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航空技術の全貌

 tackow様より以前「航空技術の全貌」を読んだことがあるか聞かれた事があります。当然、私の貧しい蔵書の中には無く、どんな事が書いてあるのだろうかと、田舎の貧乏人の悲哀を味わっていました。この度都会の図書館で初めて閲覧する事が出来て「へ~そんな事が書いてあったの」と思った次第であります。

 太平洋戦争に突入して二年位は、それまでに米国から購入貯蔵していた燃料で戦い、その間に南方の石油を押さえて爾後は南方産石油で戦うというのが日本の計画であった様だった。ところがその南方産原油が到着して見ると、その性状は甚だしく米国産原油とは異り、特に多量の蝋を含んでいる事に依って、今迄の精油装置及び精油法によっては、缶用重油の製造が出来なくなり、又航空揮発油分は比較的多く含まれている油田もあるが、そのオクタン価は甚だ低く、加鉛0.1%で八〇程度しかないという状態で、全く当が外れ、燃料技術者総動員でこの対策を急速に樹てねばならぬ窮境に追い込まれた。これは甚だ不用意千万なことで、この点から見ても海軍は全然この様な戦争をする意志を持っていなかった事が明かである。南方の油で米、英を相手に戦争する意志があったならば、何年も前からその性状を調べ、その処理法を考え、処理装置を用意しておいた筈であった。
  「航空技術の全貌 下巻」P511~512

 あ~なんと言う発言でありましょうか。戦前、人造石油における直接液化法、ドイツからの技術導入を望む民間技術者の意見を踏み潰し、まったく使い物にならなかった海軍方式を押し付け、全てを無駄にさせた程、自分達の技術には自信をお持ちになっていた海軍燃料関係者、こんな事を言って良いのでありましょうか?これが戦後一般に流布する「南方産原油からはハイオクタンの航空燃料は作れない。」という話の原点になったのでしょうか?
 戦時中の南方産石油の性状を見てみますと、直溜で得られた軽質油分に加鉛0.1%で八〇程度などと全てに共通しているわけもなく、高オクタンの物もあるのです。多種にわたる南方産原油を、そもそも一つの物として定義すること自体、素人には不思議に思うのですが、専門家にかかるとこう言い切ってしまうのでしょう。
 戦前、日華事変時にボルネオ島のバリックパパン製油所から緊急輸入したベンゼックスBenzex実は重揮発油よりエデレアヌ装置で抽出した物で、南方ではごく普通に製造されており珍しくもなかったのです。しかし、日本では実用化されませんでした。ハイオクタン航空燃料製造に絶対必要とする配合用燃料、わずかなイソオクタンぐらいしか日本では製造できませんでした。

 戦後すでに半世紀以上もたったのですから、そろそろ
「実は100オクタンどころか92オクタンも満足に出来なかったのは、連合国側に比べて、技術も製造設備も圧倒的に劣っていたからだ。原油の性ではない。」
 と発言してもよいのではないでしょうか。
 呪縛は解かれねばなりません。

  参考文献
 「新石油事典」石油学会 1982年 朝倉書店

 
 

関西、2

4月2日から6日まで行われた関西遠征、ちっとも身体の疲れは取れなっかったが、良い事もあったのである。
 図書館訪問は「神戸市立中央図書館」と「大阪府立中央図書館」の2
館だけだったが、田舎では中々見ることの出来ない本に出会い、少しは
賢くなったような気がする。
 神戸に行くと必ず三宮の「後藤書店」、「あかつき書房」、JR高架下
に点々とある古本屋を訪れる。それに加え今回は「メトロこうべ古書の
まち」に行ってみた。ここは私向きの値段の安い本が揃っていて、購買
意欲をそそられたのだが、道中の荷物の重さを考えるとそういう訳にも
いかず残念な事をした。自分向きの本はほとんど無いが必ず訪れる大阪
「梅田阪急古書のまち」ちょっとだけ拾い物をした。そして今回の遠征
の最大のターゲット大阪阿倍野区の「岡田書店」送られてる来る目録は
いつもとてもシブイのだが、やはり店の品揃えもシブかった。田舎者ゆ
え「航空朝日」現物など見たことも無かったのであるが、「ありますか
?」と尋ねるとすっと出てくるのである。この時自分は本当に幸せだと
思った。アナタ、こんな所に住んでいたら間違い無く私破産しますよ。
 戦果
 「航空朝日」2冊、「軍事史学」1冊
 「ナイロンの発見」創元文庫 昭和27年
 「日本化学工業史」東洋経済新聞社 昭和34年
 「ある中隊の戦闘記録」小冊子、野戦重砲兵第十二連隊第一中隊
 「硫安」日本評論社 昭和25年
 「臨床 薬物十講 第一巻」丸善 昭和7年
 「合成ゴム」丸善 昭和15年
 「日本占領下バリ島からの報告」草思社 1999年
 なお、今日娘の高校の入学式があり「国歌斉唱」があったのだが、今
回は大阪のカラオケで歌いすぎ、喉の調子が悪かったので勘弁していた
だいた。

関西

 ユニバーサルスタジオは思いの他よろしかった。天竜寺の桜は綺麗
だった。疲れたので詳しい話はまた後日。

マラリア

 誤解されたら困るので言っておくが、私は医学の専門教育を受けた事が無いし、それに関係するような仕事をしたことも無いので医学知識などはこれっぽちもない。ただただ面白そうなので拾い読みしているだけである。だからこれから書く文章もいいかげんといえば実にいいかげんなものである。

 戦中、日本を苦しめぬいた「米軍」と「飢え」と「病魔」その中でも多くの人命を奪った「マラリア」、いろいろな戦記等に登場するのに詳しい話を見た事が無い。(私が見た事が無いだけであって、どこかに素晴らしく分り易い文献があるかもしれない。)そこで、不肖プリンス書いてみよう。

 そもそもマラリアとはどんな病気なのであろうか。
 マラリアとはハマダラ蚊が媒介する病原体プラスモキジウム(マラリア原虫)によって起こるもので、人間から蚊へ、蚊から人間へと二つの寄生主の間を往復して発育増殖(その間に色々な形に変化し、その形形により効く薬剤が違うという私の理解の範囲を超えたものである。)を繰り返し、特有の悪寒戦慄や発熱を起こし、悪化すると死を招くのである。ヒトのマラリアには、3日熱、4日熱、熱帯熱、卵形熱の4種があり、熱帯熱が最も悪性だといわれている。。体内に入った原虫を完全に薬剤で死滅させない限り、再発する可能性がある。現代でも薬剤耐性を持った原虫の出現や、地球温暖化によるハマダラ蚊生息地の北上により日本での流行も危惧されている。

 戦前のマラリアの状況を欧米に見てみよう。第一次世界大戦においてアフリカなど戦った軍はこの病気に徹底的に苦しめられた。当時、唯一の予防・治療薬キニーネは連合国支配地域でしか産出されず、医療設備の整備されていなかった両軍ともこの病気には抗すべきも無かった。しかし、戦争中は流行地域は限定されたが、戦後流行地域は広範囲に広がった。帰還兵には未治療や治療半ばの患者が多くマラリアを故国に持ち返った。また、かつての戦場は濃厚に汚染され、軍部による組織的な防疫も放棄された。加えて列強の植民地分割、民族自決の原則による新興国の誕生が民族の移動を促し、マラリアもそれに従って大掛かりな移動を開始した。

 では、次ぎにマラリアの戦前・戦中の予防・治療薬について紹介する。
 キニーネはキナ(規那)の木の木皮から抽出された薬剤で、17世紀頃、南米ペルーにおいてスペイン人に解熱剤として用いられた規那皮から発見された物である。(先住民がすでに使用していた)第一次世界大戦後、ドイツで化学合成薬が発見されるまでマラリアに効く唯一の薬だった。
 ドイツは自国でも、植民地でもキナの木がなく、第一次世界大戦中キニーネをまったく入手できず。多大の苦しみを味わった。そこで、自国でも製造可能な化学合成薬の開発に着手した。1924年「プラスモヒン」(パクマイン、8-アミノキノリン化合物の1種)、1930年「アテブリン」(アクリナミンまたはキナクリン)が開発された。そして、1930年なかばもっとも有効なゾントヒン(4-アミノキノリン化合物の1種)を開発した。第二次世界大戦開始後、アフリカ戦線から連合国にもマラリアが襲いかかった。当時、キナの木はジャワ島で大規模に栽培されており、インド、ビルマ、セイロンで少量が生産されていた。キニーネと共にアテブリンが大々的に用いられた。しかし、シチリアに上陸した連合軍兵士に襲いかかったマラリアは負傷者よりも多くのマラリア患者を生み出した。キニーネ不足の上にアテブリンの効力への疑問が持たれた。これを契機に米国や英国では精力的な新薬の開発が行われ、米国ではクロログアナイト、英国ではパルドリンが合成された。(この2種の薬、詳細がさっぱり分りません。誰か教えてください。)
 1943年、チェニス陥落後、ゾントヒンの臨床試験をしたことがあるヴィシー側のフランス人医師達がこの薬のサンプルをアメリカ軍のマラリア学者に与えた。その化学構造が米国で分析され、いっそう強い治療・予防効果をもつように、その組成がわずかに変えられ、「クロロキン」と名づけられた。この薬はマラリアに対してもっとも有効であると思われた。
 戦中、これらの薬と共に広範囲に「DDT」を撒布し蚊を駆除することにより、太平洋戦線では連合国側はマラリアに対して完勝したと思われているが、実はそうでもなかったのである。極端に悪い条件を与えられたので、例にはならないかもしれないが、空中給輸を受けて連合軍側の優秀性を体現していると言われるビルマ戦線のウィンゲート空挺団、3回以下しかマラリアにかかったことのない者は、ほとんどいなかったし、中には6~7回冒された者もいた。脳性マラリアの死者もかなりいた。そしてなによりも生還した兵士のほとんどが二度と戦闘に参加することが出来なかったのである。

 戦時中、日本では次ぎの4種のマラリア予防・治療薬が使用された。

   1、プラスモヒン.Plasmochinum
   2、アテブリン.Atebrinum
   3、4-アミノキノリン化合物
   4、キニーネ.Chinine

 これらの薬品、調べ得た範囲で紹介しよう。

  1、プラスモヒン(パマクイン)

 1924年のIG染料会社のシューレマンにより、あらゆるマラリアの有性生殖体に効力を持つ合成薬として開発された。完全を期する為にはキニーネとの供用が必要だった。副作用があり、1日の投与量0.04gを超えてはならない。日本での開発・生産状況だが、武田薬品が昭和13年末からプラスモヒンの合成研究を開始した。IG社の特許の方法を追試してプラスモヒンを合成した後、独自の方法で製造法を確立した。この塩酸塩の水溶液を注射剤、2-オキシーシンコニン酸塩を錠剤として「トロポヒン」の名称で製造した。

  2、アテブリン(アクリナミン)

 1930年にIG染料会社でプラスモヒンとは作用を異にするアテブリンの創製に成功した。アテブリンは大体キニーネと類似の働きをし、無性細胞体を殺す力がある。キニーネと違い、効力に持続性がある。戦時中、連合国側これを予防薬として大々的に使用していた。日本での開発・製造状況だが、1933年にドイツで構造式が発表され、武田薬品が研究課題として取り上げた。まもなく、製造に関するドイツ特許が公表され、その方法を追試し、昭和10年3月合成に成功した。その後研究は一時中止されていたが、戦時体制の進行と共に昭和14年はじめ再開され、同年5月には新しい合成法が得られた。この新法によるアテブリンの生産は、前期プラスモチンとともに昭和15年に創業した武田化成㈱で行われた。このとき、注射剤についても各種塩類をつくり、生物による抗マラリア作用を検討した結果、乳酸アテブリンが優れていることを認め、「ヒノブリン」の名で軍用に供給した。
 塩野義製薬では昭和15年「アタビル」(局方アクリナミン)を製造し、軍管理工場となった。
 大日本製薬では昭和16年アクリナミン(錠剤)を発売した。また、新しく出来た吹田工場でも昭和18年9月からアクリナミンの製造を開始した。

  3、4-アミノキノリン化合物

 1931年、フランスのフルノーが合成したアミノキノリン化合物は抗マラリア作用を持ち、無性細胞体を殺す力がある。ドイツが合成した「ゾントヒン」や米国が開発した「クロロキン」も4-アミノキノリン化合物の1種である。武田薬品では昭和14年にこれを取り上げ、全く新しい合成法を得た。陸軍において臨床試験が行われた結果、プラスモヒンに勝ると結論され、「ガメシード」として軍当局の支援のもとに昭和15年8月から生産が開始された。注射剤には塩酸塩、錠剤にはタンニン酸塩が用いられた。昭和16年2月には60kgを生産、以後は武田化成に移され、昭和17年10月から昭和20年3月までに、約4.8トンのガメシードを生産した。

  4、キニーネ

 キニーネはキナ(規那)の木の皮から抽出され物で、キナの木は元々南米のボリビア、エクアドルの森林に原生していたものである。19世紀半ば頃インドネシアのジャワ島で栽培されるまで、天然のものしかなく、それも乱伐の為、資源は枯渇してしまった。キニーネが結晶として初めて抽出されたのは1820年のことである。戦前、蘭印でのキナ皮栽培は90%以上を生産し、シンジケートを作り栽培を調整、供給量を制限していた。蘭印で生産されるキナ皮は全部輸出されず、バンドンのキニーネ工場で消費されるものが大部分で、その残りが輸出された。バンドンの工場で消費されるのは年により異なるが、大体総生産の40%である。キニーネの大部分は硫酸キニーネとして取り引きされている。蘭印ではバンドン工場が唯一のキニーネを生産していた。

  仕向国別キナ皮輸出 1936年

オランダ本国         7,811トン
英国               433トン
ベルギー、ルクセンブルグ     306トン     
イタリア             133トン
日本               455トン

  仕向国別キニーネ輸出高 1936年

オランダ本国           194トン
インド               16トン
タイ                 8トン
支那                79トン
日本                16トン

 硫酸キニーネはキナ皮粉末から石油を用い抽出し、キナ皮20kgから硫酸キニーネ1.29kgが得られる。薬用には主に塩酸キニーネを用い、硫酸キニーネは主として塩酸キニーネの原料となる。
 塩酸キニーネは硫酸キニーネ、水、、塩化バリウムを反応させ、濾過、析出する結晶を乾燥させた物で、マラリア予防・治療薬、解熱剤となる。キニーネの塩類中、キニーネの含有量最も多く、また最も可溶性で、しかも安定性に優れている。ただし、毒性が強く副作用があり、まれに中毒死する恐れもあるそうである。戦前、戦中製薬各社はキニーネ含有の各種錠剤、注射薬を製造し供給していた。

 戦前、日本のキニーネ取得はシンジケートが完全に押さえられており、それを打破する為、日本国内でのキナ栽培が行われた。

 塩野義製薬では明治末期から硫酸キニーネを輸入し、エチル炭酸キニーネ(オイヒニン)や塩酸キニーネの製造も軌道に乗っていたが、昭和9年には全国の輸入硫酸キニーネの40%を取り扱うほどになっていた。
 そして昭和8年、キナ皮を原料とするキニーネ製造設備も完成、同時に社員をジャワに派遣して、キナ皮の入手調査にあたらせた。良質のキナ皮はシンジケート(オランダ政府)がすべての実権を握っており、調査の結果、キニーネ含有率の低い粗悪なキナ皮しか輸入できないことが分ったので、わが国土の最南端であった台湾でキナ栽培をはかる計画を立てた。
 昭和9年、農林場開設に備え、キナの苗木の育成をはじめた。キナは苗木から10年たってはじめて採皮、加工できるもであり、10ヵ年という遠大な投資計画で、国策に沿ってキニーネの自給自足を目指したのであった。昭和11年高雄農林場を設けて、キナの植付けを開始した。
 昭和18年10月、キナ皮の処理の為に高雄工場の建設にとりかかった。収穫の始まったのは同18年。最初のキナ皮13トンは赤穂工場へ送られたが、本土への輸送が困難になった為、高雄工場で加工されることとなった。
 昭和19年5月、高雄工場の火入れ式はすませたものの、内地から送られた機械、器具は途中で輸送船が撃沈されたため、キニーネは生産できなくなり、キナ粉末の生産にきりかえねばならなかった。

 昭和16年、オランダの対日資産凍結後、キナ皮、キニーネの輸入は途絶したが、開戦後キナ農園、工場共に日本の支配下に納まり、生産を継続したが輸送難のため、これを有効に生かすことが出来ず、悲惨な状況を呈した。
 
 実際のマラリア予防・治療薬の戦地での使用状況、補給状況を具体例を書いてみよう。
昭和18年6月海軍の第八十一警備隊医務科でのマラリア患者への投薬、注射の例では

投与番号       1     2       3     4
薬名及1日量 塩酸キニーネ プラスモヒン 塩酸キニーネ プラスモヒン
          0.6g    0.03g    0.6g     0.03g     
      
        アテブリン         アテブリン
          0.3g            0.3g         
1日服用回数    3回    3回      3回     3回

 服用期間     5日    3日      5日     3日

と16日間に渡る治療が基本らしい。しかし、これで本当に完治したのであろうか。
 同じラバウルでの陸軍の治療では

   アテブリン1日3錠12日間→プラスモヒン1日3錠7日間
   アテブリン1日3錠 7日間→プラスモヒン1日3錠5日間
   アテブリン注射1筒    →キニーネ・プラスモヒン3日間

と補給難の為、短縮されて行き、ついには薬を与える事も困難になってしまうのである。
 ラバウルで補給が順調にいっていたころ、マラリアの発病を食い止める為、陸軍では全将兵が毎日キニーネ錠を1個ずつ服用(予防内服)するように定められていた。そのころは、陸軍だけでも毎月120万錠のアテブリンと300万錠のキニーネを消費していた。
 海軍の例では昭和17年11月12日ラバウルに入港した病院船「氷川丸」アテブリン、プラスモヒンを20万錠、塩酸キニーネ100万錠を補給したがこれでは足りなかったらしい。(氷川丸は昭和17年中に6回、最後は昭和19年1月31日、合計12回、入港、補給を行っている。他にも病院船「高砂丸」が入港しているし、通常の輸送船や艦艇も入港、補給を行っている。)
 有名な話で、ラバウルで再製された「百式司偵」トラック島から30万錠のキニーネを持って帰り、快挙とされ幾ばくかの命を救ったが、ラバウルにいた10万人の将兵、予防的に服用した場合たった3日分でしかなかったのである。
 ビルマ戦線でのある陸軍軍医がその当番兵と共に実際に携行していたマラリア治療薬は硫酸キニーネ錠10錠、強バグノン液(Bagnon.武田薬品の製品名で薬液1cc中塩酸キニーネ0.068、カフェイン0.0172、ウレタン0.0142を含む)8筒だった。他に野戦病院、衛生隊の手持ちもあるし、補給も在るだろう。しかし、手持ちの薬剤どういう使われ方をしたのかは分らない。

 最後に連合軍側は「DDT」を使用し蚊を駆除し、マラリア制圧に効果をあげたが日本軍の場合、そんな効果的な殺虫剤はなく、せいぜい蚊取り線香、蚊帳で蚊を防ぐが、水溜りを無くし蚊の発生を極力減らすぐらいしか方法が無かったのである。

   引用・参考文献
 「マラリア戦記」 浅田 晃彦著
  昭和40年8月15日発行 弘文堂
 
 「軍医のビルマ戦記」 塩川 優一著
  1996年6月30日発行 日本評論社

 「戦争とマラリア」 宮川 米次著
  昭和19年11月20日発行 日本評論社

 「ウィンゲート空挺団」 デリク・タリク著 小城 正訳
  昭和53年5月15日発行 早川書房

 「マラリアVS人間」 ロバート・S・デソウィツ著 栗原 豪彦訳
  1996年4月20日発行 晶文社

 「世界史の中のマラリア」 橋本 雅一著
  1991年3月31日発行 藤原書店

 「海軍医務・衛生史」
  昭和61年2月28日発行 柳原書店

 「大東亜の特殊資源」 佐藤 弘編
  昭和18年9月1日発行 大東亜出版株式会社
 
 「南方経済資源総覧 第十巻
    ジャワ・スマトラの経済資源」濱田 恒一著
  昭和19年9月20日発行 日本経国社

 「最新医薬類聚 上巻ノ一」慶松 一郎編集
  昭和23年8月20日発行 非凡閣
 
 「最新医薬類聚 下巻ノ三」慶松 一郎編集
  昭和23年5月30日発行 非凡閣

 「大日本製薬90年のあゆみ」 大日本製薬株式会社
  昭和62年12月発行
 
 「武田二百年史」 武田薬品工業株式会社
  昭和58年5月11日発行

 「シオノギ百年」 塩野義製薬株式会社
  昭和53年3月17日発行

 「氷川丸物語」 高橋 茂著
  昭和53年6月28日発行 かまくら春秋社

 調べれば、調べるほど資料が出てくる上、難しくなるという厄介な話である。キニーネ錠、とても苦くて飲む振りをして捨てていた話をよく聞くが、糖衣錠があったそうである。

水銀とイトムカ鉱山

 戦争末期、シンガポールから病院船の船倉に水銀を隠し、日本に還送した話を読んだことがあります。この時の水銀はUボートが運んできたものだったのでしょうか?それとも、ボルネオ島の水銀鉱山で採掘された物だったのでしょうか?
 「紫電改」の空戦フラップ、効果があったのかなかったのか、私には分りかねるのですが、たしか水銀が使われていました。この他にも、この当時の水銀の用途としては

  1. 金精錬用
  2. ソーダ電解用
  3. 爆薬用
  4. 薬品用
  5. 電気器具用(水銀整流器、水銀燈、乾電池)
  6. 計器用(体温計、晴雨計)
  7. 船底塗料

 と多種に渡り、軍需生産には欠かせない物でした。
 戦前、昭和12年でも国内生産20.1トン、輸入は383.8トンと自給率は約5%でした。戦前、戦中を通して日本支配下、占領下の地域では大規模な水銀鉱山はありませんでした。
 戦前の世界水銀生産高を見てみると1938年で

   メキシコ     293.7トン  
   スペイン    1378.9
   ソ連       300?
   米国       620.2
   イタリア    2330

 と意外な国が生産地だったことがわかります。
 太平洋戦争開始前の本邦の水銀輸入状況を見てみましょう。
 スペインからの輸入は米国が参戦するまでは、継続していましたが、価格の高騰が障害となり満足できる量を確保できませんでした。イタリアからの輸入は昭和15年8月29日ゼノア発の長良丸が大量の水銀積み込みに成功したのを最後に、イタリア・ソ連間に協定がなくシベリア鉄道の使用が許されず、入手は絶たれました。米国からの輸入は昭和15年22トン余りありましたが、昭和15年7月2日武器輸出禁止令に関連して事実上禁輸となりました。メキシコからは開戦まではある程度の輸入が行われていたと思われます(海軍のZ工作等)。昭和15年三井物産はチェコから買い付けをしシベリア鉄道を利用し輸入しました。(チェコの生産高は1937年で95トン程度で、ドイツはイタリアとスペインから充分な量を入手出来たのだからこそ、日本に送ることができたのでしょう。)とにかく、開戦前日本はかなりの量を備蓄していました。

 日本での水銀の生産状況は、1925~45年の間、北海道および日本南部に集まる20鉱山で生産されました。国内生産量は、1925~45年の間の輸入量のわずか14%に過ぎません。消費量は1930年に、約300トン1941年にピークを迎え1400トンでした。

  水銀生産量、輸入量および輸出量(トン)

 年次  鉱山生産量   輸入量  輸出量
1938       25    400   13
1939       50    500   30
1940       120    700   30
1941       150    1300   50
1942       180    20   50
1943       230    270   36
1944       240    12   20
1945       100    0.1    5

 1935年までは、奈良県の大和鉱山のみが経済的な重要性を持っていました。1935年以降は、北海道の鉱山が重要性を持ち始め、昭和14年生産を開始したイトムカ鉱山は1925~48年の間の日本の生産量の70%以上を生産しました。

 昭和11年11月北海道は大雪の山で大暴風により大量の風倒木が生じました。この風倒木を建築材として搬出するため馬曳き道が作られました。この馬曳き道から赤褐色の重い角の取れた石が点々と出てきました。この石を鑑定したところ水銀含有量80%という水銀鉱石だったのです。

 昭和14年4月ヤマト鉱業株式会社(後の野村鉱業イトムカ鉱業所)設立
 昭和14年5月開発に着手
      9月自家発電設備完成   
        精錬レトルト炉完成 水銀生産開始
     10月元山精錬ヘレショフ炉建設着手
     12月ヘレショフ炉完成

 採鉱は露天掘りで精錬自体もけして難しいわけではなく、ただ精錬時に発生する水銀蒸気による水銀中毒が防毒設備の不備の為、問題となりました。
 イトムカ鉱山水銀生産量(トン)
  昭和14年  10
    15年  75
    16年  125
    17年  140
    18年  175
    19年  190
 と世界的にも有数の鉱山で日本の戦争継続に多大の寄与をしました。というより、もしイトムカ鉱山が見つかっていなければ日本の工業生産はいったいどうなってしまったのでしょうか。

引用・参考文献
 「史料集 南方の軍政」
  昭和60年5月25日発行 朝雲新聞社

 「大東亜の特殊資源」編者 佐藤 弘
  昭和18年9月1日発行 大東亜出版株式会社

 「日本の鉱物資源」連合軍総司令部 経済安定本部資源調査会訳
  昭和26年12月25日発行 時事通信社

 「軍資秘 昭和十八年八月二十五日
   水銀緊急増産対策特別企業化調査報告書
     甲班 野村鉱業株式会社調査部   」

 「イトムカ史」 留辺蘂町イトムカ史編集委員会
  2001年2月発行

国歌斉唱

 今日は娘の中学の卒業式だった。開式の言葉の後、校長先生が

 「国歌斉唱です。」

と呟き、壇上のCDラジカセのスイッチを自分で押した。生徒の内、娘を含め三人だけが立ちあがり、家族では家の夫婦ら数人、先生では娘の担任だけが立ちあがった。さすがに、親が親なら子も子、親が親なら担任も担任である。まあ、そんなことはどうでもいいだのだが、私が怒りを覚えたのは、なぜ校長先生がCDラジカセのスイッチを押すなど、情けない事をしなけれがならなかったことである。「君が代」を公の場で歌わせよう、聞かせようと思ったのであれば、それを主導した人間たちが生の演奏でプロの歌声を聞かせようなどと色気のある計らいをなぜ考えないのであろうか。アナタタチハナニヲカンガエテイルノデスカ。
 卒業式の中で、先生達が「サンダル」を履いているのを見かけたのだが、先生達は日頃どのように生徒の服装について指導しているだろうか。服装について注意している時、先生の足元を指差したら、なんと答えるのであろうか。アナタタチハナニヲカンガエテイルノデスカ。
 ということなので、午後から図書館に行きネタを拾いにいった。世の中にはまだまだすごい事を書いた本達があった。

酔眼、世迷言

 月に一編も書けない日記なんて、この世に存在していいわけがない。でも書けないモノはしょうがない。すべては私が悪い。会社が悪い。

 大戦中の日本航空燃料話において、「南方の原油は高オクタンの燃料を作るには適していない。」とか「南方の原油は高含蝋なのでハイオクタンの燃料を作るには向いていない」などと聞いたことがあると思う。私もサモ知っているかのように語っていたが、実は、化学的にも、技術的にも裏を取っていたのではない。
 世の中に出まわっている本の中でも、これらの記述が見られるが、本当に理解して書いていた人物がいたとは、とても思えない。書くからにはチョットは調べたほうがいいのである。(銭を取るからにはある程度の真実があったほうがいい。私はお金を取っていないので、嘘を書いてもかまわない)

 「南方の原油は高オクタンの燃料を作るには適していない。」

 南方の原油といっても色々あり、重いの軽いの、硫黄分の多いの少ないの、南方の原油などと一言でまとめる事自体、そもそも無理がある。
 こんな事を言ったり、書いたりしている人間は、本当はすべからく私を含めて石油に対して無知なのである。
 昔、書いたことがあるのだが、パレンバン第二製油所傘下の油田は重質油が多く、航空燃料の収率が良くないのだが、パレンバン第一製油所傘下の油田では、直溜で50%を超える収量を誇る所も在り、航空燃料に向いていないだとは、実は口が裂けてもいえないのである。
 スマトラ島だけではなく、海軍の支配下にあったボルネオ島でもタラカン原油に幻惑されて勘違いされている分もあるが、軽質油に富んだ油田も存在するのである。
 そもそもこの話には裏があるのではないかと私は考えている。高オクタンの航空燃料を製造するのであれば、多少は影響するが、直溜で得られた軽質油のオクタン価など余り重要ではないのではなかろうか?
 そもそもこの時期、配合用の高オクタン価の燃料は、原油の蒸留とは違った製法で作られていたのである。これらの製法を自分の物に出来なかった日本航空燃料製造関係者、特にやたら自信があるが実際にはアメリカに逆立ちしても追いつく事が出来なかった海軍燃料関係者が自分達の力の無さを隠す為に、南方の原油は高オクタンの燃料を作るに適していないと言わざるをえなかったと考えるのは、今、私が酔っぱらっているせいであろうか。

 「南方の原油は高含蝋なのでハイオクタンの燃料を作るには向いていない。」

 蝋ことパラフィン(石蝋)は戦前日本が輸入していたカリフォルニア原油にはほとんど含まれていなかった。南方特にスマトラ産の原油の一部にこれをたくさん含有した油田があり、脱蝋装置の充実していなかった日本の石油精製設備では処理しきれなかった。
 しかし、原油を蒸留した場合、蝋は重質分に残り、航空燃料になる軽質分には入ってこないのである。つまり、蝋と航空燃料の製造の間には実は何の因果関係もないのである。
 日本の製油所では高含蝋の原油を処理する場合、蝋の為、流動性が無くなるので配管に加熱装置を付けなければならない。また、製油所に脱蝋装置がない場合、製造された重油は流動性を失い缶用重油として使うのであれば、タンクや配管に加熱装置を付けなくてはならないのである。(ここで一部勘違いされている方もいると思うので書いて置くが重質油と高含蝋油とはまったく違うものである。重質油とは流動点が高い石油をいうのであって蝋分とはまったく関係ない)
 ボルネオ島にあった海軍支配下のバリックパパン製油所ではパラフィンを原料として高品質の航空機用潤滑油を生産していた。日本では中々得られなかった航空機用潤滑油、欧米ではこうして作っていたのである。陸軍はこの装置を羨望の眼差しで見ていたと言う
(戦時中、北海道の留萌市で滝川市の人造石油工場で生産されるパラフィンを使用し航空機用潤滑油を生産しようと研究所が置かれ、工場の計画があった。人造石油製造、石炭乾溜などで必ずパラフィンが生産されるのである。しかし、日本では航空機用潤滑油製造までは至らなかった。蛇足)

挫折

 最近、このひなびた北海道の隠れ里の挫折振りを笑う者がいるという,実に嘆かわしい事である。これはきっとアレである。去年の夏に千歳空港に置き去りにした事を、根に持っているのであろう。さすがに都会で「一流の研究者」と言われる人間は違う。この首差し出して許しを請うたのだが、案外「執念太い」 
 それに比べて国本様の人間の大きさ。何事も無かったかのようにメールを送ってくださる。そこで、今回はかの偉大な人物についての、とってもヒューマンなお話を書こうと思う。これは実話である。

 去年の春、困窮に疲れた生活を打開すべく行われた「東京出稼ぎ」も終わり、その夜の上野発札幌行夜行列車に向かう途中、一度だけご尊顔を拝し奉ることがかなった国本様に恵比寿の駅に呼ばれた。しばし歓談の後、ホームにて国本様はこうおっしゃった。
「プリンス、どうせ土産を買う金もないのであろう。ご家族にこれを持って帰りなさい。」(シブイ!)
 差し出されたのは富士の裾野の「戦車煎餅」だった。
 列車から遠ざかる東京の町並みがゆがんで見えたのは、その時急に降り出した雨のせいじゃない。(なお恵比寿で酒代を恵んでくれた人物もいたのだがそれはソレである。)

 挫折と言えば当コーナーのチーフディレクターである小笠原様、プリンスを誤解していたようである。我が陋屋は小笠原様のお宅とおそらく数キロしか離れていないと思うのだが、なぜかお会いした事が無い。当コーナーの開設に当り、一般人であれば当然理解できるであろう「書き込みの仕方」をメールでご教示いただいたのだが、さすが常人とは違うプリンスさっぱり分らないのである。ヨコハマ造船所の「ふりげいと様」が「プリンスさん。メール出せるようになったんですね。」と感動したのは、ほんの数ヶ月前だったのである。携帯電話未だにメールの使い方がわからない。
 と言うことで小笠原様が匙を投げると「座敷牢」は消滅するのである。

付録その5

「昭和二十年 第一部=9
        国力の現状と民心の動向」
    著者   鳥居 民
    発行所  草思社
    発行日  2001年12月25日発行
    定価   2600円
 
 新ネタを拾いに行く時間は取れないが、本屋に立ち寄る時間と、本を読む時間だけは、なぜか有る。シリーズ化されているこの本も、私にはずいぶん参考になる。百何十万の人口を抱えていても、所詮「人の住むところではない土地の都」、図書館に行っても、やはり限度はある。この本の引用文献を見ていると「こんな本もあるのか」「こんな解釈の仕方もあるのか」とつくづく考えさせられる。

 この本では昭和20年を舞台に日本の鉱工業生産について語り、後半、当時の食糧事情について触れている。鉱工業生産では、石炭、製鉄、アルミニウム、航空機エンジン、木製機について書いている。私なんぞただの遊びで書いているが、これでお金を貰っている方はやはり違う、分かりやすいのである。しかし、この方面に興味を持っている人間は似通っているのであろうか、アルミニウムで「味の素」を取り上げているのを見たら、思わず笑ってしまった。

 この本で興味を引かれたのは「樺太の林産油」の記述である。松根油はよく知られているが、実は松葉からも松根油に似たテルペン類が抽出できるのである。私の知っている範囲でも、北見市の「美里開拓史」や北見市農協「組合のあゆみ」に「松葉油」採取の話がある。松葉油とはトドマツの葉をハッカ用(ハーブ。あのス~とするやつである。昔は北海道の十勝地方が産地だった。)の釜で蒸して油を採ったものである。樺太の場合は王子製紙のパルプを作る釜を利用し、どちらかと言うと、工場生産といえるべきものなのだ。「林産油」「松葉油」は、燃料史や燃料廠史などにも触れられていないので、ご存知ない方も多いと思う。私自身も航空燃料との関連がはっきりいってよくわからない。

 せっかく樺太の王子製紙について書いたので、チョット付け足しておくが、戦前、戦中の燃料に関して非常に興味深い生産をここで行っている。木材をパルプにする過程で廃液がでるのだが、この中には糖類が含まれている。この廃液をアルコール発酵させエタノールを生産していた。
 台湾や南洋群島での廃糖蜜を利用したエタノール生産には及びもしないが、量もかなりあり、当然時期的にも自動車ガソリンなどに使用されていた。

 アルミニウムの生産の記述の中に、「礬土頁岩からのアルミ生産が、苦労を重ねたわりには、低品位のものしかできなく、生産量もとるに足りない。」とある。確かにそう言われてしまえばそうなのだが、満州である程度まともな物を生産した所が実はあった。また、明礬石でも、元々昭和電工の初期のアルミニウムはこれを材料としており、ボーキサイトに材料を転換したのは、資源の枯渇と採算が悪かったせいだ。けっして日本にボーキサイト以外の材料によるアルミ生産の技術的蓄積が無かったわけではない。

 大正13年、満州の煙台で礬土頁岩が発見され、満鉄での製錬法の研究がすぐに着手された。長い研究、試験の後、昭和11年撫順にアルミニウム年産4000トンの(株)満州軽金属製造が設立され、昭和13年に初のインゴットを産出した。(株)満州飛行機製造が陸軍の二式高等練習機を3710機などと、日本ではトンデモナイ生産量を上げられたのも、実は満州の礬土頁岩のおかげだったのである。終戦前の航空機製造設備の満州移転も、実はここのアルミに期待するものだったのだ。(軽金属といえばマグネシウム合金があるが、満州、朝鮮はマグネシウムの鉱石マグネサイトの宝庫だった。当然、金属マグネシウムも精錬されマグネシウム合金も作られていたのだが、プリンスは無知なので当時の航空機にどのようにマグネシウム合金が使われていたか知らない。もし、「可哀想」に思った人がいたなら教えなさい。)

 (株)朝鮮窒素は全羅南道の明礬石に着目し、1931年からアルミ生産の計画を開始し、製造試験を実施し、途中、空白期間はあったが1939年には年産8000トンのアルミナ工場を興南に完成させた。2年後、月産500トン前後の生産を上げられるようになった。このように、アルミニウムも材料さえあればそれなりの物は生産できたのである。

 なお、これらのお話も後半に出てくる「学童疎開した子供たちの食事の献立」の前にはゴミみたいなものだ。

引用・参考文献
「酵母利用工業ー微生物工学講座4」
    昭和39年  共立出版
  「アルミニウム50年史」 昭和電工
  「忘れえぬ満鉄」
    昭和63年7月25日発行 世界文化社
  「満鉄調査部ー関係者の証言ー研究双書特2」編者井村哲郎
    1996年3月29日発行 アジア経済研究所
  「日本航空機総集 第七巻」編著者 野沢 正
    1980年1月20日発行 出版協同社
  「朝鮮における日窒コンツェルン」
    1985年10月15日発行 不二出版

 訂正

 「Uボート総覧」の中で、「ドイツ戦車の転輪が完全鋼製化されゴムが使用されなくなった。」と書きましたが、「大家さん」のご指摘によりゴムが使用されていることが分かりました。ここに訂正してお詫び申し上げます。ところで、「大家さん」はどうして、こうなんでも知っているのでしょうか?一度、お会いしてじっくりお話を伺いたいものです。

日本一の大砲の権威との最初の出会い

 最近、ネット上ではいろいろな犯罪がはびこっているらしい。身近にも「うさぎちゃん」を餌にして、中青少年をたぶらかそうという性質の悪い輩が徘徊している。今回、そのような者の毒牙に読者がさらされぬように教訓的な話を私はしようと思う。これは全てお話であり、フィクションだ。登場人物も実在しない。このお話の登場人物は二人で、一方を「日本一の大砲の権威」と言うが、くどいので「課長」と呼ぶ。もう一方を「P」と呼ぶ。はっきり断って置くが、あくまでも教訓的寓話である。
  
 話は、古道具屋でそこのおばちゃんに、Pが92式10加の薬筒と思われる物を「どこにでもあるゴミだ。」と買い叩いてきた事から始まる。
 Pは薬筒が本物だと思っていたのだが、確認を取ろうと課長のHPの掲示板に質問した。

P 「92式10加の薬筒の長さと重量を教えてください。」

課長「それはこうです。あなたの持っている物は日本の物とは思えません。」

P 「課長の示した長さは米軍の10榴の薬筒の長さ似ています。長さが倍以上違います。なによりカタカナが書いてあります。」

課長「ん。アンタ、なんでもいいからその写真を送りなさい。」

 Pたまたま上京、課長に電話

P 「あの写真をお持ちいたしました。どこにお届けしましょうか?」

課長「アンタ、なに防研に行くの。じゃ、そこにしよう。ところで、アンタ何を調べたいの?」

P 「はい、日露戦争中に日本に捕獲された海上封鎖突破船について調べたいのですが。」

課長「それはね、部屋のどこそこ、ん、アンタ、メモしてんの。あそこはね、アンタ、アンタみたいなド素人が行ったって何がどこにあるか全然わからないんだよ。私の話を聞かなければ、アンタ、1日中あそこにいても何にもさがせないよ。」

P 「すいません。すいません。すいません。」

課長「ところで、他に何を調べたいの?」

P 「ハイ、大阪造兵廠とオグラ造兵廠の大砲の生産量を調べたいのですが?」

課長「ん、アンタ、漢字も読めないの。オグラじゃなくてコクラ。アンタ、本当に何しに行くの。」

P 「すいません。すいません。すいません。北海道の田舎者なもんで・・・・・・」

 課長は最近Pが座敷牢を書いてるのを知ったらしい。