去年から気力も湧かないのでアジア歴からコピーした「極秘ナントカ」を読んでいるのだが、旅順港閉塞に使われた日本船(あちゃらの船も)が最終的にどうなったのか資料を探している。誰か教えてください。
Archive for category 日記
閉塞船
5月 21
転勤
4月 6
今月20日頃には霧の町に住むことになる。最初はホテル住まいだが、単身赴任なので、いずれはアパートを借りることになる。年間2日しか半袖を着ることがないとか、地震が多いので家具には必ず突っ張り棒をしなければならないとか、乾燥機が無いと洗濯物が絶対に乾かないなど同じ北海道人に脅かされる毎日だが、おそらく定年までそこで暮らさなければいけないと考えると・・・悲しくなる。この年で一人暮らしをするのも、何とも妙な感じだが、仕事も後が無いだけに、趣味なんぞに関わっている場合ではない。さて、新しいスペースも出来る事だし、12年間でどれだけの本とコピーが貯まるのか心配している。
ikiteiru
4月 5
ここが使えるのかどうか確かめて見る。スターリングラードに帰還し、日々市議会議員選挙の応援(ススムタスケテクレ。オマエモトヨヒラクジュウミンダロ)と職場の残務整理に汗を流している。今日は午後、会社側から次の職場の「内示(正式決定)」を戴く予定である。
撤退
4月 17
突然ですが、一身上の都合により、「座敷牢」並びに「さいはて日記」の投稿が継続できなくなりました。今までのご愛顧のほど真にありがとうございました。いつかまたお会いできる日が…・・
母校
4月 4
今日は小樽の「なると」に鳥のから揚げを食べに行く。小樽といえば寿司や海鮮丼を想像するが、実はから揚げや焼肉(ホルモン)が美味かったりする。小樽に行ってもやっぱり古本屋を訪ねる。今日の戦果は
「秋水」松岡久光 三樹書房 2004年3月25日発行
「起爆阻止」ダグラス・リーマン ハヤカワ文庫 2004年3月31日発行
発行早々のまっさらの本を半額で購入する。
まだチラット眺めただけだが、「秋水」のロケット燃料の話を読む。
卒論「ロケット燃料生産経緯にみる秋水」山形大学工学部・機械システム工学科 指導教官・横山孝夫(平成十三年)
なんてことが母校で調べられていたことを知る。学部は違えどもさすが母校である。後、二十五歳若ければ馳せ参じていたものを。
タングステン番外編
4月 1
挫折したシリーズ「タングステンと大日本帝国〈中国・朝鮮編〉」あまりにもテーマがデカすぎた。趣味では書けません。そこで今回は独逸とソ連と中国のタングステンの関係を少し書いてみた。
独逸もソ連も戦時中「硬芯徹甲弾」(タングステン合金製)を対戦車用に使っていた。この原料タングステンは世界のどこにでもあるものではなく、偏在していた。当時も今も中国が最大の産出国である。
独逸でも年産数十トンのタングステン(三酸化タングステン)産出はあったらしい。戦前は世界各地からタングステンを購入した上、戦時用に備蓄していた。中国(1937年タングステン鉱〈三酸化タングステン60%含有〉4315トン輸入)、ビルマ(1939年タングステン鉱100トン輸入)、仏印、マライ(1936年タングステン鉱25トン輸入)、アルゼンチン、ボリビア、ポルトガル、南阿、豪州、エジプトなど世界の主要生産国から輸入していた。中国が入手した一号戦車や37粍Pakの代金もタングステン、アンチモニーに化けて独逸に渡った。第二次大戦開戦後は独ソ開戦まではシベリア鉄道で中国から(中国のブラックマーケットからも入手、中国の主要タングステン産地はそのほとんどが重慶政権支配下かグレーな地域にあった。)その後は海上封鎖突破船(柳船)、日独潜水艦、そしてポルトガル(1938年、タングステン鉱〈三酸化タングステン60%含有〉2812トン生産)、スペイン(1938年、タングステン鉱〈三酸化タングステン60%含有〉500トン生産)、スウェーデン(1937年、タングステン鉱〈三酸化タングステン60%含有〉127トン生産)から入手していたらしいが、なんせ中立国な上、連合国の目もあるので当然全量は売ってくれない。
ソ連のタングステン生産、輸入はプリンスの前では依然鉄のカーテンに隠されている。ソ連のタングステン鉱床としてブリヤート蒙古のヂチンスキー、東部ザバイカル地方、南部ウラル(グムベイス)、東部カザクスタンなどがあるらしいが、生産量はさほどのこともなく、必要量は満たせなかった。
「ソ連邦はあらゆる鉱物資源に恵まれ、自給自足の域に達しているがアンチモニー及びタングステンだけは未だ其の域に達せず現在戦略的意義から是等の物資は主として支那から其の供給を受け年々増加の傾向にある。」
ソ連邦のタングステン鉱輸入
1935年 1936年 1937年(1-9月)
ソ連邦の総輸入 1056トン 1523トン 2115トン
内支那より 739トン 1339トン 1675トン
支那の割合 69.9% 87.5% 79.1%
戦時中、ソ連は中国、連合国からタングステン鉱、製品の供給を受けていたが、其の数量は知らない。
参考・引用文献
「ソヴィエトの重工業」小島精一
昭和12年11月16日発行 千倉書房
『「支那資源及産業総覧」資源篇』 翻訳者 藤枝丈夫
昭和15年8月15日発行 支那文化協会
「大東亜の特殊資源」編者 佐藤弘
昭和18年9月1日発行 大東亜出版株式会社
「日露年鑑〈昭和十七年度〉」
昭和17年11月15日 欧亜通信社
「鉱物資源百科辞典」 牧野和孝
1998年2月26日発行 日刊工業新聞社
寄生虫
3月 30
今年は日露戦争開戦100年をむかえ、さぞや面白い日露戦争話が出版されることだろう。時流に乗り遅れ田舎者と馬鹿にされるのが口惜しいため、今日も図書館に行って来た。今日見た現物資料は日露講和条約調印後、現地の将兵に部隊長が布告したものの断片のようだ。和紙に書かれ(印刷?)、裏面にはなぜか法名(戒名?)の下書きが墨書されている。
雑用ニ供スヘキトキト雖モ土民ノ洗濯ハ禁スル事
三、飲食物ハ漬物ノ外煮享シタルモノ口ニ触ル食器類ハ毎食前ニ熱湯ヲ以テ○○スル事
四、防蝿ニ注意シ飲食物ニハ必ス附着セシメサル(伝染病アルトキ蝿ノ飲食物ニ附着スルハ最モ危険トス)
五、便所ニハ木灰ヲ準備シ置キ上間ノ都度少量宛投入シ消毒○ニ不潔物ニ蝿ノ附着スルヲ防リヘキ事
以上ハ其大要ニシテ各自衛生ノ最モ必要ニシテ待チニ待チタル父母兄弟姉妹妻子ニ再ヒ面会スルノ幸福ト親族朋友ニ対シ戦話ヲナスノ光栄名誉ヲ完○センコトヲ切望ニ堪エカルナリ輸送開始モ遠キニ非ルヘシ衛生ノ点ニハ深ク注意ヲ要ス
明治三十八年十月 日
後備歩兵第廿五連隊第二大隊長 平野勝明
(○は解読不能)
旅順におけるロシア軍を悩ました壊血病、日本軍も充分罹患する要素があったが、現地調達した白菜などが日本軍を救った。(緑茶も役にたった。)これらの野菜は生や漬物で食べられることが多かったようだ。だからこそ伝染病が多く発生したのだろう。ところで、当時の野菜、肥料として下肥(人糞)を与えられていた。ということは日本軍将兵のお腹の中には寄生虫がたくさんいただろうなあ。
旅順戦の戦死者の多さは多く語られるが、脚気や伝染病による戦病死者の多さをミリタリー趣味を持つ者は避けて通る。日中戦争でも太平洋戦争でも膨大な戦病死者を出しているのにやっぱり避ける。大戦中の最優秀戦闘機P-51が倒した日本軍将兵よりマラリアが倒した日本軍将兵の方が問題にならない位多いのに。
九七式中戦車
3月 21
一時の気の迷いから「グランドパワー、2004、4 日本軍中戦車(1)」を購入する。特集は九七式中戦車だが、当然サブテーマのRSO(東部戦線装軌式牽引車)の方がカッコイイ。本誌の硫黄島の九七式中戦車を見て並行して読んでいた
「商船が語る太平洋戦争=商船三井戦時戦史=」野間 恒 平成11年5月1日発行
の記事を思い出す。
大慈丸 2D-2型戦時標準船、第26戦車連隊の戦車28台、弾薬80トン、セメント960トン、石炭420トン、便乗者644名を乗せ父島へ向かっていたところ、昭和19年7月13日、米潜コビアCobia(SS―245)の雷撃を受け撃沈
とあった。2D型に戦車が28台も乗るのかと疑問に思った上、乗せた戦車の内容が知りたくて
「戦時輸送船団史」駒宮 真七郎
「戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦〈2〉」防衛庁防衛研修所戦史室
を開く。
輸送船団史には昭和19年7月10日横須賀を出港した、日秀丸、大誠丸、利根川丸、大慈丸、栄口丸、第4東海丸の船団から12日、日秀丸、大誠丸、利根川丸が分離し、硫黄島に向かい、3隻は14日無事到着し、揚陸作業を済ませ15日父島に帰ったとある。また、14日館山を出港した日秀丸、八祥丸、桂川丸、第10雲海丸は硫黄島に向かい、18日、戦車部隊、臼砲部隊、高射砲部隊、機関銃中隊を乗せた日秀丸(7785総トン、日産汽船所属)は被雷撃沈とある。
戦史叢書では7月10日、横浜を出港したが、同日輸送船日秀丸(独立混成第十七連隊、戦車第二十六連隊、独立臼砲第二十大隊の各主力乗船)は故障の為横浜に引き返し、14日横浜を再出港したが、18日敵潜水艦の雷撃を受けて轟沈、戦車二十八両を失い、生存者は父島に上陸、戦車第二十六連隊は父島で部隊の再建に努め、8月には補充用戦車受領のため一部人員を内地に派遣したが部隊主力は8月30日までに硫黄島に進出したとある。
まあとにかく戦車は沈んでしまった。
硫黄島で最終的に戦った第二十六連隊の戦車は中戦車11両、軽戦車12両の計23両、九七式中戦車の内、47粍を何両載せていたんだろう。それに戦車より47粍速射砲や迫撃砲、何よりも弾薬を送った方が良かったような気がするが、所詮素人の後知恵か。
ところで日秀丸を沈めたのは米潜コビアCobia(SS―245)
「U.S.SUBMARINE ATTACKS DURING WORLD WARⅡ」 John D.Alden によれば18日に硫黄島行きの第10雲海丸(851総トン、中村汽船所属)も沈めているという困ったヤツだ。
わからない
3月 9
連休を利用し、「戦史叢書 インパール作戦」「戦史叢書 イラワジ会戦」を抱え込み読みふける。わからない。理解できない。所詮、陸戦などアホウなプリンスにはお呼びではなっかたようだ。大家さんの示唆も、プリンスには禅問答になってしまう。それにしても、書いてる事がどいつもこいつも違うし、関係者の発言にも必ず2つの解釈がある。アーア、プリンスに教えを与える方々の参考文献も一度読んでみたい。
ところで、ビルマの油田エナジョン、製油所は空爆を受けて本格的な製油は出来なかったが、芋釜を使い初歩的な製油を行なっていたようだ。月の製油量は三万kl。航空燃料は出来ないが自動車ガソリン、灯油(ランプが使える)軽油、重油、普通に生きていくには困らなかったであろう。
「軍事研究」
3月 4
ふと思い出して「軍事研究」のバックナンバーを読み直す。「ディマプール」ここが出典だったんだ。
英軍の迫撃砲Ordnance,M.L.Mortar,3inch
HEで一発4.54kgもある。「両方の胸のポケットに一個ずつ、両方の腰に一個ずつ迫撃砲弾をぶら下げた。」胸ポケットに入るのか?さらに18kgも持って歩けるのか?それに照準器も付いていないんだぞ。などと考えていけない。