明治34年8月31日『公衆医事』に掲載された森林太郎の麦飯の脚気予防効果を否定する「脚気減少は果たして麦を以て米に代えたるに因する乎」、下記本の著者が「支離滅裂な文、全然医学問題を論ずる文になっていない。」と評する論文なのだが、著者は日露戦争前夜といえるこの時期に書かれたのは、第十二師団軍医長として、日清戦争時の台湾での脚気惨害の責任を取り左遷されたので「抑圧し鬱積している無念の思いがにわかに沸騰して制御できなくなったにのにちがいない。」と簡単に流している。
日露戦争時、明治37年4月8日、第二軍がまだ広島に滞在していた時、第二軍軍医部長の森林太郎に、第一師団の軍医部長・鶴田禎次郎は第三師団軍医部長・横井俊蔵といっしょに麦飯の給与を森に進言したという。すなわち、「横井第三師団軍医部長と共に麦飯給与の件を森軍軍医部長に勧めたるも返事なし」(『日露戦役従軍日誌』)である。
アジア歴史資料センターでも、簡単に見られるのだが(この本で特徴的なのは日露戦争の記述に関してもアジア歴史資料センターの一次資料の引用がまったく無いことだ。)統計的にも麦飯の脚気予防効果が陸軍の資料では実際証明されているにも関わらず、イエスと答えなかった森林太郎に対し、著者は「麦飯をやりたければ、自分の師団で好きなようにやったらいいだろう。という暗黙の容認の含みもあったと思われる。」と実に好意的な書き方をしている。内地では師団の軍医部長の裁量のもと、麦飯を兵食として供していたが、そもそも兵食として正式には認められていなかった麦飯を戦地で供給することは、緒戦期には不可能であったろう。脚気の発生を見て泥縄式に麦飯の供給を始めたが、当然、供給は遅れ、麦飯が絶対的な脚気の予防効果を持たない点を合わせて、膨大な脚気による患者数と戦病死者を出した。
日清戦争前の麦飯供給による脚気の発生の激減、日清戦争台湾における脚気大発生と麦飯導入による脚気の事実上の撲滅、日露戦争前の内地師団の麦飯導入による脚気発生の抑制と麦飯の脚気予防効果は理由は分からずとも認知されていたのである。
日露戦争前夜ともいうべき時期に「脚気減少は果たして麦を以て米を代えたるに因する乎」という論文を書いた以上、森林太郎は無策の上、脚気で死んだ兵士達に対する責任の一端を持つことを決定づけたのである。