柳船が実際何を運んでいたのか、特に機械類の実態はほとんど分からない。昔、工業用ミシンを運んでいた資料は見つけたのだが、兵器、素材を除けばドイツ圏内(おそらくスイスなどの中立国も含む)から運ばれた工業設備、精密機械など具体的な記録が無い。
満州合成燃料は昭和12年8月6日、満州国政府34%、三井鉱山、三井物産、三井合名の3社合計34%、満州炭鉱、満州石油各6%の出資比率で設立された会社である。
三井鉱山が三池でフィッシャー法人造石油の工場に着手するのをみて、満州国の要請で始まったものである。その事業計画としては、さしあたり人造石油10万klを目標とし、
第 1期年産4万klの工場を錦州市で昭和13年5月起工した。主要機械装置は、合成炉を除き大部分を経験の深いドイツに発注した。ところが、昭和14年9月 に第2次大戦が勃発し、ハンブルク港が英仏海軍に封鎖されたため、同港から積み出せなくなった。ドイツ側はシベリア経由に切り替えたが、昭和16年6月に は独ソ間で戦端が開かれ、このルートも途絶し、約20%の機械類が積み残された。同社ではやむなく、これらを日満のメーカーに切り替え発注し、このため、 工場の完成はさらに遠のくかにみえた。ところが数隻のドイツ船が英米の厳重な警戒網を突破して海路を迂回し、昭和17年11月から翌年7月にかけて日本に 到着、残りの発注品ほとんどの引渡しを果たした。しかし、資材不足のため工事は大幅に遅れ、一応設備が完成した昭和19年4月にはすでにコバルト触媒が不 足し、また、これを三井化学合成工場から輸送することが困難となっていた。さらに原料炭の品質が三池炭と異なることから採用したディディエ式ガス発生炉の 運転が順調に進まなかったことも加わって、設備の故障、手直しが相次ぎ、結局終戦まで生産は軌道に乗らなかった。
引用文献
「男たちの世紀―三井鉱山の百年」
平成二年五月発行 三井鉱山株式会社
「三井東圧化学社史」
平成6年3月29日発行 三井東圧化学株式会社
限られたリソースの中で航空燃料生産には不向きなフィッシャー法を採用したことが、日本の人造石油政策失敗の一因だと思われます。また、コバルト触媒不足 のため、日本ではほとんど採れないコバルト生産のため、商業レベルでは生産出来ない微量の含有量の鉱石を採掘、製錬することにより一部金属鉱山会社に多大 の負担をもかけています。さらにはあまり語られることはないのですが、もうひとつ「Me163」そして「秋水」の誕生が昭和19年から20年の日本の化学 工業の生産体制をズタズタにした事はよく知られていません。秋水の燃料、過酸化水素等生産のためどれだけの現用設備が転用され、新規着工したのかそれはそ れは恐ろしいものがあります。それでなくても、あらゆる悪条件のなかで生産量を落としていた化学製品の生産をさらに縮小させた使えない「秋水」、日本に とって厄病神以外のなにものでもない存在でした。