最近、世間では相も変わらず零戦の色があ~だこ~だと議論されているようだが、失業者にとってはどうでもいいことだ。(そういえば昔、戦前の色見本付きの塗料の参考書を私から無期限で取り上げた方は栄転なされたと風の噂で聞きました。)今日より就職サイトを見るとの事でPCの使用許可が出る。実に喜ばしい限りである。まあ、ここに書くような受けない話なら探せば何かしら出てくる。
昔、航空燃料に命を賭けていた頃「イソオクタンをつくる」などと書き連ねてきたが、今日の話は「イソオクタンをつくらなかった」という話である。
日本独自(というより欧米がどうだったのかは全く知りません)と言われる発酵ブタノールからのイソオクタン製造、量的は大したものではなかったが実に貴重なものだった。
実際に製造されたのは合同酒精の北海道旭川工場だけだったが、日本だけではなく台湾を主に多くの製造計画が立てられた。中でも国内最大のプラントがここであった。
北海道では原料面、気象条件などいずれをみても大量の航空燃料を生産するには条件が悪すぎるため、新しい立地を探す必要が生じた。そのころ東洋紡績からの防府(山口県)をソルベントとイソオクタンの生産工場に転換したい旨相談を受けた。昭和18年3月31日、東洋紡績は工場を合同酒精は技術を出し合って「東亜化学興業㈱」が創立された。
イソオクタン6万kl生産工場建設の第一次計画は、ソルベント100kl/日(年産2万kl、2系列)、400kl発酵槽(別称2,000石タンク)48基、50kl蒸煮缶16基、4kl種母槽16基、4.5kl種母用蒸煮缶4基、粉砕機14台、蒸留器一式2基の設備の新設だった。その後の第2次計画ではジャワ島における合同酒精担当のブタノールを防府工場に運び、これからイソオクタンを生産することになった。
防府工場は完成すればわが国最大の発酵工業設備となり、その原料には南方占領地からの砂糖を使用とする雄大な計画であった。工場は18年3月東亜化学興業の設立と同時に着工された。
原料の砂糖は台湾から門司港に入荷して、陸上輸送のほか小型船で三田尻港に続々と運ばれていた。砂糖荷役のための徴用工はすでに数百名にのぼっていた、さらに、広島高工の学徒勤労隊と防府商業、防府高女の専修科学生など男女それぞれ30名ほどが動員された。男子勤労隊は砂糖の工場内横持ち運搬などに当たり、女子挺身隊は砂糖袋の残糖を竹のササラで落とす作業や袋の整理をするなどした。
第1回の仕込み開始は昭和19年3月であり、待望のブタノールは4月17日にようやく産出された。
イソオクタンの合成部門の建設資材は発酵部門に比べて高品位のものが要求され、入手には困難を極めた。このため、初めてブタノールが産出された時点での工事の進行度は、5割にも達していなかった。
昭和19年の半ばになると戦局は一挙に悪化し、南方からの原料砂糖の入荷もおぼつかなくなっていた。
昭和19年8月23日、東亜化学興業に防府工場の生産計画を中止し、無水アルコールの生産に変更するよう軍からの通告があり、9月1日には軍需大臣から正式に無水アルコール製造委託指令があった。このため11月1日イソオクタンの合成設備の火入れ式が挙行されたものの、肝心のイソオクタンの産出には至らなかった。
無水アルコール製造へ転用されるまでの東亜化学興業防府工場のソルベント生産量は、ブタノール225kl、アセトン61klであり、これらはすべて軍需用として納入された。その後設備は無水アルコール製造へ転用された。
終戦時における工場の砂糖在庫は7,965トンである。
引用文献
「それからそれへ-協和発酵50年の軌跡と新世紀への礎」協和発酵株式会社
平成12年9月発行