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イソオクタンをつくる、その4

 最近、世間では相も変わらず零戦の色があ~だこ~だと議論されているようだが、失業者にとってはどうでもいいことだ。(そういえば昔、戦前の色見本付きの塗料の参考書を私から無期限で取り上げた方は栄転なされたと風の噂で聞きました。)今日より就職サイトを見るとの事でPCの使用許可が出る。実に喜ばしい限りである。まあ、ここに書くような受けない話なら探せば何かしら出てくる。
 昔、航空燃料に命を賭けていた頃「イソオクタンをつくる」などと書き連ねてきたが、今日の話は「イソオクタンをつくらなかった」という話である。

 日本独自(というより欧米がどうだったのかは全く知りません)と言われる発酵ブタノールからのイソオクタン製造、量的は大したものではなかったが実に貴重なものだった。
実際に製造されたのは合同酒精の北海道旭川工場だけだったが、日本だけではなく台湾を主に多くの製造計画が立てられた。中でも国内最大のプラントがここであった。

 北海道では原料面、気象条件などいずれをみても大量の航空燃料を生産するには条件が悪すぎるため、新しい立地を探す必要が生じた。そのころ東洋紡績からの防府(山口県)をソルベントとイソオクタンの生産工場に転換したい旨相談を受けた。昭和18年3月31日、東洋紡績は工場を合同酒精は技術を出し合って「東亜化学興業㈱」が創立された。
 イソオクタン6万kl生産工場建設の第一次計画は、ソルベント100kl/日(年産2万kl、2系列)、400kl発酵槽(別称2,000石タンク)48基、50kl蒸煮缶16基、4kl種母槽16基、4.5kl種母用蒸煮缶4基、粉砕機14台、蒸留器一式2基の設備の新設だった。その後の第2次計画ではジャワ島における合同酒精担当のブタノールを防府工場に運び、これからイソオクタンを生産することになった。
 防府工場は完成すればわが国最大の発酵工業設備となり、その原料には南方占領地からの砂糖を使用とする雄大な計画であった。工場は18年3月東亜化学興業の設立と同時に着工された。
 原料の砂糖は台湾から門司港に入荷して、陸上輸送のほか小型船で三田尻港に続々と運ばれていた。砂糖荷役のための徴用工はすでに数百名にのぼっていた、さらに、広島高工の学徒勤労隊と防府商業、防府高女の専修科学生など男女それぞれ30名ほどが動員された。男子勤労隊は砂糖の工場内横持ち運搬などに当たり、女子挺身隊は砂糖袋の残糖を竹のササラで落とす作業や袋の整理をするなどした。
 第1回の仕込み開始は昭和19年3月であり、待望のブタノールは4月17日にようやく産出された。
 イソオクタンの合成部門の建設資材は発酵部門に比べて高品位のものが要求され、入手には困難を極めた。このため、初めてブタノールが産出された時点での工事の進行度は、5割にも達していなかった。
 昭和19年の半ばになると戦局は一挙に悪化し、南方からの原料砂糖の入荷もおぼつかなくなっていた。
 昭和19年8月23日、東亜化学興業に防府工場の生産計画を中止し、無水アルコールの生産に変更するよう軍からの通告があり、9月1日には軍需大臣から正式に無水アルコール製造委託指令があった。このため11月1日イソオクタンの合成設備の火入れ式が挙行されたものの、肝心のイソオクタンの産出には至らなかった。
 無水アルコール製造へ転用されるまでの東亜化学興業防府工場のソルベント生産量は、ブタノール225kl、アセトン61klであり、これらはすべて軍需用として納入された。その後設備は無水アルコール製造へ転用された。
 終戦時における工場の砂糖在庫は7,965トンである。

 引用文献
「それからそれへ-協和発酵50年の軌跡と新世紀への礎」協和発酵株式会社
  平成12年9月発行

トルエンを作る

 SUDO様から指摘されて気がついたのだが、本当は旧軍の火薬についてな~んの知識もなかった。失業中の身でなければ図書館に籠もり、勉強する事も可能だが、四六時中妻の監視下にある昨今、書庫の資料を読むこともママならないのである。さて、変わった性癖のある姫、火薬を調べてもついその組成、材料に注意が向いてしまい、有機化学工業や無機化学工業の教科書を読み始め、それを生産する企業史(家にある物はたかが知れていますが)をつい妻の目を盗んで読んでしまうのである。ある旧軍の資料を読んでいて、石炭の乾留以外で、トルエン(トルオール)などの芳香族を合成する方法がある事を知ってしまうと、さあ何処がやっていたんだという方向に興味が向かうわけである。

 アセチレンからの重合を最初に成功したのはフランスのベルトロー(1866)といわれている。わが国では東京工業試験所が昭和13年4月アセチレンの焦成重合に成功し、その重合油からベンゾール・トルオール・キシロールなどを得る方法を開発した。日本カーバイド㈱はこの実施権を取得して、昭和14年7月重合油年産400トンの工場を完成し製造を開始した。そののち第二次世界大戦中工場能力を3倍に拡張する工事に着手したが未完成のまま終戦をむかえた。
 「カーバイト工業の歩み」カーバイト工業会
  昭和43年3月31日   より

 ということで化学合成で作られたトルエンの生産量など、たかがしれたものでした。終り。

追伸.もしここを管理されている方がいらっしゃいましたらお願いがあるのですが、「北のさいはて日記」を「軍都ツキサップ日記」に変更できないでしょうか?よろしくお願いします。

トルエン

 石炭乾溜(高温乾溜、コークス製造、ガス、都市ガス製造)において、生成・分離されるトルエン(トルオール、爆薬原料)を取得すると、燃料(自動車、航空)であるモーターベンゾールの取得量が減るのではないかとある方から指摘いただいた。そこでさっそく資料を調べて見た。
 石炭を乾溜した場合、コールタールとガスとコークスが生成する。トルエン並びにモーターベンゾールはガス中から分離された軽油(粗製ベンゾール?)にほとんど含まれる。昭和12年、日鉄の室蘭輪西町工場(コークス工場)の生産量で見てみると
装入炭量     375,057トン
軽油生産量      5,432トン
ベンゾール類生産量  3,214トン
コールタール生産量 14,171トン
となる。
昭和12年の日鉄八幡製鉄所では
装入炭量      2,491,611トン
粗製ベンゾール生産量   30,654トン
ベンゾール類生産量    20,384トン
コールタール生産量   110,331トン
純トルオール生産量     1,583トン
モーターベンゾール生産量  7,744トン
となる。    
 さらに満州は鞍山の昭和製鋼所の生産状況をみると、昭和12年
ベンゾール生産量   9,192トン
タール生産量    45,419トン
となる。また、当所での粗タール(コールタール、無水)からの各種製品収率は
軽油       1%
中油      14%
重油(A,B共)15%
粗ナフタリン   6%
粗アントラセン  2%
ピッチ     50%
損失       3%
となり、コールタール中にはトルエンはあまり含まれないことが分る。
そして、ベンゾール製品の対軽油収率は75~78%。ベンゾール製品中の各種製品割合は、
純ベンゾール    66~70%
純トルオール      6~8%
キシロール       3~4%
ソルベントナフタ    5~6%
モーターベンゾール 12~20%
となり、モーターベンゾールとトルエンの生産は独立したものであることがわかる。
 また、日本、ドイツでの人造石油生産の主要な手段であった石炭の「低温乾溜」で出来る「低温タール」では、コークス製造などの「高温乾溜」と違い、生成される炭素化合物も直鎖状のものが大半を占め、トルエンなどの芳香族の炭素化合物は少ないらしい。ということで、石炭由来の燃料(自動車、航空)生産はトルエン生産を阻害しない。ただし、日本では、石炭生産そのものの絶対量が少ない為、燃料もトルエンも充分に生産出来なかったのである。

食と衣

「ビルマータイ鉄道建設捕虜収容所
  ―医療将校ロバート・ハーディ博士の日誌 1942~45―」
  1993年7月25日発行 訳者河内賢隆/山口晃
    而立書房
 日本軍の捕虜虐待には触れない。そんな事を研究されている立派な方は結構いらしゃるが、実際、当時の捕虜の給養と日本軍の給養を比べてみる方は稀である。著者は泰緬鉄道の建設地最前線から一歩下がった捕虜収容所に医者としてずうっと収容されていた。建設最前線の衛生状況、食糧事情は最低(米と乾燥野菜が主、量もはなはだ少ない)なのだが、一歩下がると捕虜の食糧事情だけは、少なくとも内地の銃後の人々より、栄養のバランスがとれ、食材が多彩なのである。
 例えば1943年12月25日クリスマスの食事(あくまでも特別だけど)は
朝食
ミルク入り米のオートミール
目玉焼き
豚肉のフライ(厚め)
さつまいものフライ
ライムのマーマレード入りのタピオカ粉(どんなもんなんだ?)をまぶしたロールパン

昼食
魚のリソールrissole(魚を刻んだ物を・・わからん)2つ
野菜と肉のスープ
コールドビーフ2切れ
西洋カボチャ、きゅうりと中国大根のピクルス
ミルク入り紅茶1杯

夕食
野菜と肉のスープ
ローストビーフ、さつまいもとかぼちゃのフライ添え
生姜のプディング(卵のプリンとは違う、説明すると長くなる)ライムソース
鰯をのせた油で揚げた米のビスケット(鰯は缶詰のオイルサーディン?)
ザボン(柑橘類 デザートです)
ミルク付きコーヒー

そして1944年12月25日クリスマスには
「今回のクリスマスの食事は例年以上に素晴らしかった。あらゆる点で本当に豪華なご馳走が食べられた。」と日記に書き記している。
 内地では昭和20年には卵も肉の配給も事実上なくなっていた。

 シンガポール陥落時、捕虜となった著者が、捕虜収容所にいた間、日本側から供給された衣料品は
①ゴムとズックで出来ている安手のブーツ(履くのには小さすぎた) 地下足袋
②目の粗い灰色のキャラコのズボン
の2点だけだった。(それも捕虜個人に支払われる賃金?から費用を徴収された。)
 また、医者としての特権で町で買い求める事ができた毛布(非常に粗悪品)1枚、
合計3点が捕虜期間中に入手することができた衣料品の全てだ。
(1944年5月28日に捕虜6人に1個の割合でアメリカ赤十字の小包が渡されたのでタオル、下着、靴下を入手しているかもしれない。)
 赤十字から送られていた衣類や靴は終戦まで、日本軍が大事に倉庫にしまっていてくれた。捕虜たちが捕虜収容所に持ちこんだ衣類は、しばしば地元民との食糧との交換に用いられた。南国とて1月の夜は寒い、著者はこう書き残している。
「最近、夜はとても冷える。昨晩は、新しい毛布と古い薄い毛布では寒くてどうしようもできなかった。パジャマ、カーキ色の作業ズボン、袖なしジャンバー、防風ジャケットと靴下等を身につけ、何とか寒さから身を守ることができた。暑い天候の中で、無謀にもシャツ、パンツ、毛布を売ってしまった隊員たちはどう過ごしているのだろうか?多くの者が寒さのために寝られずに、歩き回り、また他の者は炊事場にもぐり込んだのである。」

  日本戦時経済の全貌 東洋経済出版部 昭和7年10月18日発行
の中に「経済封鎖問題座談会」というのが載っている。これは連合国側から経済封鎖を行なわれたら日本の工業、貿易、生活はどうなるなろうだろうか?というのを経済界の名士、官僚など(高橋亀吉、石橋湛山もいる)が話し合っているものだ。戦前、日本の繊維業界は繊維製品を輸出することにより、日本の外貨の大半を稼いでいた。しかし、その原料を見ると、生糸、一部パルプを除いた羊毛、綿花のほとんどを後の連合国の供給に頼っていた。この座談会の結論もいい加減なもので、日本支配下の地域からいずれ綿花も羊毛も取れるようになるだろうから、あまり心配する事が無いなどと、真剣に暢気なことを言っている。
 戦争中、衣料品が不足したのは皆さんご存知だろう。そして、日本占領下の東南アジアの人々が日本から離反したのは、必要とする衣類を供給することが出来なかったのも大きな要因であり、終戦前の冬、日本国内では小学校の児童が下着や靴下が無い為、学校を休むことが問題化していたの御存じだろうか?
  参考資料
「秘 南方繊維資源の調査に赴きて」商工省技師 岸 武八
  昭和十七年四月 全国経済調査機関連合会

柳輸送

 これも昔hush様に差し上げた物であります。

逆柳輸送から
「Elbe」所有者N.D.L  9,179総トン 1934年建造
  1941年4月20日大連発 1941年6月6日英空母Eagleの艦載機   により撃沈
「Regensburug」所有者N.D.L 8,068総トン 1938年建造
  1941年5月5日大連発 1941年6月27日ボルドー着
  1942年2月21日ボルドー発 1942年7月7日横浜着
  1942年10月9日シンガポール発 1942年10月12日、米潜水艦   Searaven(SS‐197) の雷撃を受け1942年10月20日バタビア着
  1943年2月6日バタビヤ発 1943年3月30日、英軽巡洋艦     Glasgowにより撃沈
「Ramses」所有者H.A.L 7,083総トン 1926建造
  1941年5月12日大連発 1941年6月26日帰還命令を受け1941年7  月30日横浜着
  1942年11月22日バタビヤ発 1942年11月28日、豪軽巡洋艦   Adelaideにより撃沈
「Anneliese Essberger」所有者John T.Essberger 5,173総トン 1935年建造
  1941年6月20日大連発 1941年9月10日ボルドー着
  1942年11月5日ボルドー発 1942年11月21日 米軽巡洋艦Milwaukee
(CL-5)により撃沈
「Odenwald」所有者H.A.L 5,098総トン 1923年建造
  1941年8月21日横浜発 1941年11月6日 米軽巡洋艦Omaha
  (CL-4)により捕獲
「Burgenland」所有者H.A.L 7,320総トン 1928年建造
  1941年9月21日神戸発 1941年12月1日ボルドー着
  1942年10月4日ボルドー発 1943年1月12日神戸着
  1943年2月8日神戸発 バタビアに向かう途中1943年2月27日
  帰還命令を受け、1943年4月2日神戸着
  1943年11月25日バタビア発 1944年1月5日、米軽巡洋艦
  Omaha(CL-4)と米駆逐艦Jouett(DD-396)により撃沈    最後の逆柳輸送
「Elsa Essberger」所有者John T.Essberger 6,100総トン 
  1938年建造
  1941年10月14日佐世保発 1942年1月11日から3月9日まで
  スペインのEl Ferrolに滞在 1942年3月10日ボルドー着
  1942年11月7日St. Nazaireにて英空軍の爆撃を受け損傷、   輸送を中止
  1944年1月18日最終的に輸送を中止
「Spreewald」所有者H.A.L 5,083総トン 1922年建造
  1941年10月21日大連発 1942年1月31日ドイツ潜水艦U-333  により撃沈
  「ドラムビート」マイケル・ギャノン
   2002年5月13日発行 光人社 のP345に「Spreewald」     撃沈の詳細が書かれている。

「Munsterland」所有者H.A.L 6,408総トン 1922年建造
  1942年2月18日神戸発 1942年5月17日ボルドー着
  1943年3月最終的に輸送は中止
「Kulmerland」所有者H.A.L 7,363総トン 1929年建造
  1942年8月26日大連発 1942年11月7日ボルドー着
  1943年1月最終的に輸送は中止

次は柳輸送から始まるもの

「Rio Grande」       6,062総トン
  1941年9月21日ボルドー発 1941年12月6日大阪着
  1942年1月13日神戸発 1942年4月10日ボルドー着
  1942年10月1日ボルドー発 1942年12月31日横浜着
  1943年2月25日バタビア発 1943年2月27日帰還命令を受け
  1943年3月5日バタビア着
  1943年10月29日バタビア発 1944年1月4日、米軽巡洋艦
  Omaha(CL-4)と米駆逐艦Jouett(DD-396)により撃沈 
「Portland」 7,132総トン
  1941年10月22日ボルドー発 1941年12月6日大阪着
  1942年2月26日横浜発 1942年5月10日ボルドー着
  1943年3月28日ボルドー発 1943年4月13日、仏軽巡洋艦
  Georges Leyguesにより撃沈
「Tannenfels」       7,840総トン
  1942年3月8日ボルドー発 1942年5月12日横浜着
  1942年8月8日横浜発 1942年11月2日ボルドー着
  1943年1月最終的に輸送は中止
「Dresden」         5,567総トン
  1942年4月16日ボルドー発 1942年6月23日横浜着
  1942年9月8日サイゴン発 1942年11月3日ボルドー着
  1943年11月2日ジロンドで触雷、輸送は中止
「Weserland」        6,528総トン
  1942年9月9日ボルドー発 1942年12月1日横浜着
  1943年2月6日バタビア発 1943年2月27日帰還命令を受け
  1943年3月23日バタビア着
  1943年11月22日バタビア発 1944年1月5日、米駆逐艦
  Somers(DD-381)により撃沈
「Irene」          4,793総トン
  1942年10月11日ボルドー発 1942年12月20日神戸着
  1943年2月18日バタビア発 1943年4月10日、英敷設巡洋艦
  Adventureにより撃沈
「Karin」         7,322総トン
  1942年11月6日ボルドー発 1942年12月22日バタビア着
  1943年2月4日シンガポール発 1943年3月10日、米駆逐艦
  Eberle(DD-430)により撃沈

 ドイツ仮装巡洋艦「Thor」が捕獲して日本に回航した2隻もやはり逆柳船に仕立て上げられた。

「Hohenfriedberg」       7,892総トン
  旧ノルウェータンカー「Herborg」
  1942年6月18日インド洋上にて捕獲
  1943年12月22日バタビア発 1943年2月26日、英重巡洋艦
  Sussexにより撃沈。昔、この船の積荷の事は日記に「椰子油とパーム油」
  の御題で書いた。
「Rossbach」 5,894総トン
  旧ノルウェータンカー「Madrno」
  1942年7月4日インド洋上にて捕獲
  1943年1月18日バタビア発 1943年2月27日帰還命令を受け
  1943年4月8日バタビア着
  1944年5月7日、室戸岬沖にて、米潜水艦Burrfish(SS-312)により
  撃沈

ドイツ仮装巡洋艦「Atlantis」が捕獲して柳船に仕立て上げられた。

「Doggerbank」 5,154総トン
  旧英貨物船「Speybank」
1940年1月31日インド洋上にて捕獲 1940年5月10日ボルドー着
1942年1月25日ボルドー発 神戸着
  1943年1月15日バタビア発 1943年3月3日、独潜水艦U-43により撃沈

 ドイツ仮装巡洋艦「Atlantis」が捕獲して日本に回航して逆柳船に仕立て上げられた。

「Benno」           8,306総トン
旧ノルウェータンカー「Ale Jacob」
  1940年11月9日インド洋で捕獲
  1940年12月4日神戸着 1941年7月19日ボルドー着
1941年8月21日ボルドー発 1941年10月神戸着
1941年10月神戸着1941年12月ボルドー着
1941年12月22日ボルドー発
  この船の事も昔、日記で「似非艦船ファン」の御題で書いた。

 イタリア船(船籍?)で柳船としてもちいられたもの。
運航計画はドイツ海軍に任されたが、船舶、乗員はイタリアのものであり、還送された物資もイタリアの物になった。

「Cortellazzo」      5,292総トン
  1941年11月15日大連発 1942年1月28日ボルドー着
  1942年11月28日ボルドー発 1942年12月1日英駆逐艦
  Redoubt(H-41)と豪駆逐艦 Quickmach(G-92)により撃沈

「Pietro Orseolo」     6,344総トン
  1941年12月2日神戸発 1942年2月22日ボルドー着
  1942年10月1日ボルドー発 1942年12月2日横浜着
  1943年2月16日バタビア発 1943年4月2日ボルドー着
  1943年12月18日Concarneauにて雷撃?により撃沈

「Fusijama」       6,244総トン
  1942年2月7日神戸発 1942年4月26日ボルドー着
  1943年1月18日最終的に輸送中止

寄せ集めの第七師団 NO.2

「忠魂録」より第七師団第二十八連隊および傘下諸部隊の日露戦役の曹長以下の死者数を都道府県別で調べてみたのでここに書いておく。(なお「忠魂録」によれば第七師団の日露戦役による死者は将校同相当官147名下士官兵以下4191名合計4338名である。)

 第二十八連隊
北海道 197
茨城  137
栃木  128
福島  120
東京   87
群馬   37
新潟   35
長野   31
埼玉   22
神奈川  17
秋田   14
宮城    9
青森    8
千葉    7
山梨    5
富山    1
徳島    1
合計  856名
将校   31名
特務曹長  3名
総合計 890名

戦死者数  725名
戦傷死者数 129名
戦病死者数  35名
事故・変死   1名
合計    890名

騎兵第七連隊
北海道   3
新潟    3
東京    1
群馬    1
秋田    1
宮城    1
千葉    1
岩手    1
合計   12名
特務曹長  1名
総合計  13名

戦死者数    6名
戦傷死者数   1名
戦病死者数   6名
合計     13名

野戦砲兵第七連隊
北海道  27
神奈川   3
群馬    2
福島    2
栃木    2
千葉    1
埼玉    1
山梨    1
徳島    1
合計   40名
将校    6名
特務曹長  1名
総合計  47名

戦死者数   24名
戦傷死者数   4名
戦病死者数  19名
合計     47名

第七師団機関砲隊
北海道   1
合計    1名
戦病死     1名
合計      1名

工兵第七大隊
北海道  64
神奈川   3
茨城    3
新潟    2
東京    2
長野    2
埼玉    2
栃木    2
千葉    1
福島    1
福井    1
合計   83名
将校    1名
総合計  84名

戦死者数   65名
戦傷死者数  12名
戦病死者数   7名
合計     84名

第七師団架橋縦列
北海道   4
埼玉    1
千葉    1
山梨    1
合計    7名
将校    1名
総合計   8名

戦死者数    1名
戦傷死者数   6名
戦病死者数   1名
合計      8名

第七師団弾薬大隊
北海道  13
合計   13名
特務曹長  1名
総合計  14名

戦死者数    2名
戦傷死者数   1名
戦病死者数  11名
合計     14名

輜重兵第七大隊
北海道  15
宮城   11
新潟    9
福島    8
群馬    4
茨城    4
埼玉    4
栃木    1
富山    1
合計   55名
特務曹長  2名
総合計  57名

戦死者数    1名
戦傷死者数   1名
戦病死者数  54名
事故死     1名
合計     57名

旅順のロシア軍と大豆もやし

「明治期における脚気の歴史」山下政三
1988年9月20日初版 東京大学出版会
次のような一文がP479注[65]にある。

 人のビタミンC貯蔵量は二~三グラム程度にすぎず、補給がなければ数ケ月でC欠乏におちいっていく。旅順においても、三十七年八月頃より壊血病患者が増加し十一月、十二月にはその極に達した。開城の前後に及んでは、全要塞がほとんど壊血病患者という有様であった。三十八年一月二日旅順開城時のロシア軍傷病者は約一万七千人で、そのうち九千人以上が壊血病患者であった。また、全患者の約九〇パーセントは壊血病を併発していた。
 しかし、大豆は十分貯蔵されていたといわれる。大豆自身にはビタミンCはゼロであるが、もやしにすれば一〇〇グラム当り二五ミリグラムのビタミンCが出現する。壊血病の防止には十分役立ったはずである。せっかく大豆をもちながら、もやしとして利用することを知らなかったのである。
 麦飯によって中途で脚気流行を抑えこんだ日本側に対し、大豆をもちながら壊血病を助長させたロシア側は不運であったといわざるを得ない。ビタミン学的にみれば、日露戦争は脚気と壊血病の戦いとみられなくもなかった。

「旅順開城時大量の大豆が貯蔵されていた。日本軍だったらもやしを作り壊血病患者を発生させなかったはずだ。」というIFな話である。この話の出典はそもそもどこにあるんだろうかとず~と疑問に思っている(ビタミンCが発見されてからか?)。栄養学も変化を遂げ、もやしのビタミンC量も変わるのである。現在手元にある「5訂 日本食品標準成分表」平成10年1月10日発行を見れば、大豆もやしは100グラムあたり生で10mg、ゆでで2mg(現在市販されている緑豆もやしはそれぞれ16mg、2mg)である。また、生活活動強度(やや重い)における成人男性の栄養所要量はビタミンC50mgとなる。最新の成分表ではないのでこれすらもう違っているかもしれない。ビタミンCは熱などに弱く、水溶性であるので、ビタミンCを効率よく摂取するには生で食べるしかない。ロシア人が生の大豆もやしを山のように食べる姿を想像してほしい。

ガタルカナル戦日本海軍石油事情(昭和17年度油送船別南方還送油なぜか捕獲オランダ油送船一覧付き)

 某所でガタルカナル戦の時に、海軍はどれくらいのタンカーを集められるか話題になっていた。まあ、どうがんばっても船は用意出来ない(戦争には勝てない)との結論に達したようだが、実は船の用意が出来たとしても載せる重油が無かったという妄想をお話しする。
 日本が支配下に置いた南方の油田並びに製油所、陸軍と海軍に厳密に分割されていた。海軍が取得した地域はタラカン、バリックパパンを中心としたボルネオ島東部だった。この辺は占領時にかなり徹底的に破壊工作を受け、産出量にしても設備的にも陸軍管理下に置かれたパレンバンなどと比べればはるかに劣っていた。そしてパレンバンで製油した重油などは、パレンバン現地では海軍に割愛することは基本的に一切無かった。陸軍管理下地域で生産された石油類ならば、直接現地から本土に向かうタンカーにしろ、集荷地である昭南で積み込まれたタンカーにしろ、国内で陸軍、海軍、民間で協議の上、タンカーごとに3者に割り振られた。なお海軍管理下の石油は海軍の自由になったみたいだ。タラカンの原油は現地で脱水すれば缶用重油として使える優れものであるが、その他の海軍管理下の油田から産出する原油は精製しなければ重油が取れない。そして昭和17年度後半ではこれら海軍管理下の南方の製油所の重油月産量は5万トン以下ではなかったかと想像している。つまり、重油をタンカーに載せようとしたら日本本土の海軍備蓄重油を使うしかないのである。(ミッドウェー海戦のあった6月に海軍が30万トン以上の重油を使い大騒ぎになった。)
 ちなみにこの年の南方からの還送石油の状況をアジア歴史センターから拾い上げた物で紹介する。(一部知っている事を書き足した。海軍の資料は未見である。これが全部でないことは確かだが、正確な事は誰にも分からないだろう。なお、入港地と石油会社名が一致しないものがある。)

到着日時及び入港地 4月11日 横浜(日本石油)
船名        橘丸
積載油内容(竏)  ボルネオ原油 5,100

到着日時及び入港地 5月6日 麻里布(陸軍燃料廠)
船名        快速丸
積載油内容     原油 1,400

到着日時及び入港地 5月上旬 下津(東亜燃料)
船名        北喜丸
積載油内容     スマトラ原油 8,000

到着日時及び入港地 5月(5月8日出港)
船名        東亜丸
積載油内容     原油(バリックパパン)

到着日時及び入港地 6月14日 下津(東亜燃料)
船名        第一小倉丸
積載油内容     ボルネオ原油 11,000

到着日時及び入港地 6月17日 横浜(日本石油)
船名        大瀬(旧船名Zenota 捕獲後本土初回航)
積載油内容     重油 6,000(タラカン)

到着日時及び入港地 7月6日 下津(東亜燃料)
船名        あかつき丸
積載油内容     普通揮発油 15,911

到着日時及び入港地 7月15日 横浜(日本石油)
船名        昭洋丸
積載油内容     ボルネオ原油 11,680(ミリー)

到着日時及び入港地 7月26日 下津(東亜燃料)
船名        高砂丸
積載油内容     揮発油 1,379

到着日時及び入港地 7月27日 大連(満州石油)
船名        東栄丸
積載油内容     スマトラ原油及びボルネオ原油 約12,000

到着日時及び入港地 7月31日(8月3日?) 下津(東亜燃料)
船名        第二小倉丸
積載油内容     原油 6,247 B重油 3,404

到着日時及び入港地 7月31日 
船名        菊水丸
積載油内容     重油 1,577(パレンバン)

到着日時及び入港地 8月3日 元山(朝鮮石油)
船名        国洋丸
積載油内容     スマトラ原油及びボルネオ原油 約12,000

到着日時及び入港地 8月5日 麻里布(陸軍燃料廠)
船名        御室山丸
積載油内容     原油 約12,700

到着日時及び入港地 8月5日 尼崎(日本石油)
船名        サンチエゴ丸
積載油内容     原油及び重油 10,000

到着日時及び入港地 8月5日 横浜(日本石油)
船名        東亜丸
積載油内容     原油 11,800

到着日時及び入港地 8月6日 大連(満州石油)
船名        サンルイス丸
積載油内容     揮発油及び原油 約12,200

到着日時及び入港地 8月8日 麻里布(陸軍燃料廠) 
船名        建川丸
積載油内容     揮発油重油及び原油 約13,700

到着日時及び入港地 8月15日 下津(東亜燃料)
船名        健洋丸
積載油内容     揮発油及び重油 約13,800

到着日時及び入港地 8月16日 川崎
船名        極洋丸
積載油内容     原油 14,908

到着日時及び入港地 8月18日 鶴見(日本石油)
船名        厳島丸
積載油内容     原油 約13,300

到着日時及び入港地 9月2(9?)日 大連(満州石油) 
船名        あかつき丸
積載油内容     航空揮発油 15,950

到着日時及び入港地 9月3日 下津(東亜燃料)
船名        玄洋丸
積載油内容     原油 約5,900

到着日時及び入港地 9月4日 東京
船名        第一小倉丸
積載油内容     B重油 7,525(スマトラ)3,873(昭南)

到着日時及び入港地 9月6(12?)日 下津(東亜燃料)
船名        第二日新丸
積載油内容     原油 約15,000

到着日時及び入港地 9月6日 元山(朝鮮石油)
船名        永洋丸
積載油内容     汚染自動車揮発油 13,110

到着日時及び入港地 9月23日 門司
船名        第二鷹取丸
積載油内容     B重油 415

到着日時及び入港地 9月下旬 横浜(日本石油)
船名        日新丸
積載油内容     原油 約17,500

到着日時及び入港地 9月下旬 川崎
船名        紀洋丸
積載油内容     原油又は製品 約11,000

到着日時及び入港地 10月11日 横浜(日本石油)
船名        佐多丸(海軍給油艦「佐多」)
積載油内容     重油 7,824

到着日時及び入港地 10月13日 門司
船名        共同丸
積載油内容     B重油 1,082

到着日時及び入港地 10月18日 横浜(日本石油)
船名        極洋丸
積載油内容     原油 19,331

到着日時及び入港地 10月20日 横浜
船名        Charlotte Schliemann(独船)
積載油内容     不明

到着日時及び入港地 11月6日 下津(東亜燃料)
船名        さんらもん丸
積載油内容     南スマトラ原油 11,636
          
到着日時及び入港地 11月6日 上海
船名        日南丸
積載油内容     普通揮発油 8,300

到着日時及び入港地 11月7日 上海
船名        大瀬丸(海軍給油艦「大瀬」)
積載油内容     普通揮発油 13,500

到着日時及び入港地 11月10日 鶴見(日本石油)
船名        厳島丸
積載油内容     南スマトラ原油 14,569

到着日時及び入港地 11月11日 青島
船名        永洋丸
積載油内容     普通揮発油13,000

到着日時及び入港地 11月21日 鶴見(日本石油)  
船名        第一小倉丸
積載油内容     南スマトラ原油 10,314

到着日時及び入港地 11月24日 川崎
船名        Ukermark(独船)
積載油内容     揮発油 6,000

到着日時及び入港地 11月26日 上海
船名        あかつき丸
積載油内容     普通揮発油 6,000 航空揮発油 10,000

到着日時及び入港地 12月1日 鶴見(日本石油)
船名        力行丸
積載油内容     セリア原油 13,850

到着日時及び入港地 12月8日 麻里布(陸軍燃料廠)
船名        サンチエゴ丸
積載油内容     スマトラ原油 12,000

到着日時及び入港地 12月19日 麻里布(陸軍燃料廠)
船名        建川丸
積載油内容     セリア原油 12,000

到着日時及び入港地 12月26日 下津(東亜燃料)
船名        黒潮丸
積載油内容     スマトラ原油 16,000

到着日時及び入港地 12月30日 下津(東亜燃料)
船名        あかつき丸
積載油内容     スマトラ原油 15,000

その他可能性のあるものとして

船名 Hohenfriedberg(独船)
1942年6月18日インド洋にて「Thor」(独特設巡洋艦)に捕獲されたノルウェータンカー「Helborg」。日本に回航

船名 Rossbach(独船)
1942年7月4日インド洋にて「Thor」(独特設巡洋艦)に捕獲されたノルウェータンカー「Madrono」。日本に回航

到着日時及び入港地 12月23日 横浜
船名        Brake(独船)
         (9月27日フランス、ボルドー発)
がある。
南方の
海軍地区油田採油量 昭和17年度(18年3月迄) 45.5万トン
陸軍地区油田採油量 昭和17年度(18年3月迄)321.4万トン
海軍地区原油処理量 昭和17年度(18年3月迄) 39万トン
海軍地区重油生産量 昭和17年度(18年3月迄) 18.9万トン
南方還送原油    昭和17年度(18年3月迄)108.2万トン
南方還送重油    昭和17年度(18年3月迄)  8.7万トン
南方還送石油    昭和17年度(18年3月迄)148.9万トン
内海軍取得量    昭和17年度(18年3月迄) 37万トン(25%)
海軍石油消費量   昭和17年度(18年3月迄)485.4万竏

 太平洋戦争における戦利船、その中でもオランダ船籍のタンカーに興味を持った。取り合えず目に付くところを書いてみた(ドラム缶積載のみの物もあるようである)。ノルウェー船籍のタンカーなども興味深いが資料があまり無い。英国船籍の物もまた面白いが、現在「戦前船舶」で英国籍の戦利船のリストを連載しているので、そちらでいずれすべてが明らかになる。

Semiramis  5,000総トン
1942.2.15 Pladjoeにて沈没
日本名 「巨港丸」Kyoku Maru 
 1943.12.27 05°Z-121°22′O
 米潜水艦Ray SS-271により撃沈。飯野海運運航委託

Iris  3,887総トン
 1942.2.15 Palembangにて沈没
 日本名「菊水丸」 Kikusui Maru
1944.10.24 NW van Luzon
米潜水艦Snook SS-279により撃沈。

Anastasia  3,029総トン
1942.3.1 Tj .Priokにて沈没
日本名「武勲丸」 Takekuni Maru
1944.9.10 03°54′N-98°53′O
 英潜水艦Porpoiseの敷設した機雷により沈没。

Paula ( TAN 1)  2,770総トン
1942.3.1Tj .Priokにて沈没
1942.12.24salved
日本名 「あられ丸」Arare Maru 
終戦後残存、シンガポールにて接収

Josefina (TAN 6)  2,594総トン
 1942.3.2 Soerabajaにて沈没
 日本名 「洋制丸」Yosei Maru
 1945.5.13 Java Zee
米潜水艦Baya SS-318により撃沈。飯野海運運航委託

Aldegonda (TAN 5)  2,087総トン
 1942.3.2 Soerabajaにて沈没
 1943.9.7salved
 日本名 「愛天丸」Aiten Maru
 終戦時残存。三菱商事船舶部運航委託

Ambo  7,691総トン
 1942.3.6 Soerabajaにて沈没
日本名「帝海丸」 Teikai Maru
1944.12.30 Lingayen Golf
 空爆

Mampawa (BEN 4) 468総トン
1942.3.6 Tjilitapにて沈没
日本名 Harufuji Maru
 終戦時残存、シンガポールにて接収

Pendopo ( TAN 4) 5,209総トン
1942.3.2 Soerabajaにて沈没
1943.7.30salved
日本名「永芳丸」 Eiho Maru
 1945.1.12サンジャック河口にて空爆により撃沈

Angelina   2,086総トン  
 1942.3.2 id
 日本名「安城丸」 Anjo Maru
 1944.9.28 13°16′N-120°08′O
 米潜水艦Bonfish SS-223により撃沈。

Juno (TAN 2)    2,345総トン
 1942.3.2 Soerabajaにて沈没
 1942.10.10
 日本名 「油野丸」Yuno Maru
 1945.4.30 00°58′Z-104°31′O
米潜水艦Guitarro SS-363の敷設した機雷により沈没。三菱商事運航委託。

Poseidon  696総トン
 1942.3.6 Tjilatjapにて沈没
 日本名 「豊成丸」Hosei Maru
 1945.4.10 Straat Soenda
 蘭潜水艦の砲撃により撃沈。三菱汽船運航委託。
 ドラム缶約1,300本積載可能。

Zenota 7,986総トン
 1942.5.9インド洋にて「報国丸」「愛国丸」により捕獲
 日本名 「大瀬」Oose
 1944.3.30パラオ島にて撃沈
 
参考文献
「Schepen van de Koinklijke Marine in W.O.Ⅱ」
    Chris Mark
「ONZE MOOISTE KOOPVAARDIJSCHEPEN DEEL 6
VAREN VOOR DE VRIJHEID (Ⅱ)1939-1945 」
「船舶砲兵」
「続船舶砲兵」
「戦前船舶」
「太平洋戦争沈没艦船遺体調査大鑑」

失業

100年に1度の経済危機、もろに直撃を喰らい、5月15日付で退職となる。で、どうやって食べていくんだ?

日露戦役第二十五連隊戦場別日時別戦死傷者数

「札幌歩兵第二十五聯隊誌」高橋憲一
 大昭和興産株式会社 平成五年七月一日発行
を引用まとめさせていただいた。

 日露戦役第二十五連隊戦場別日時別戦死傷者数
明治37年11月26日 松樹山堡塁
戦死   士官・准士官   9名
     下士官以下  198名
戦傷   士官・准士官  13名
     下士官以下  349名
合計          659名

明治37年11月30日 二〇三高地
戦死   士官・准士官   9名
     下士官以下  182名
戦傷   士官       8名
     准士官以下  334名
合計         533名

明治37年12月1日~ 二〇三高地
戦死   士官       1名
     下士官以下   13名
戦傷   士官       4名
     下士官以下  119名
生死不明 下士官以下    8名?
合計          145名

明治37年12月5・6日 二〇三高地
戦死   士官       6名
     下士官以下  179名
戦傷   士官      10名
     准士官以下  375名
合計          570名
   
明治37年12月23・24・25日 後揚樹溝東北高地
戦死   士官       1名
     下士官以下   16名
戦傷   准士官      1名
     下士官以下  104名
合計          122名

明治38年1月1日 後三羊頭村南方高地
戦死   下士官以下    1名
戦傷   士官       1名
     下士官以下    8名
合計           10名

明治38年2月28日 奉天
戦死   下士官以下    3名
戦傷   士官       2名
     下士官以下   22名
合計           28名

明治38年3月2日 奉天
戦死   下士官以下   49名
戦傷   士官       2名
     下士官以下  228名
合計          279名

明治38年3月5日 奉天
戦死   下士官以下   22名
戦傷   士官       4名
     下士官以下   50名
合計           78名

明治38年3月6日 奉天
戦死   士官       3名
     下士官以下   24名
戦傷   士官       4名
     下士官以下  190名
合計          221名

明治38年3月8日 奉天
戦死   士官       1名
     下士官以下   40名
戦傷   士官      11名
     下士官以下  304名
合計          356名

明治38年3月9・10日 奉天(北陵)
戦死   下士官以下    4名
戦傷   下士官以下   18名
合計           22名

明治38年4月16日 三眼井
戦死   下士官以下    1名
戦傷   下士官以下    2名
合計            3名

明治38年7月1・2日 獅子峪
戦死   士官       1名
     下士官以下   43名
戦傷   軍医       1名
     下士官以下   60名
合計          111名

 なお、第二十五連隊では奉天会戦後に脚気が多発したと書かれてある。

 もし、ご感想がございましたら母屋のBirds Town144番地にお寄せ下さい。