昭和14年9月第2次世界大戦開戦後、アジアからの物資輸送の道を断たれたドイツはドイツ運送会社ハマハー代表の申し入れにより昭和15年当初より約1年半満鉄のシベリア鉄道経由欧亜連絡輸送を復活実施させた。ドイツ運送会社よりの大連・北朝鮮方面から満州里経由連絡輸送申し出に満鉄が応じたものである。ベルン協約(大正年間にドイツ・フランス・ソ連諸国及び旧北満鉄道と東側鉄道省、朝鮮鉄道、満鉄等間に合意締結された)上は「満・鮮」管内で運送を引き受けたソ連鉄道への直接連絡運輸が可能の建前であったが、当時のソ連はドイツと不可侵条約を結んでいたものの、「満州国」未承認の問題がからみ、かつソ連鉄道満州里駅側の不慣れなどを理由に直通連絡運送を拒絶したため、満鉄はドイツ向け貨物を満州里駅まで送り、ドイツ運送会社駐在員の手により託送替えを実施する方法によった。ソ連貨車への人力による積み替えの非能率打開のため、大連埠頭設備の大型ガントリークレーンを急ぎ解体輸送して満州里駅に据え付け、積み替え作業の効率化をも図ったが、その後16年6月独ソ戦勃発により、この連絡輸送も廃止となった。
これらの輸送により日本側から送られた貨物の内容は分かるのだが、ドイツ側から送られた工業製品特に機械類について書かれた記述はほとんど見ることがない。今回、兵器生産とはまったく関係がないが、その一端を垣間見る資料からこれを書き写す。

中国での落花生(ピーナッツ)生産は盛んで、大正年間より三菱商事青島支店扱いで欧米向け輸出が盛んに行われていた。「日支事変」以後輸出リンク制の実施により(海外貿易決済の為)、さらには「中支」・「南支」(落花生の産地である)を支配下に置くことにより落花生の取扱高は著しく増進した。昭和15年5月、落花生取引をさらに効率化するため、青島支店は油坊(粗油の精製工場)構内に搾油工場を新設することになった。独国三菱商事に依頼してクルップ社製エキスペラー(連続搾油機)4台を発注、独ソ開戦前にシベリア経由で無事到着し、よく16年9月最新鋭搾油工場が完成した。新鋭機の効果は絶大で、高能率のため、採算は非常によく、他社からの委託加工も引き受けた。

これにより生産された「落花生油」もまた満州で生産された「大豆油」と共に柳船でドイツに送られたと思われる。
昭和15年 三菱商事青島支店落花生取扱高
欧米輸出分
落花生油 6,328トン 247万9千円
落花生実 3,557トン 84万5千円

参考まで
1941~1942 ドイツ向け柳船還送量
油脂(大豆油、鯨油etc)油脂用種実(大豆) 30,096トン

引用文献
「忘れえぬ満鉄」
昭和63年7月25日発行 世界文化社
「三菱商事社史 上卷」
昭和61年発行
「AXIS BLOCKADE RUNNERS OF WORLD WAR Ⅱ」
MARTIN BRICE   Navel Institute Press