル油、パラフィン、ピッチ、タールコークス(電極に使用)を製造した。ドイツでの褐炭タールの生産は1943年で141万トンに達した。日本でも樺太、室蘭、宇部、八幡で低温乾留が行なわれ、日本での人造石油製造は低温乾留法だけを採用すべきだったという専門家の意見もある。

 最後にこの本で興味深いのは、ドイツでは製鉄などに使用するコークス製造に伴い生産されるタールから、自動車燃料として用いられるモーターベンゾールが1958年、324,300トンも製造されていることである。また、都市ガス工場でもこの年、15,100トンのモーターベンゾールを産出している。戦時中、いったいドイツ支配下のヨーロッパ諸国ではどれだけのモーターベンゾールが産出されたのだろう。そして日本では。

引用文献

 戦争中の燃料話でよく引用文献として使われる
「石油の世紀 上巻」ダニエル・ヤーギン
 1991年4月20日発行 日本放送出版協会
をやっと入手する。せっかく手に入れた割には内容がたいしたことがなかったのだが、面白い話を拾う。
「日本軍の攻撃を受けた当時、艦隊の燃料はすべて地上のタンクに貯蔵されていた。その量は四五〇万バレルに達していたが、タンクはどれも機銃掃射で燃え上がるような代物だった。もし日本軍が石油基地を破壊していたら、戦争はもう二年長く続いていたかもしれない。」
 チェスター・ニミッツ語る
 しかし、下巻は買っていないので引用文献がわからない。ついでなので2つほど真珠湾タンク話を書き写す。
「たとえ日本は、われわれの艦船を沈めなくても、基地を麻痺させ、露天にさらされていた艦隊の燃料補給タンクのすべてを破壊することができたはずである。それによって受けるわれわれの損害は、実際にわれわれが受けた損害よりも大きかったかもしれない。そのような場合、艦隊はアメリカ本土の西海岸に帰らざるを得なくなったろうと思う。しかし、実際には、ハワイの燃料は少しも損害を受けずにそっくり残ったので、われわれはハワイの基地を利用することができた」
 キンメル大将述べる。 「トラトラトラ」ゴードン・W・プランゲより
「日本軍は湾内の近くにある燃料タンクに貯蔵されていた四五〇万バレルの重油を見逃した。長いことかかって蓄積した燃料の貯蔵は、米国の欧州に対する約束から考えた場合、ほとんどかけがえのないものであった。この燃料がなかったならば、艦隊は数ヶ月にわたって、真珠湾から作戦することは不可能であったであろう。」
 チェスター・ニミッツ 「ニミッツの太平洋海戦史」より

 さらに、昨日の市立室蘭図書館での収穫を1つ
「油槽船ヘ号爆発事件始末記 平林 正一」
 室蘭地方史研究 第19号 昭和59年11月30日発行
これは昭和40年5月23日、室蘭港においてノルウェー船籍のタンカー「ヘイムバルド号」(35,355総トン)が原油26,771ロングトンを積んで接岸に失敗、爆発炎上し27日間燃え続けた話である。揮発性が重油より高いとはいえ、実に簡単に引火し、消火できないのである。

戦士の休息

 昨日は北海道が誇る温泉郷、登別温泉に行く。会社内の一部に企業戦士と呼ばれるプリンス、半年分の疲れを癒した。ここでは戦時中、千歳で訓練に励んでいた搭乗員、室蘭港に入港した艦艇の乗員がお湯につかっていたのである。
 今日は少し足を伸ばし、市立室蘭図書館を訪問した。戦争末期室蘭に配備されたという重砲の関係資料が在るのではないかと思ったのである。図書館館長である山下敏明氏に、そのような資料は図書館には無いことと、米機動部隊艦載機に対する対空射撃の様子を伺い、日本一の大砲の権威の話をしておく。妻と子供が我慢できる一時間しか滞館を許されなかったので戦果はほとんどなかったが、
 「室蘭地方史研究 第16号」 昭和57年2月30日発行  に
 「登別側から見た艦砲射撃」の記載があり、盛岡西雄氏(函館重砲に入隊、昭和二十年、室蘭の測量山に砲構築)の記述があった。

 「測量山頂上に十五サンチカノン砲設置の作業をやりました。ところが、砲はついたが方向盤がない、それで日鋼(日本製鋼)に頼んで作製してもらっているうちに敵がやってきてしまったわけです。こちらは全く反撃できませんでした。室蘭には相当の砲が装備されたといいますが実態はさにあらずです。私たちは函館の重砲部隊ですが、ここに配置されたのは、わずか三八野砲四門なんです。全くどうしようもなかったですね。」・・・・・いったいどこに真実はあるのか?
 今日、プリンスは室蘭の地球岬から太平洋をのぞんだ。プリンスの視線の先には火を吹く米戦艦の四十サンチ砲がはっきりと見えたのである。

雪が降る。

 冬タイヤ交換のため、冬タイヤを積んでオートバックスへ向かう。当然、トランクに隠された数々の古本も白日の元にさらされるのであった。30分程妻より説教をされる。要約すると
「古本を買うな。とは言わないが、やっぱり、もう古本は買うな。という事である。」