これは、かつて巣鴨プリンスに書き写したものである。いつしかそれも虚空の彼方に消えていったのであるが、今回、昨年の十一月京大の前の古本屋で入手した本の一文を付け加えて掲載したしだいである。これにより戦時中の航空潤滑油生産の大きな流れが掴まえられるのではなかろうか。
花王石鹸70年史 昭和35年11月9日発行 より
出典は工業化学会編「最近一〇年における本邦化学工業の概観(続)」
戦時中の潤滑油合成状況
(実施機関名)航空研究所
(方法概要)重合脂肪酸接触分解法
(品質)航空潤滑油規格甲合格
(実施状況概要)製品約50t製造、日本油脂尼ヶ崎工場へ移転
(実施機関名)日本油脂
(方法概要)重合脂肪酸接触分解法
(品質)航空潤滑油規格甲合格
(実施状況概要)尼ヶ崎工場完成、少量の製品を出した程度
(実施機関名)ミヨシ化学・日本発動機油
(方法概要)ヒマシ油イソブチルエステル
(品質)耐寒航空潤滑油
(実施状況概要)昭和16年、200t、漸次増加 昭和19年、1,000t生産
(実施機関名)ミヨシ化学
(方法概要)抹香アルコールナフタリン縮合法
(品質)航空潤滑油規格甲合格
(実施状況概要)江戸川工場完成、約500t製造
(実施機関名)ミヨシ化学
(方法概要)炭酸カリによる脂肪酸接触分解重合法
(品質)航空潤滑油規格甲合格
(実施状況概要)江戸川工場完成、約150t製造 岩国工場建設完了
(実施機関名)大日本油脂
(方法概要)飽和脂肪酸水添脱水-接触重合法
(品質)航空潤滑油規格甲合格
(実施状況概要)東京工場完成、約200t製造、和歌山工場完成、試運転完了、陸燃鉄西工場建設中
(実施機関名)三洋油脂
(方法概要)塩素化脂肪酸脱水素重合法
(品質)
(実施状況概要)パイロットプラントにて中止
(実施機関名)三洋油脂
(方法概要)石鹸熱分解重合法
(品質)航空潤滑油規格乙合格
(実施状況概要)愛知工場建設中
(実施機関名)陸軍燃料廠・豊年製油
(方法概要)重合大豆油接触水添法
(品質)航空潤滑油規格甲合格
(実施状況概要)豊年坂出工場完成、陸燃岩国工場試運転中、空襲被害甚大にて中止
(実施機関名)三菱化成(ライオン油脂)
(方法概要)合成高級飽和アルコール、ナフタリン接触縮合法
(品質)航空潤滑油規格甲合格
(実施状況概要)ライオン油脂平井工場、三菱化成黒崎工場建設中
(実施機関名)帝国潤滑油
(方法概要)ヒマシ油電気重合法
(品質)耐寒航潤増粘油、過熱気筒油
(実施状況概要)工場建設完成試運転中
(実施機関名)陸軍燃料廠
(方法概要)ヒマシ油電気重合法
(品質)耐寒航潤増粘油、過熱気筒油
(実施状況概要)パイロットプラントにて成功
(実施機関名)海軍燃料廠
(方法概要)脂肪酸カルシウム塩熱分解重合法
(品質)航空潤滑油規格甲合格
(実施状況概要)台湾高雄第五海軍燃料廠にて建設中
(実施機関名)油化学工業
(方法概要)スクアレン接触重合法
(品質)航潤乙合格 精密機械油
(実施状況概要)原料不足のため羽田工場建設中止
(実施機関名)第一海軍燃料廠
(方法概要)ラウリルアルコール接触脱水重合法
(品質)耐寒精密機械油
(実施状況概要)年産約1,000㍑、第一工業製薬および大日本油脂も実施準備中
(実施機関名)日本発動機油
(方法概要)ヒマシ油イソブチルエステル+ブタノール
(品質)耐寒精密機械油
(実施状況概要)年産約1,000㍑
(実施機関名)小林化学
(方法概要)不飽和脂肪酸ケトン化、接触脱カーボニル
(品質)戦車モビル油
(実施状況概要)パイロットプラント成功、工場建設中
「陸軍燃料廠史」の中に
「合成潤滑油に関する研究の一齣 中森一義」技術編・満州編P111
という一文がある。著者は陸軍燃料廠研究本部(後に陸軍燃料技術研究所)の第二課(基礎研究)の潤滑油班において合成潤滑油の製法の総括を行った期間があった。そしてそこに大筋の説明を書いている。これを全部書き写してもいいのだが、実は内容がサッパリ理解出来ないのである。
合成潤滑油の製法は大きくわけるとモノマーを作り、重合する方法と、先に重合してそれを接触的に分解する方法があった。ここではオレフィンの製造、その重合法、重合油の分解法と合成潤滑油の安定剤の順で述べる。
1、 オレフィンの製造
重合原料としてのオレフィンまたはアルコールの製造を大別すると、資源的に見て油脂とその他の炭化水素類となる、油脂は主として魚油、鯨油と蝋および植物油としての大豆、ナタネ、ヤシ、米油それにパーム油が追加された。油脂からオレフィンをとる方法は水素化法、分解法と分別法に区別される。
水素化法によるオレフィンは高級アルコール合成がすでに行われていて、ライオン油脂、三菱化成、日本油脂が知られていた。油脂またはそのエステルをCu系の触媒で高圧水素分解してそれぞれ原料に応じたC数をもったC10-C20の高級アルコールとする。このアルコールは第一アルコールで、C数からいって潤滑油の長鎖性を付加する材料として好適であり、脱水してオレフィンとするかそのまま脱水縮合の材料とすることができる。脱水反応にはアルミナが使われる。
水素化と脱水をエステルから一段で行う方法は花王石鹸で開発され、すでにパイロットの段階をすませ工業化が進行中であった。
油脂の誘導隊を非水素化で分解すると、二重結合をもったたままカルボキシル基のところから脱CO2、脱H2Oを伴って分解して、二重結合のいくらか多いオレフィンをとることができる。ミヨシ化学では工業スケールでヤシ油脂脂肪酸を分解していた。
油脂の不鹸化物を原料とするアルコールは貴重な重合原料であった。抹香蝋の鹸化蒸留で得られるオレイルアルコールを主とした成分はアルコール基と二重結合の位置がはなれており、環とくにナフタレン環との縮合アルキル化で高級な潤滑油にする効果的なプロセスがあり、ミヨシ化学で工業化された。サメ油中の不鹸化物にはスクワレンがある。これを分溜して還元したスクワランはC30程度の炭化水素で、これを重合する高級潤滑油の製法は工業化の企画が完了していた。
油脂以外の原料で重合原料になったのはオレフィンでパラフィン熱分解、フィッシャー法合成石油と頁岩油があり、塩素化パラフィンがこれに加わる。生ゴム分解は3、の重合油の水素化分解と類似した工程になる。
2、 オレフィンの重縮合
オレフィンの重合は大きくわけてルイス酸と固体酸重合にわけられる。ルイス酸として塩化アルミ主である。
ルイス酸重合に対して固体酸重合についてもかなりの成果を上げた。固体酸といっても当時手に入るものは酸性または活性白土で、石油の灯軽油の固定床接触分解で突込んだ研究がなされていた。白土によって高級アルコールを環と脱水縮合して品質のよい潤滑油が得られることは実用化の段階になっていた。
3、 重合油の分解
オレフィンにして精製し重合する方式と逆の方法として、不飽和物を重合してそれを分解精製する方法はかなりはやい時点で工業化の段階に入っていた。それは航研法といわれていた。鯨油からの不飽和脂肪酸を分別してそれを熱重合し、その重合物を反覆して活性白土で分解精製する方法である。潤滑油はほぼ満足なものが得られたが、設備器材の脂肪酸腐食が大きな欠点であった。
大豆油中のジエンとトリエンは熱重合によって共役化し、モノエンを含めてディールアルダー反応で重合し、その重合油はひまし油と配合されて耐寒潤滑油として利用されていた。豊年製油では重合にさいし。活性白土またはSO2を使用して接触重合し、それをNi触媒で2段階の水素化を行うことで工業化に入っていた。陸燃では無触媒重合して、水素化分解にNi-Cu-白土の二元系を使う方式を完成し、これも工業化に入って岩国で運転中に終戦をむかえた。
4、 潤滑油の安定剤
合成潤滑油、殊に水素化を経て合成されたものは天然系の潤滑油にくらべ外見上はむしろ清澄で遊色はなっかたが、酸化安定性に難があった。ことに酸化後の粘度上昇が大きかった。天然系の潤滑油の抽出成分は有効な防止剤として働くし、また油田の差はあるが、当時入手出来る原油とかタール系のものもその重質成分に安定剤の効果を示すものが多くあることが略わかっていた。また、種々の試みの結果チアゾール化合物に大豆リポイドを加えることで一応の成果を得たが、実用試験に入ったかどうか不明である。
(以上抜粋)
① 「日本海軍燃料史」より
航空潤滑油には溶剤精製法と合成法の2種類の製造法がある
(1) 溶剤精製法
昭和10年頃より米国において急速に発達せるものにして、パラフィン基又は混合基の天然石油を原料とし、之よりパラフィン系炭化水素より優良潤滑油を溶剤を用いて物理的に抽出分離するものである。
(2) 合成法
溶剤精製法は天然石油の保有する天与の性状及収量以上を期待し得ず。我国の如き航空鉱油を取得し得る天然資源の乏しき国土においては恵質のものを改良し、又収量を多くするため、合成法に依らなければならない。元来合成法は天然資源に乏しい独逸にて、フィッシャー法に依る合成潤滑油を製造せしより始まり、各国にても夫々種々試みられて来た。
1、 徳山工場溶剤抽出法(第三海軍燃料廠)
第1抽出工場 試運転終了 昭和15年10月
液体プロパンを用い脱瀝青(アスファルト分を除く事)及脱蝋し液体プロパン及石炭酸クレゾールを用い抽出の上真空蒸留、白土処理を行うもの
第2抽出工場 試運転終了 昭和17年6月
第1抽出工場と同力量、同形式であるが、脱蝋方式をプロパン脱蝋に代わりバリゾール式脱蝋方式を採用し、作業工程は脱瀝青、抽出脱蝋の順序とす。
真空精製装置 試運転終了 昭和15年3月
(他に廃航空鉱油、廃混合航空鉱油及廃カストル油処理装置の作業系統もある)
運転成績
(1) 国内始めての120番航空鉱油の生産に成功した。
(2) 昭和16年春頃より製品の出荷を開始し、緒戦の要望に応えた。
(3) 終戦迄の製品総生産量は約10,000竏に達し、大東亜戦争における海軍鉱油の推定消費量の凡そ60%を賄った。
(4) 本装置で生産の航空鉱油には添加剤を使用しなかった。
2、 四日市工場溶剤抽出法(第二海軍燃料廠)
第1装置(グーブロ式真空蒸留装置)
第2装置(脱瀝青、抽出)徳山工場参照
第3装置(脱蝋)
第4装置(白土精製)
運転成績
(1)昭和18年10月完成した。
(3) 年原油80,000竏処理し、2,000竏の航空潤滑油を生産(実数は不明)。
(4) 廃航空潤滑油も再生。
3、 四日市工場合成潤滑油製造(第二海軍燃料廠)
本法は精汗蝋又は粗蝋を気相熱分解してモノオレフィンを作り、これを塩化アルミニウム触媒の存在下において接触重合することにより航空潤滑油を合成するもので、バリックパパン第百二燃料廠の装置に改良を加え設計し、昭和18年5月起工、19年4月完成した。
年粗蝋20,000竏処理し、航空潤滑油4,000竏を生産(実数は不明)。
4、 新高施設合成潤滑油製造(第六海軍燃料廠)
南方より還送されるコプラの搾油をソーダ石鹸とし、之を分解して不飽和炭化水素化し、重合生成する。年産10,000竏を予定したが原料コプラの還送至難となり、1,000竏に縮小。
さらに原料コプラの還送が期待できなくなったので、重合装置の一部を利用して廃潤滑油の再生装置に利用した。
5、 高雄施設合成潤滑油製造(第六海軍燃料廠)
蝋を分解して不飽和炭化水素化し之を重合精製して航空潤滑油を生産するものであったが、この装置を一部流用し、昭和19年7月に製品日産5竏の廃鉱油再生装置の建設に着手し、これを1ヶ月で完成した。これまで廃航空鉱油はすべて内地に送り、再生していたが、台湾島内の廃航空鉱油は全部再生処理出来るようになった。
6、 バリックパパン製油所(第百二燃料廠)
航空潤滑油合成装置
粗蝋より年5,000トンの優良潤滑油を合成する装置があったが、粘度指数が優れ航空潤滑油に匹敵するので、タラカン原油(ヤパノール)より製造したブライトストックを5%混合し、安定度を改善し、航空潤滑油として南方地区に供給した。
生産量 (単位1,000竏)
昭和17年 2
昭和18年 6
昭和19年 2.5
潤滑油添加剤
航空発動機の馬力の増大に伴い潤滑油は次第に高温高圧を受ける様になり、これらの苛酷条件の下に粘度、粘度指数、安定度、炭化分、凝固点等の各性質に対する要求を一種類の油を以て同時に充たすことは困難であるから単に要求する性質を向上する添加剤が必要となった。昭和15年より航空潤滑油の酸化防止剤と油性向上剤の研究が行われ、酸化防止剤としてはトリクレジルホスファイトとトリクレジルホスフェートの混合物は天然鉱油に対し実用された。
②「ミヨシ油脂株式会社史」
昭和41年4月発行 より
ミヨシ石鹸工業末期には、耐寒潤滑油、航空潤滑油の製造を、海軍だけでなく陸軍からも発注されるようになる。ミヨシで生産したのは動植物性潤滑油だが、原料はおもにヒマシ油抹香鯨油であった。ヒマシ油による潤滑油は、ヒマシ油脂肪酸をメチルアルコールでエステル化し重合したのち、大豆油を配合して粘度を調整したものである。また抹香アルコールによる潤滑油は、アルコールを脱水してオレフィンとし白土重合分解したものである。
昭和一七年頃には、さらにヤシ油、パーム油を原料とする潤滑油の生産が始まる。後に述べるが、この潤滑油はまず油をウムエステルし、蒸留分別して高級アルコールとし、これをオレフィンにして白土重合分解したものである。当時(一七年頃)ミヨシでは川村修二が塩化アルミを触媒とするオレフィンの重合に成功し、これによる航空潤滑油の製法も完成していた。川村はこの研究によって学位を得(一九年)、陸軍技術有功賞を授与されている。
ミヨシ化学興業は岩国工場で年間三万トンの航空潤滑油を生産する計画を立てた。潤滑油製造にともない副産するものとして、コプラ粕六万五〇〇〇トン、石鹸一万六〇〇〇トン、切削油八〇〇〇トン、グリセリン一万五〇〇〇トン、モービル油および人造ガソリン六万トンであった。これだけの生産がスムーズにいけば原料コプラは年間二五万トン処理されるはずであった。
岩国工場における航空潤滑油は、江戸川工場の潤滑油がヒマシ油と抹香鯨油を原料としていたのにたいし、ヤシ油、パーム油を原料とするものであり、ヤシ油については工場の建設と併行してパイロットプラントによる研究をすすめた。ヤシ油を高級アルコールに還元してから潤滑油にするのであれば、抹香アルコールの工程と同じに考えて差し支えないが、ミヨシ化学興業では、還元には高圧技術と設備が必要なので、なるべく高圧を使わず、ほかの方法を探究することに努力した。ミヨシ独自の方法は、アルカリ塩を触媒としてヤシ油脂肪酸からオレフィンをつくり、ついで塩化アルミで重合し、脱塩後、軽質分を蒸留分別しようというもので、これはたしかに野心的なプランであった。
だがこのような大規模のプランは、日本の強大な軍事力を背景として、南方の資源が永続的に確保されることを前提としたものである。ところがその軍事力も、一九年の前半には破綻の決定的な段階を迎えていた。そのため設備と大量のヤシ油を準備したまま、岩国工場はついにその機能を停止しなければならなかった。岩国工場にかけられた期待は実を結ばなかったのである。
昭和6年頃、館山、追浜、霞ヶ浦などの海軍基地には、膨大な廃ヒマシ油が手をつけられないまま貯蔵されていた。「ミヨシ石鹸工業」の研究室ではその再生が研究された。廃ヒマシ油を硫酸処理して静置すると、汚物が沈殿して、表面にかなり透明なヒマシ油が浮いてくるのであるが、この処理でできた再生ヒマシ油では、摂氏二三五度まで温度を上げるとすぐに引火してしまうのである。海軍の納入規格は発火点二四五度以上であった。石油工業におけるトッピング(常圧蒸留)装置のようなものがあれば、引火点のひくい分解生成物を除去することは容易であったが、そうした設備をととのえてこれにとりかかることは、資金面での負担が大きすぎた。既存の設備によって完全な潤滑油の再生が試みられた。昭和8年硫酸処理ののち静置し、分離したヒマシ油部分に蒸気を吹き込んで微量のガソリンを放出し、その上でフィルターをかける方法をつきとめた。
ミヨシ化学興業では江戸川工場において動植物性(ヒマシ油、抹香鯨油)油脂を原料とする耐寒潤滑油、航空潤滑油の製造も行った。
③ 「ライオン油脂の60年史」
昭和54年12月20日発行 より
航空潤滑油の開発の要望は開戦と同時に陸軍からよせられた。鉱油系潤滑油に代わる潤滑油の開発を、南方油脂資源である椰子油あるいはパーム油を利用して行なえ、という命令であった。当社はすでにそれ以前から抹香鯨油から高級アルコールを抽出して航空潤滑油を製造しようと企てていたが、成功にいたらなかった。そこであらためて椰子油の利用化をはかるため、東京大学桑田教授の指導と協力を仰いだ。
昭和17年、パーム油を高圧還元して得られる高級アルコールとナフタレンを、活性白土を触媒として、縮合反応させたのち分溜した。この方法で得られた潤滑油が、もっとも酸化安定性がすぐれており、その他の諸性能もおおむね良好で、しかし収率がかなり高いという特性を示した。
この研究が比較的短時日のうちに完成した裏には、昭和15年に資本提携した日本化成工業の技術陣の参画があった。とくに高圧処理には多大の技術的貢献を果たした。これは提携の実を示した一つであった。
この航空潤滑油は昭和17年末、陸軍および海軍の航空潤滑油規格に合格した。当時油脂加工工場の多くがやはり軍の要請で航空潤滑油の開発製造に動員されていたが、当社のものは試験の結果、そのどれよりも安定性においてすぐれていた。また戦前の世界の航空潤滑油の標準であったテキサコエアプレーン#120航空潤滑油にも、十分匹敵する性能を有することが示された。
ここに当社の開発した合成航空潤滑油は軍に採用されることが決定、海軍より平井工場(東京)に生産設備を建設するよう、建設前渡金として400万円が支給された。(陸軍からも生産の要請があった。)なお、研究開始以来航空潤滑油に要した総費用は約40万円であった。
18年になって海軍は当社に対し、平井工場あげて機械油生産工場にするよう命令、翌19年同工場は海軍の管理工場、皇国第2828工場に指定された。
海軍は、航空潤滑油製造用の高圧反応塔や余熱塔および高圧・減圧・分離塔に日本製鋼所室蘭工場で製造され、不用となった戦艦用の砲身(径36cm)を提供した。砲身は室蘭より運搬され、大谷重工業で手を加えたうえ、、平井工場に設置されたが、運転開始を待たず20年3月20日の空襲で焼失した。その他の工事は資材不足や空襲による頻繁な中断などの悪条件と戦いながら突貫工事で進められ、縮合反応塔およびトッピング装置までは完成したが、結局、未完成で終戦を迎えた。
このように性能的にはきわめてすぐれ、期待された航空潤滑油ではあったが、不運にも実用に供されることなく終った。
④ 「日本油脂三十年史」
昭和四十二年六月一日発行 より
当社の航空機用潤滑油生産の端緒は、昭和12年ごろまでさかのぼる。当時、東京帝国大学航空研究所において、動植物から航空機用潤滑油を製造する研究で永井雄三郎博士の手で完成し、その工業化について当社に相談があった。当社では、早速相当な金額を同研究所に寄付して試験工場をつくり、その製品を陸海軍に試験してもらったところ、非常に優秀な製品であることが証明された。
日本には米国のように上質の石油資源がなく、ここにまったく日本独特の動植物からの潤滑油の生産がもくろまれたのである。
この製造方法の概略は、まず動植物油脂(主として使われたのは鯨油)から硬化油をつくり、これをリスリンと脂肪酸に分解したのち、この脂肪酸のうち潤滑油に適するものだけを蒸留作用によって採取し、これに活性白土を分解剤として応用してクラッキングを行ない、まず潤滑油原料を得る。この粗製潤滑油を溶剤抽出法で活性白土と分離し、これに高圧水素添加を行なうと、航空機用潤滑油ができるのである。
製法にみても分かるとおり、この新製品の製造は油脂工業の総合的な技術を必要とし、当社の長年の経験と技術がここに生かされることになった。試験段階におけるパイロットプラントは航空研究所につくられてあったが、これに協力すべく兵庫工場内に原料に関するパイロットプラントをつくり、その原料を航空研究所に運んで分解にかけるという形で、昭和13年~14年ころに試作研究が行なわれた。ここでつくられた製品は陸海軍の品質テストを受け、その結果、当時輸入品の最高級といわれたテキサコ120番と遜色のない優良品という折紙がつけられ、これは当然軍関係の注目を浴びることになった。
航空機用潤滑油事業の将来性に着目した当社では、昭和14年7月、この事業を担当する部門として、油化部を新たに設け、積極的な体制をととのえたのであった。
こうして昭和16年3月、当局との間に油化工場新設の計画がまとまり、用地は尼崎工場の敷地をあてることに決定して、同工場内に臨時建設部が設けられたのであった。第一期工事の計画は、海軍工場と陸軍工場とを同規模でつくり、合計して年間3万トンの原料消化能力を持つ工場とし、第三期工事完成の暁には、年間原料消化能力10万トンの工場になるはずであった。昭和16年5月、地鎮祭が行われて第一期工事は着手され、昭和17年末までの完成を目ざして急ピッチの建設が始まったのであった。
当初昭和17年中に完了を予定した第一期工事は、突貫工事につぐ突貫工事のあげく、ようやく昭和18年半ばに試運転開始の段階にこぎつけたのであった。その遅延が半年間であり、着工から約2年間で竣工の段階を迎えたことは、当時の事情と新工場の規模とを考え合わせるならば、むしろ驚くべき速さであったということがいえよう。
潤滑油の生産状況は、昭和18年末にはそろそろ試作品が出るようになり、19年6月初めて完成品の出荷が行なわれたのであった。しかし、戦況の悪化は工場を空襲下にさらすことになり、ようやく本格的生産の段階を迎えながら、20年春の出荷を最後に、以後はほとんど生産らしい生産を行なえない状態におかれたのであった。
⑤ 「北海道人造石油株式会社留萌研究所における
石炭液化の技術開発
-北海道人造石油株式会社小史Ⅱ-」
村田武雄 1985
「北海道人造石油留萌研究所の軌跡 高橋明雄」
留萌市海のふるさと館 紀要第6号 1995 3 より
留萌工業所は天塩炭田の石炭を主資源として滝川よりは一歩進んだ方法で石油を合成する。即ち計画としては1年に36万トンの石炭を購入し、これを直接耐圧ガス化炉に投入し、12気圧の酸素を送入して不完全燃焼を行はしめ、低温タールを回収しその他の有機物はすべてガス化し、灰分は溶融状態でガス発生炉の底部から排出させる方式のものであった。これはドイツのルルギ法で生産粗油予定約60,000竏/年。
・ 揮発油分は滝川と同じで直ちに市販とする。
・ 揮発油より軽いガゾール部分は、滝川の分を合わせて分解や異性化を行なって、重合、水素添加を行ない高オクタン航空揮発油を仕上げる。
・ 滝川で商品化されなかった重質の油や、ガス化炉から出る低温タールや、商品に不適の蝋分や、合成油の特定部分等は適宜分解蒸留にかけ、適当部分は水素添加して良質の揮発油とする。
・ 特定溜分の分解蒸留により得られる不飽和炭化水素は重合精製して優良なる航空潤滑油を製造する。
・ その他の関連石油化学品を製造する。
予定であった。
昭和13年8月31日商工省人造石油課長、海軍省軍需局職員が工場設置の条件調査を行ない、翌14年4月4日留萌液化工場地鎮祭を行なっている。また同年6月7日研究所の起工式を行なった。15年10月9日には北海道人造石油留萌研究所の開所式を行ない、16年1月同年度工事計画を発表した。研究所以外の工事に関しては、資材不足のことからのびのびになっていたが、同年度は雪どけから約1ヵ年の予定をもって本格的工事に入った。(中型試験の合成工場は作られたが工場は遂に建設されなかった)
当初の計画では合成一貫工場をめざしていたが、方針の変更で航空潤滑油生産に主目的を置いた。航空潤滑油を作るD3工場、オクタン価向上材の製造をめざすD4工場などがあり、これらは共に中間試験工場と呼ばれていた。D3工場ではルアー・ヘミー社の技術に、種々の改善を加えていった。原料油を滝川工場より運び込み、加圧合成油を稀硫酸洗浄し、塩化アルミニウムを触媒として重合、その後に脱塩素工程を加え真空蒸留すれば潤滑油になる。
研究所第二課においては粘度指数113位の航空潤滑油を製造した。昭和18年4月30日陸軍納めドラム缶2本を初出荷、12月にはドラム缶5本、19年4月には2竏を出荷した。
中間実験室においては粘度115秒/210F指数113のものが試製され実用に供された。
⑥ 「日本石油百年史」より
下松製油所航空潤滑油製造装置の建設
航空潤滑油は使用条件が巌しく、従来の精製法では生産不可能であったことから当社は昭和13年9月26日、下松製油所にBK脱ろう装置(溶剤としてベンゼンとアセトンを使用)とフルフラール溶剤抽出装置ならびに白土コンタクトリラン(濾過)装置を組み合わせた航空潤滑油製造装置の建設を決定(BK脱ろう装置はわが国最初であり、フルフラール溶剤抽出装置は朝鮮石油に次ぎわが国2番目である。)14年度に着工した。同装置は建設資材確保難から予定より1年以上遅れて16年2月竣工をみた。完成時の能力は、BK脱ろう装置が40kl/日、フルフラール溶剤抽出装置が50kl/日、白土コンタクトリラン装置が30kl/日であった。
⑦ 「昭和石油三十年史」
昭和49年8月20日発行より
早山石油
川崎製油所
パリゾール式溶剤脱蝋装置 1基 能力 2万6,709kl/年
コンタクトリラン装置 1基 能力 2万9,700kl/年
デュオゾール式溶剤精製装置 1基 能力 4万9,608kl/年
(新津石油は新潟県の小製油所を統合したうえ旭石油、早山石油と合同して昭和17年8月に昭和石油を発足させた。)
⑧ 「日本油脂三十年史」
昭和四十二年六月一日発行 より
当社の航空機用潤滑油生産の端緒は、昭和12年ごろまでさかのぼる。当時、東京帝国大学航空研究所において、動植物から航空機用潤滑油を製造する研究で永井雄三郎博士の手で完成し、その工業化について当社に相談があった。当社では、早速相当な金額を同研究所に寄付して試験工場をつくり、その製品を陸海軍に試験してもらったところ、非常に優秀な製品であることが証明された。
日本には米国のように上質の石油資源がなく、ここにまったく日本独特の動植物からの潤滑油の生産がもくろまれたのである。
この製造方法の概略は、まず動植物油脂(主として使われたのは鯨油)から硬化油をつくり、これをリスリンと脂肪酸に分解したのち、この脂肪酸のうち潤滑油に適するものだけを蒸留作用によって採取し、これに活性白土を分解剤として応用してクラッキングを行ない、まず潤滑油原料を得る。この粗製潤滑油を溶剤抽出法で活性白土と分離し、これに高圧水素添加を行なうと、航空機用潤滑油ができるのである。
製法にみても分かるとおり、この新製品の製造は油脂工業の総合的な技術を必要とし、当社の長年の経験と技術がここに生かされることになった。試験段階におけるパイロットプラントは航空研究所につくられてあったが、これに協力すべく兵庫工場内に原料に関するパイロットプラントをつくり、その原料を航空研究所に運んで分解にかけるという形で、昭和13年~14年ころに試作研究が行なわれた。ここでつくられた製品は陸海軍の品質テストを受け、その結果、当時輸入品の最高級といわれたテキサコ120番と遜色のない優良品という折紙がつけられ、これは当然軍関係の注目を浴びることになった。
航空機用潤滑油事業の将来性に着目した当社では、昭和14年7月、この事業を担当する部門として、油化部を新たに設け、積極的な体制をととのえたのであった。
こうして昭和16年3月、当局との間に油化工場新設の計画がまとまり、用地は尼崎工場の敷地をあてることに決定して、同工場内に臨時建設部が設けられたのであった。第一期工事の計画は、海軍工場と陸軍工場とを同規模でつくり、合計して年間3万トンの原料消化能力を持つ工場とし、第三期工事完成の暁には、年間原料消化能力10万トンの工場になるはずであった。昭和16年5月、地鎮祭が行われて第一期工事は着手され、昭和17年末までの完成を目ざして急ピッチの建設が始まったのであった。
当初昭和17年中に完了を予定した第一期工事は、突貫工事につぐ突貫工事のあげく、ようやく昭和18年半ばに試運転開始の段階にこぎつけたのであった。その遅延が半年間であり、着工から約2年間で竣工の段階を迎えたことは、当時の事情と新工場の規模とを考え合わせるならば、むしろ驚くべき速さであったということがいえよう。
潤滑油の生産状況は、昭和18年末にはそろそろ試作品が出るようになり、19年6月初めて完成品の出荷が行なわれたのであった。しかし、戦況の悪化は工場を空襲下にさらすことになり、ようやく本格的生産の段階を迎えながら、20年春の出荷を最後に、以後はほとんど生産らしい生産を行なえない状態におかれたのであった。
⑨ 「宇部興産創業百年史」平成10年6月発行より
宇部油化工業は、昭和18年になってタール蒸留設備、油洗浄設備と自家発電所、それに当局から新たに指示を受けた潤滑油設備とルルギ式乾留炉1基を完成させた。
終戦の日までに航空機用ガソリンは皆無、自動車用ガソリン7,000kl、高級潤滑油1万ドラム、副生硫安6,000トンを生産したにすぎなかったとみられる。
(高級潤滑油が航空潤滑油に該当するのかは今のところ私には分かりません。)
⑩ 「五十年史」 日本鉱業株式会社
昭和32年10月31日発行より
船川製油所は、減圧蒸留装置のほか、石油2次製品たる潤滑油製造装置をも併有しなければ完全な形態とはいえないので、船川においても同装置設置の研究を進めていた。
当時、潤滑油は、航空機の急速な進歩に伴い、航空燃料とならんでますます高性能を要求されるに至ったので、当社は、これに応えるべく大船第1海軍燃料廠に技術者を派遣し、合成潤滑油製造の研究に当らせた。これとともに、昭和18年4月、日産化学工業株式会社の吸収合併により当社の一翼となった化学部門の参加を得て、旧日産化学王子研究所において、雄物川原油からの航空潤滑油製造について研究を行った。しかし、同装置の実現は、戦局の苛烈化のため、終戦後のこととなった。
⑪ 「陸軍燃料廠史」から、
1、 岩国溶剤抽出装置(陸軍燃料廠第一製造所)
甲九号の一 バッジャー式真空蒸留装置 能力480kl/d
甲九号の二 デュオソール式溶剤抽出装置 能力320kl/d
甲九号の三 バリゾール式脱蝋装置 能力240kl/d
甲九号の四 コンタクト再蒸留装置 能力160kl/d
(甲三号 水素添加分解装置も利用可能)
昭和19年7月の処理概要を見ると、ロデッサ原油(重質)8,000klから航空潤滑油360klが取得できるとある。
2、 岩国合成潤滑油製造装置(陸軍燃料廠第一製造所)
甲五十三号の一 パラフィン熱分解装置 能力150kl/d
甲五十三号の二 オレフィン重合装置 能力100kl/d
甲五十三号の三 コンタクト再蒸留装置 能力 64kl/d 未完成
全ての装置が完成し、材料等が満たされれば1年間に抜頭原油(軽質分を除いた原油)120,000klとパラフィンワックス30,000tから航空潤滑油15,000kl取得可能。
3、 錦西合成潤滑油製造装置(四平陸軍燃料廠錦西製造所)
大豆油硬化油の水素添加によるα‐モノオレフィン製造。α‐モノオレフィンの塩化アルミニウム重合及びコンタクトリランによる航空潤滑油製造。
丙151号 高圧水添工場、硬化油の溶融工場、高圧縮空気工場と計器室
丙152号 粗蒸留工場、減圧白土接触再蒸留装置
丙153号 重合工場、成品タンク群とポンプ室
終戦時90%完成
⑫ 東亜燃料工業の社史
「東燃三十年史〈上巻〉」
昭和46年6月30日発行 より
清水工場溶剤抽出装置
清水工場では高級潤滑油、航空潤滑油の製造を行うことになったので、その事業計画を昭和16年7月に商工大臣に提出し、同年10月石油業法により許可を得た。
真空蒸留装置 320kl/d 昭和19.11運転開始
デュオソール溶剤精製装置 160kl/d 未着工
アセトン・ベンゾール溶剤脱蝋装置 80kl/d 終戦前未稼動
コンタクト・リラン装置 80kl/d 昭和18.12本運転開始
年間予定生産量は5,000 klだった。
また、和歌山工場から得られるパラフィンを原料とするパラフィン分解重合装置(120kl/d 昭和18.5建設許可)、第2真空蒸留装置(400kl/d 昭和19.1建設許可)、第2コンタクト・リラン装置(160kl/d 昭和19.1建設許可)の建設が計画されたが、いずれも未着工に終わった。さらに昭和19年、和歌山工場で完成間近に迫った96式水添諸装置を利用してゴム水添を行い、航空揮発油、航空潤滑油を製造する計画が生まれた。揮発油も、潤滑油も、軽油に生ゴム20%を溶解したゴム溶解油を96式水添の反応筒の送り、ニッケル触媒を加えて、水素水添することによって製造する計画であった。潤滑油の場合は水添油を重合釜の張り込み、塩酸アルミニウム触媒を加えて重合させ、さらにろ過した後、真空蒸留装置にかけて重質、軽質の潤滑油に分溜することになっていた。しかし、水添装置の不備から生産はならなかった。計画では航空潤滑油を年間6,000kl生産することになっていた。
⑬丸善石油の社史
「35年のあゆみ」
昭和44年11月発行 より
下津製油所溶剤抽出装置
デュオソール溶剤精製装置 1,000バーレル/d 昭和16.9完成
バリゾール式溶剤脱蝋装置 300バーレル/d 昭和15.9完成
白土接触再蒸留装置 500バーレル/d 昭和15.10完成
デュオソール溶剤精製装置はわが国初の建設であり、特許および装置の主要部分は米国から輸入し、資材については、当局からの特別配給を受けたので、工事は順調に進捗した。かくして、当社は、航空潤滑油や艦船用タービン油の生産に全力を集中した。
「油屋物語 松村石油五十年史」
昭和三三年三月二〇日発行 松村石油株式会社より
昭和一五年九月、タルサ(米国オクラホマ州)世界石油会議が開かれた。先ず入手したいと考えたのはデュオソール装置であった。これはいわゆるデュオソール法即ち特定の溶剤を用いて潤滑油を精製する装置であって、これによって精製すると、粘土指数のよい潤滑油が作られる。普通は、アスファルト成分、芳香族成分、及びナフテン成分の溶剤として、フェノールとクレゾールの混合物が用いられ、パラフィン系成分の溶剤としてプロパンが用いられる。この装置を購入したのは、危機一髪という所であった。やっと最後の便船に積み込んで日本へ送り、一六年の九月下津製油所に備え付けた。
それから次に入手したいと考えたのは、航空潤滑油として効率のよいコットン・ヴァレー原油であった。これはポッター商会から購入することができた。思い切って一〇万klの購入契約をした。実際どれほど日本に渡るかわからないと思ったからである。これは予想した如く、全部は来なかったけれども、戦争直前に多量に入荷し、これを用いて航空潤滑油を作った。終戦後まで原油タンクにはたくさん残っていたほどであった。
昭和一四年から一五年にかけて新設された生産設備の主なものろして廃油再生の鶴見油脂があった。航空潤滑油は、原油から作ると二%ほどしかとれない。それも原油が豊富に入手できる時には、この原油から少しずつでも沢山作ることができる。しかし、石油事情が悪化して来た今となっては、既に原油だけに頼っているわけには行かなくなってしまった。何とかして非常手段を考え出さねばならぬ。そこで思いついたのが、一度航空機に使って廃油となった潤滑油から再生することであった。これは大成功であった。原油からだと二%しかとれない航空潤滑油が、この廃油から再生すると五〇%もとれるのである。
⑭「味の素」の社史
「味をたがやす-味の素八十年史-」
平成2年7月14日発行 より
軍需産業に関連するものに、いま一つ日本特殊油製造株式会社がある。これは電解工場(川崎、食塩を電気分解する。元々は大豆を塩酸で分解し味の素を製造する。)の副産物の塩素を利用して航空機用の潤滑油を生産する計画で昭和17年9月に設立されたものである。当時、すでに航空機の潤滑油の輸入は途絶していた。そこで、日本石油との共同出資で資本金500万円の同社を設立したわけである。日本石油から供給されるパラフィンに塩素を作用させて高級潤滑油を製造、軍に納めるという計画である。工場は電解工場に隣接して建てられ19年8月から操業が開始された。しかし、これも資材や原料不足で少量が生産されたにとどまった。
⑮「三菱化成社史」三菱化成工業株式会社
昭和56年6月1日発行 より
昭和19年、当社は陸軍から植物油を原料とする航空機用潤滑油製造の要請を受けた。植物油に水素およびナフタリンを添加することによって潤滑油の生産は可能であるが、航空機に使用される高級潤滑油の製造にはさらに高度な技術が要求されるため、かねてからライオンと共同研究を進めていたもので、翌年4月完成を目標に19年夏から建設工事を開始した.しかし、工事中途で終戦を迎えたため、潤滑油計画は打ち切られた。
補足・潤滑油添加剤マイクロンについて
近時航空発動機の急速なる進歩に伴い、之に使用せらるる潤滑油は、高温高圧の状況に於いて強靭なる油膜を有することが要求され、従来の一般的潤滑油では之に応ずることが出来なくなった。之が為め米国に於ける多くの石油会社は此處数年間此の目的を達成するため、研究の結果、潤滑油への添加剤(Addition Agent)を発明した。此の添加剤を極少量混合すると其の鉱油本来の性状を失うことなく更に次記の如き利点を生ずる。
(ⅰ)油膜の強さを約3-4倍増大する。
(ⅱ)摩擦係数の減少により滑動部分の磨耗が減少し得られる(或る機械では測定した結果摩擦係数が30%減少した)。
(ⅲ)運転中の滑油温度が低下する。
(ⅳ)高温度に於て高圧に耐え得る。
(ⅴ)スラッジを溶解する性質を有するから発動機内にスラッジが溜まらない。
以上の如き添加剤を混入せる潤滑油をライト航空機会社では,サイクロンG型発動機の指定潤滑油として選定せられ、Texaco Airplane Oil 120 F, Gargoyle Aero Mobile I.A.A
.-71.等は此の類に属する。
「航空発動機の整備と運転法」畠山義三郎 加藤健次
昭和15年11月20日発行 工業図書株式会社 より