昔々ある所で、ビタミンCの含有量を実験で調べたことがある。クラスのみんなは芸が無いので蜜柑の果汁や皮の含有量を調べていたが、プリンスはその当時も貧しかったので、みんなから蜜柑の房に付いた白い筋を恵んで貰い実験を行なった。その実験結果はほとんど覚えていないが、確かほとんど含まれていなかったと思う。
 ビタミンCは人間にとって必須なビタミンであり、体内で合成されることが無く、外から何らかの形で摂取されなければならない。はるか昔、大航海時代が始まり、多くの船乗り達がビタミンCの不足からくる「壊血病」で命を落とし、日本では幕末、ロシアに備える為、蝦夷地に派遣された東北諸藩の武士達が、越冬時の生鮮野菜や果実の不足からくる「壊血病」で多くの命を落とした。
 戦時中、補給体制の不備や冷蔵設備不足などで、陸海軍を問わず、将兵が「壊血病」に罹る恐れがあった。ビタミンCは食物から摂取するのがベターであるのだが、注射や錠剤の形でも摂取できる。今回は、日本での戦前、戦中のビタミンCの化学合成と生産について紹介する。
 昭和8年(1933)、スイスのホフマン・ラ・ロシュ社(ライヒスタイン
Reichchstein)がビタミンC結晶の合成・工業化に初めて成功した。
合成の過程は
① 澱粉(塩酸を加え、加熱)
② ブドウ糖(高圧還元)
③ ソルビット(菌培養、ソルボーズ発酵)
④ ソルボネーズ(アセトン、濃硫酸で処理、ベンゾールに溶解)
⑤ モノアセトン・ソルボーズ(炭酸カリ溶液で処理)
⑥ ジアセトン・ソルボーズ(過マンガン酸カリで処理)
⑦ ジアセトン・エル・ケトグロン酸
⑧ ジケト・エル・グロン酸
⑨ ジケト・エル・グロン酸メチルエステル
⑩ ビタミンC(アスコルビン酸ともいう)
となる。(わからないのが当たり前です。)

 ロシュ社は昭和7年に日本ロシュ株式会社を設立、すべての製品について関東では田邊元三郎商店(後の東京田辺製薬)、小西新兵衛商店、鳥居商店が代理店となり、関西では田邊五兵衛商店、武田長兵衛商店(後の武田薬品)、日本薬品洋行が扱っていた。このような経緯から、田邊元三郎商店ではビタミンC製剤についても輸入することとし、アスコルビン酸結晶をロシュ社より輸入して、これを製剤化し、昭和11年7月から純ビタミン製剤「アスコルチン」として、翌8月から「アスコルチン注射液」として発売した。
 田邊元三郎商店ではビタミンCについては一括専売することを希望し、その旨をロシュ社に申し入れた。ところがロシュ社は一手販売よりはむしろビタミンC結晶の日本での工業化を逆提案してきた。当時、日本の精密化学工業は、まだ初歩的段階にとどまっており、初めからの一貫工程は無理であるため、最終工程に至る前の中間体であるエル・グロン酸の供給を受け、それを製品化してはどうかという提案であった。田邊元三郎商店は早速この提案を受け入れてロシュ社と交渉を開始し、途中からこの導入には武田長兵衛商店も参加することとなって、両社でビタミンCの生産を行うこととなった。
 当時、ビタミンCの国産化を強く望んでいたのは海軍で、遠洋航海には必須の栄養源であった。また陸軍も壊血病予防の製剤として国産化を奨励していた。このような事情を背景にして、その当時としてはきわめて珍しいといわれていた海外製薬企業との技術提携が実現することとなった。
 田邊元三郎商店は東京市足立区梅田町に土地を取得し、昭和14年11月25日から工場の稼動を開始した。当初は中間原料のジアセトン・グロン酸を輸入して、これを処理し、月産300kgのアスコルビン酸を製造していたが、翌年よりジアセトン・グロン酸の自家製造を図り実験工場を作り、ビタミンCの完全国産化の研究に乗り出した。
 スイスのロシュ社に対しては引き続きジアセトン・グロン酸を発注していた。昭和16年に入って2,000kg発注がなされ、1,500キログラムが入荷して、残り500kgの到着を待つ状態となっていたところ、開戦を迎えスイスを出発したジアセトン・グロン酸500kgは船積みのままタイに滞留することとなってしまった。この中間原料は後に海軍の斡旋で入手することができたが、戦争の勃発によって中間原料の輸入は絶望的な状態となった。しかし、この間にもビタミンCの完全国産化をめざす関係者の努力は続いていた。
 まず、澱粉メーカーと提携してソルビットの生産に目処をつけ、国産化にこぎつけた。次いでソルボーズの培養に進み、実験室での培養から開始した工程を乗り越え、ようやくジアセトン・グロン酸の精製に成功、ビタミンCの完全国産化に途を開いた。こうして一貫生産体制の見通しがつき、昭和16年に入ってから「臨時資金調整法」に基づく認可を得て資金を調達、工場増設に踏み切った。
 ビタミンCを製造する工場は月産800kg程度の生産能力を確保するよう設備し、完全国産化は昭和17年8月からスタートした。昭和17年中には月平均120kg程度の生産量で、昭和18年に入って平均月産230kgベースとなり、同年10月600kg、11月810kgとピークに達する盛況をみせた。そのころビタミンC製剤は戦時医療薬品として重要な位置を占め、梅田工場製の「エル・アスコルビン酸」も、陸軍糧秣本廠受注分を含めて、製品の約92%は軍納入分となっていた。
 この後、梅田工場から送り出されるビタミンC製剤は、昭和19年中に月産平均370kgとなり、昭和20年終戦までの月産平均は150kgだった。

 武田長兵衛商店では昭和10年4月役員が東京で開かれた合成化学の講演を聴き、ビタミンCの将来性に着目し、その研究と製造を研究部に指示した。まず合成研究と並行して、昭和11年8月から新鮮な植物からのビタミンC抽出を開始した。大根葉の粉末535gからビタミンC結晶を2.5g、柿の葉3kgから1.3gの同結晶を得た。この結晶は注射液にして昭和11年「ビタシミン」の名で発売された。
 一方、昭和11年5月からライヒスタインの合成法を追試しながら、各工程について改良が行われた。まず、バイエル社のソルビットを使ってソルボーズ発酵を開始した。しかし、昭和13年ごろにはソルビットが入手困難となったので、ブドウ糖の電解還元方式によるソルビットの製造を行なった。この電解還元法によるソルビットの製造は順調に進んだ。次にソルビットの発酵法によって得られたソルボーズにアセトンを縮合させて、ジアセトン・ソルボーズを作る工程も改良された。これを電解酸化してグロン酸を得、メチルエステルとした。これにマグネシウムによるエノール化反応を行ない、最終工程を経てビタミンCの結晶を得ることができた。このマグネシウムによるエノール化反応は独自の方法で特許登録された。
 昭和13年より大阪工場に機械設備の据付けが開始された。同年5月ジアセトン・ソルボーズ工場が完成し、以後本格的生産態勢(年産約1t)に入ったのは昭和15年5月ごろであった。太平洋戦争が始まり人員の確保並びに原料の入手が困難となり生産は思うように進捗しなかった。終戦時にも悪条件下生産は続けられていた。
 武田長兵衛商店の海外事業場「満州武田薬品工業㈱」は満州国奉天市鉄西に新工場を作り、昭和18年5月からソルビットからのビタミンCの生産を始めた。昭和18年11月には9.5kgの製品を得た。また、軍・官の強力な要請により、当時内地でもみられなかった(?)ビタミンC月産500kgの大設備計画を推進するため昭和19年1月26日満州武田VC工場建設委員会が発足した。昭和19年には第2工場が、昭和20年7月には第3、第4工場がほぼ完成した。

 田邊五兵衛商店(後の田辺製薬、田邊元三郎商店は田邊五兵衛商店から明治34年独立)は昭和18年6月、軍の要請によるビタミンC製造のため、大阪の建材鉄工場遊休施設を買収、改造して十三(じゅうそう)工場を設置した。同年末、工場の改造とともに海軍の管理工場に指定され、昭和19年4月から操業を開始した。
 ビタミンCの合成は昭和13年7月ごろから約2年間、研究室で研究していたことがあったが、発酵法による本格的な製法の研究は昭和17年12月、海軍の要望に応じて開始し、工業化の目処のついた昭和18年10月に試作に当たったものである。まったく未経験のソルボーズ発酵法であったため、操業当初は収率が悪く、製造量はごくわずかにとどまっていたが、やがて生産は軌道に乗り、昭和20年5月ころには量産の見通しを立てることができた。しかし、まもなく終戦を迎え、結局はみるべき成果を挙げえないままに終わった。

 どうも各社の協力体制もわからないし、他に製造または製造を計画した会社があったのかプリンスは知らない。それにしてもこんな話、誰も
面白くないか。

引用・参考文献
「全訂ビタミン」鈴木 梅太郎
 昭和25年11月30日発行 日本評論社
「発酵ハンドブック」財団法人バイオインダストリー協会 発酵と代謝研究会
 2001年7月25日発行 共立出版株式会社
「東京田辺製薬社史」三菱東京製薬株式会社
 2000年9月発行
「田辺製薬三百五年史」田辺製薬株式会社
 昭和58年10月発行
「武田二百年史(本編)」武田薬品工業株式会社
 昭和58年11月発行