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マライ製鉄所

 「大正・昭和林業逸史 上下巻」編集林業経済研究所
   日刊林業新聞社 昭和47年10月20日発行

 まあ取り合えず妖しい本は開いて見る事。そうすればきっと良いことが。

 見るからに皆様の関心を呼ばない本の題名ですが、なにがなにが恐ろしい事が書いてありました。
 ①戦時中のニューギニアでの木材製材の様子。
 ②立川飛行機会社でのキー106での接着剤の失敗談。
 ③台湾の京大演習林でのキナ樹(キニーネの材料)の栽培と採皮。  (前に書いた塩野義製薬の話とはニュアンスが違います。)
 ④南洋群島での木材資源、造林などの様子。
 ⑤枕木の製造(防腐処理)の仕方。(これにはクレオソート油を使用  します。クレオソート油は石炭コークス製造時に副生するもので、  戦前は日本でも多量に取れ、アメリカに輸出されていました。戦時  中は製鉄所の平炉などで燃料として使用されました。)
 ⑥朝鮮半島での松根油の生産、菊芋(アルコールの原料)の栽培。

 そして、最大の収穫は
 「戦時マライ半島の日本製鉄製炭事業」 山崎泰義
 でした。
 座敷牢で書いた「秘密の製鉄所」、あれは日本鋼管での話でしたが、これは日本製鉄(現在の新日鉄)のマレー半島での製鉄とそれに使用した木炭の製造の様子を書いたものです。
 日本製鉄のマレーでの製造計画は占領後すぐに始まり、昭和17年7月には陸軍次官通牒により日鉄あて「マライにおける木炭銑企業化調査を担当せしむ」の正式指令が下りました。昭和18年3月陸軍省より正式の指令がおり事業化が進められました。タイピン市郊外に木炭銑製造設備(25トン炉2基、年産15,000トン)イポー鉄山より鉄鉱石、石灰石。ブフ付近に自営製炭所を持つもので「マライ製鉄所」と呼ばれました。
 また、製鋼も計画されクランに平炉設備・圧延設備が建設されました。平炉は小倉製鋼の25トン平炉3基移設、厚板は寿重工業の大津工場、薄板は八幡その他より各一連移設されることになりました。
 「日本製鉄社史」によれば終戦時までの作業の経過は次ぎのようです。
  タイピン作業場
 木炭銑25トン第1炉は昭和19年2月。第2炉は10月、また3トン電気炉第1炉は昭和19年7月、第2炉は11月に火入れを行った。また木炭窯は、208基のうち197基の完成をみた。
  クラン作業場
 25トン平炉1基は資材の大部分が到着し、建設進行中であったが、第2、第3炉は未着手であった。厚板設備は機械が大部分到着したが、ロールが未着のため未完成、薄板設備は資材12%が輸送済のまま未着手であった。鍛圧工場は水圧プレス、スチーム・ハンマーとも現地調弁で工事中であった。鋳鋼工場も建設準備中、発電所は現地日本発送電会社保管のものを解体し、建設中であった。そのほか。木炭溶鉱炉15トン2基、木炭窯とも建設途上にあった。
 とあります。
 「林業逸史」には各炉での材料使用量、生産量、木炭製造量、木炭買炭量(木炭、自家生産では足りない為、三井物産が現地の民間で焼かれたマングローブ炭を購入し、供給しました。)が詳しく記載されています。また、生産までの過程、生産状況、終戦後の様子、「社史」には触れられていない事業計画などなかなか興味深いものがあります。
 なお終戦までの銑鉄生産量は6,200トン、木炭製造量5,400トン、木炭買炭量11,600トンでした。銑鉄は鋳物用として現地で使用されたようです。
 「日本製鉄社史」と「林業逸史」を合わせて読むことで鮮やかにマライ製鉄所の姿が明らかになります。

   最近読んだ本
 「東京セブンローズ(上)」井上ひさし 文春文庫

休日

半月ぶりのお休みです。今日は近隣の図書館探訪に行ってまいりました。
まずは恵庭市立図書館、観光ガイドでは17万冊を収蔵となっていましたので、どんな物かと思い行ってきました。
「すいません。企業社史を見たいのですが、どうやって検索したらよいですか?」
「残念ですが、そのような分類はしておりません。関連するような物を私が捜してみましょう。」
親切な館員さんだった。ありがとうございました。
 続いて千歳市立図書館。さすが飛行場と自衛隊の街、飛行機だけで1コーナーを設けています。ここに住んでいればアノ本やコノ本も買わずに済んだのに。
「すいません。企業社史を見たいのですが、どうやって検索したらよいですか?」
「ハア?」
「企業の社史って分ります?」
「ハア?」
「もういいです。」
どうも今年入ったばかりのアルバイトの方のようでした。人間辛抱。

潜水艦とミシン

大戦中、技術的に遅れていた日本は、ドイツからいろいろな技術、機
械、兵器の導入をはかります。これらの手段として
 1、シベリア鉄道
 2、通信(無線、有線?)
 3、Uボート(イタリア潜水艦も含む)
 4、訪独潜水艦
 5、柳船
を使用しました。
 これらについては関係者が断片的に語っているのですが、秘密のベー
ルの下で消えていった事も多く、全体像を把握することは不可能だと思
われます。よくまとまっているものとしては、鳥居 民氏の「昭和二十年第一部=6」中の(日独両国はどれだけ助け合ってきたのか)の記述
があげられます。
 世間一般に、Me210A-1、Fw190A-5などの航空機、「飛燕」に搭載されたマウザー20㎜機関砲、800丁とその弾薬40万発などUボートで輸送されたと言われています。これらの輸送経緯、関係者の証言を見たことがないので真偽の程は定かではないのですが、明らかに思いこみか、関連した事例と勘違いしたのか、防諜上の理由からか事実と異なる記述があります。別にこれ自体がどうということはないわけで、むしろ、これらの記述により大戦中、ミシンすらドイツから導入しなければならなかったという事実を明らかにしたことに重要な意味を持つと思われます。

 軍需用縫製品は種類は広範囲にわたり、軍帽、軍服、下着、ゲートル等の装具から皮革、落下傘その他すべての縫製は、一つとしてミシンに拠らないものはない。

 軍需用縫製品、単純なものであれば家庭用(民生用)の足踏み式ミシンで一向に構わないのですが、厚物(帆布)、皮革、長大な物、オーバーロック、眠り穴かがり、千鳥縫、丸穴かがり、縁かがり(全然分りませんので自分で調べてください。)などの作業は、工業用(動力)ミシン、特殊ミシンでなければだめなのだそうです。これらは戦前ほとんどを輸入に頼り禁輸処置をとられ慌てて国産化を図ったようですが、その当時の国産機械に共通した問題を抱え、ドイツから技術導入を必要としていました。
 これらの当時の状況を蛇の目ミシン(戦前は帝国ミシン)の社史中に書いてありますので紹介します。

   工業用ミシン裏話
 戦時の「工業用ミシン」にはいろいろと隠された裏話がある。
 陸軍被服廠、海軍衣糧廠で使用されていた工業用ミシンのほとんどは
ドイツ、アメリカなどの外国製品に限られていた。太平洋戦争勃発後は
シンガーを「敵産」とよび、そのマークを黒く塗りつぶして使用してい
たが、輸入が杜絶し、在庫品が底をついて、いきおい工業用ミシンの補
給を国産ミシンに依存せざるをえなくなった。
 当時、一、二の専門メーカーを除いて、工業用ミシンの開発が遅れて
いたことは事実である。技術、資材の貧困さもあって、当初は動力で高
速運転を行なうと、直ちに故障が続出し、その都度関係者は軍当局に出
頭を命ぜられて叱責を受けた。
帝国ミシンも例外ではなかった。この軍当局との折衝には工藤と共に
前田増三があたったが、ここでも前田は一歩も譲らなかった。
 「軍は事変以来、国家総力戦を叫んですべての物資を軍需に投入し技
術援助、増産に力を入れてこられたが、こと「ミシン」に関しては、国
家からなんの助成もあたえられなかった。それを今になって、軍は工業
用ミシンの製造を強制し、そのミシンが粗悪で使いものにならぬとお叱
りをうけるのは、あまりに片手落ちの仕打ちである。
 もし軍が、ミシンを軍需兵器の一つと見ておられるならば、良質の資
材を最優先的に配給してもらたい・・・・」
 と反駁した。
 以後、軍の国産工業用ミシンにたいする認識が改まり、資材その他の
扱い方が一変したという。

 太平洋戦争のさなか、海軍では枢軸国ドイツから最新兵器V1号の設
計図を入手するため、極秘裏に二隻の潜水艦をドイツに派遣した。この
V1号というのはドイツ軍が開発した画期的な遠距離用ロケット弾で、
当時、ドーバー海峡をへだてて英国の首都ロンドンを直撃し、ロンドン
市民を恐怖のどん底に陥れたドイツ軍自慢の兵器であった。
 帰途、一隻の潜水艦はインド洋で連合国側に撃沈されたが、辛うじて
難をのがれた他の一隻の艦中には、V1号の設計図のほかに、ドイツ・
アドラー社製の工業用、特殊ミシン数十台と大量の工業用ミシン針が積
荷されていた。海軍衣糧廠は国産工業用ミシンの生産が追いつかないた
め、これに便乗したものと思われる。
 輸送したドイツミシンの中には、厚物縫動力ミシンの他に皮革縫製用
鳩目穴かがりなど十数種の特殊ミシンがあった。これらのミシンは海軍
衣糧廠から帝国ミシンが委託され、蒲田工場で調整点検を行なったのち
改めて当局に納品したが、以後の修理調製もすべて帝国ミシンの担当す
るところとなった。
 V1号ロケット弾については、まもなく終戦を迎え、ついに実現をみ
なかった、といわれる。
    (前田社長談)

 伊30潜、伊8潜、伊29潜のドイツからの積載品を見ても、ミシン
の名前はありません。当時訪独潜水艦には、緊急度、重要性の高い物、
そして容積、重量が小さい物が厳選されて載せられていたのです。それ
には、ミシンは該当しないのでしょう。しかし実際に、工業用、特殊ミ
シンは数十台ドイツから持ちこまれています。それは、おそらく「柳船」
のおかげだと思われます。工業用ミシン、大型の物であれば潜水艦のハッチを下ろす事が出来ないでしょうが、貨物船であれば何の問題もなく搭載出来ます。そして何よりも万が一連合国側に捕獲されても、機密性のある物ではないので載せられたのでしょう。「柳船」は日本に何をもたらしたのか?私にとってはとても興味深い問題です。(ところで、昭和18年ドイツ占領下のフランスから出港し、日本占領下の南方地域に到達したイタリア潜水艦3隻、Reginaldo Giuliani,Comandante Caperllini,Luigi Torelliはいったい何を運んできたのでしょうか?)

 引用・参考文献
 「蛇の目ミシン創業五十年史」蛇の目ミシン工業株式会社
  昭和46年10月16日発行
 「昭和二十年 第一部=6 首都防空戦と新兵器の開発」
  鳥居 民 草思社 1996年8月5日第1刷発行
 「日本航空機総集 第六巻 輸入機篇」野沢 正編著
  出版協同社 1972年1月25日初版発行
 「丸 1997、1 訪独潜水艦が生んだ「魚雷艇用エンジン」秘聞」
  小菅 昭一郎

 訪独潜水艦の積載品一覧を見ていると、今までここに書いてきた事に
関連した品物がいくつか出てきました。(もっとまじめに調べんかい!)
例えば「マラリア」の薬では伊52潜がドイツに運び込もうとしたキニーネ3トン、伊8潜がドイツから持ちかえったアテプリン錠349万錠、そして伊8潜がボールド5個とボールド射出装置を装備して帰ってきました。

 最近読んだり眺めた本
 「儲かる古道具屋裏話」魚柄仁之助 文春文庫PLUS 2001年
 「戦時期航空機工業と生産技術形成」前田裕子
   東京大学出版会 2001年6月15日初版
 「わが国航空の軌跡 研三・A-26・ガスタービン」
  日本航空学術史編集委員会 丸善 1998年10月1日発行

電探台

 そろそろヤリイカと春ニシンが美味しい季節になってきたので、積丹
半島にドライブにでかけた。積丹半島の突端、神威岬、展望台の上に何
やらコンクリートの基礎が見えた。こういう所にある建造物はおよそい
かがわしい物であると相場が決まっているので、近づいて見ると金属の
銘板に由来が書いてあった。「電探台」この地は日露戦争の頃はウラジ
オ艦隊、バルチック艦隊の来寇を見張り、大戦中は電探、無線所を構え
米ソはたまた海と空、監視していたのである。それにしても、街は遠い
し、冬は日本海の強風が死ぬほど寒そうだし、こんな所では勤務したく
ないものである。ただし、岬を下ればウニと蝦夷アワビがウジャウジャ
いそうだし、積丹沖最高級の本マグロが取れる。

チョコレート補足

 ココアバター(カカオ脂)代用品「ラミオール」何処かで見たと思っていたがやっと思い出した。
 「ライオン油脂60年史」ライオン油脂株式会社
   昭和54年12月20日発行
 当時北海道において多獲されるスルメイカの加工時に(当然スルメを作るのです。)その魚体の20%にあたる多量の内蔵が廃棄されていた。昭和15年当社はこの廃棄されていたイカの内臓から採油に成功、イカ油から塗料用乾性油、代用カカオ脂、代用牛脂脂肪酸、コレステロール等の製造が可能であることを明らかにした。
 イカ油の採油精製が開始され、代用カカオ脂(商品名ラミオール)は戦時中航空糧食であったウイスキー・ボンボン用のチョコレート代用として使用されたが、のちに醤油油からも製造された。

 ここ数日の読書
 「日本における書籍蒐蔵の歴史」川瀬一馬 ぺりかん社
 「古本屋おやじ」       中山信如 ちくま文庫
 「文人悪食」         嵐山光三郎 新潮文庫 

チョコレート

 「日本チョコレート工業史」の戦時中の話を読むと中々興味深いもの
があり、特にカカオの代用品で作ったチョコレートがとても面白かった
ので紹介します。チョコレートなど職場に幾らでも転がっていて、珍し
くも無いのですが、戦時中のチョコレート生産については知る由もあり
ませんでした。

 まず初めに、チョコレートの作り方など書いておきましょう。南米原
産のカカオの木から取れるカカオの実、その中にカカオ豆(カカオビー
ンズ)があります。
 1、カカオの実から取り出したカカオ豆を発酵させます。
 2、乾燥
 3、ロースト(焙煎)
 4、磨砕(カカオ豆には約55%の油脂分が含まれます。この油脂分
   をカカオバターといいます。磨砕したものをカカオマスといい、
   カカオマスから適度のカカオバターを除いた物をココアというの
   です。)
 5、混合(カカオマスに砂糖、カカオバターを加え混ぜ合わせます。
これがスイートチョコレート。これに粉ミルクを加えたものがミ
   ルクチョコレートそしてカカオバターに砂糖と粉ミルクを加えた
   ものがホワイトチョコレートになります。)
 6、微粒化
 7、コンチング(精錬)
 8、テンパリング(温度調節)
 9、成型
というのが製造の概略です。

 大正7年、森永製菓が日本で初めてカカオ豆から一貫製造したチョ
コレートを工場生産で作りはじめました。
 戦前、台湾で森永製菓がカカオの木を栽培し、カカオ豆をごく少量
を自給しましたが、ほとんどを南米、アフリカからの輸入に依存して
いました。
 昭和15年12月薬用カカオバター用として輸入されたコスタリカ、
ヴェネズエラ、ドミニカ産カカオ豆29,660kgを最後として昭和25
年5月迄カカオ豆の正規の輸入はありませんでした。(軍需用とくに
陸海軍の航空糧食として、正規の外貨割り当て以外で南米から開戦ま
で購入されていた可能性があります。カカオバターは座薬、軟膏の基
剤として使われます。)

 昭和16年8月、日本チョコレート菓子工業組合と日本ココア豆加工
組合は、国内に代用資源を求めて、それによりチョコレート代用品を作
ることを必要と認め、「ココア豆代用品研究会」を作り、関係各社でそ
の研究を始めました。そして同年12月「チョコレート代用品研究報告」
をまとめました。

 カカオバターの代用品として
 ①ラミオール(ライオン油脂株式会社製品)
  醤油油(醤油製造に丸大豆を使用した場合、大豆の油脂分が分離し
  てでてきます。これを醤油油といいます。なお言うまでもないこと
  ですが醤油は油ではありません。)の硬化油(硬化油とは油脂を反
  応筒で水素添加を行ったもので人造バター、ショートニングの原料
  となります。)
 ②大豆エチルエステルの硬化油(第一工業製薬株式会社製品)
  満州で大量に取れる大豆から作ったものです。
 ③椰子油の脂肪酸のグリコールエステルの硬化油(旭電化研究中)
  南洋諸島など日本の支配下地域での椰子油に期待した物でしょう。
 ④イソカカオバター(大日本油脂株式会社製品)
  これも椰子油の硬化油です。
 ⑤ヤブニツケイ脂
  九州以南、台湾に野生するヤブニツケイ樹の実から取れるものらし
  いのですが、生産量は甚だ少ないらしいです。

 カカオマスの代用品として、百合球根、チューリップ球根、オクラ豆
脱脂大豆粉、決明子、チコリ、菊芋、蕃仔豆、脱脂落花生粉、小豆、大
麦、甘藷、馬鈴薯等が挙げられていますが、そのうち、生産量や他の用
途と競合することなく使えるのは以下の6種だと書いてあります。
 ①百合球根
  鉄砲百合、山百合、鬼百合、姫百合、笹百合等その種類は58種類
  におよび長崎県、鹿児島県、佐賀県、埼玉県、新潟県、沖縄県、千
  葉県、群馬県、兵庫県が主要な生産地で、昭和13年に収穫量5360
  万球、その内3590万球を英米その他に輸出していました。当然
  輸出は途絶し、転作またはコーヒー代用として使われました。
 ②チューリップ球根
  富山県、新潟県、京都府が主要な産地で年産は約320トンでした。
 ③オクラ豆
  錦葵科(ゼニアフヒカ)に属する1年生草木の種子。
 ④脱脂大豆粉
  大豆から、大豆油を抽出し皮を取り除き、粉末にしたもので、きな
  粉臭さがあり使用量に限度があります。
 ⑤決明子(けつめいし)
  決明、望江南、山扁豆の種類、エビスグサの種子、漢方薬
 ⑥脱脂落花生粉
  国内では落花生は千葉県、神奈川県、静岡県、鹿児島県、茨城県が
  主用産地で昭和13年約440トンの生産量があり、中国でも大量
  に取れます。約50%の油脂分を含み、これを抽出し、なお発酵によ
  り独特の臭いを取り除かねば使えないようです。

 そして、もっとも適当であると思われた配合は
                   第1案       第2案
1、百合球根またはチューリップ球根  30%      30%
1、決明子またはオクラ豆        20%      30%
1、脱脂大豆粉または脱脂落花生粉   50%      40%
      合計           100%     100%
だそうです。
 ただし、カカオマス中に含まれるテオブロミンが代用品の中には当然
なく、興奮作用、強心活性などのチョコレートに得意な作用はありませ
んので航空糧食などには使えません。また、代用油脂も消化が良くない
ようです。
 戦前から、蘭印ではカカオの栽培がプランテーションで行われていま
した。生産量は余り多くなく1940年で1550t程度でした。現地
でこれらの農場そして製菓工場を接収した日本軍は、次ぎのように民間
会社に製造を委託しました。
 
 森永製菓は昭和17年10月に、陸軍の要請により、要員50名をジ
ャワに派遣、一部チョコレート機械を同社鶴見工場より輸送し、チョコ
レート関係において、ジャワ最大のテンワルデ・チョコレート工場(ス
ラバヤ市)を管理、経営し、そのチョコレート製品は主に航空糧食とし
て、軍に納入した。
 更に同社は18年12月に、海軍の委ゾクを受けて、要員7名を、ジ
ャワ、スバラヤ市に派遣、前記テンワルデ工場の製品を海軍航空、艦船
部隊等にも納めた。
 明治製菓は、同じく陸軍の要請により、昭和18年12月に社員7名
をジャワに派遣、バンドン市所在のオリンピア製菓工場を指導経営し、
軍の需要に応えて、チョコレート等の製造を行った。主として陸海空軍
の糧食及び甘味品としての板チョコレートの製造に当ったもので、熱帯
地方において溶けないチョコレートは、特殊な方法により、既にこの時
代から作られていた。(純粋なチョコレートは28~32℃位で溶けま
す。つまり売っているコンビニ等のチョコレートは本当は・・・・) 

 なお参考までに1998年、年間日本人一人当りのチョコレート消費
量は1.62kgです。

  引用・参考文献
 「日本チョコレート工業史 附チョコレート及びココア」
   日本チョコレート・ココア協会 昭和33年1月15日発行
 「PCG 2001、12 特集.チョコレート」
   協同組合全日本洋菓子工業会
 「PX Vol No1、No2、日本陸軍航空隊のパイロット食
   高橋 昇」KKワールドフォトプレス 昭和61年
 「明治製菓二十年史」明治製菓株式会社
   昭和11年4月1日発行
 「森永五十五年史」森永製菓株式会社
   昭和29年12月20日発行
 「森永製菓一〇〇年史」森永製菓株式会社
   平成12年8月15日発行
 「天然食品・薬品・香粧品の事典」朝倉書店
   1999年7月10日初版第1刷
 「天然薬物事典」廣川書店
   昭和61年4月15日第1刷発行

鹵獲機

印度総督様の日記を拝見していたら、
 「日本軍鹵獲機秘録」編者 押尾 一彦/野原 茂 
  光人社 
 が発売されたと在ったので、古今東西を問わず「鹵獲兵器」大好き人
間であるプリンスさっそく書店に買い求めに行ったのだが、さすが僻遠
の地発売されている訳もなく、昨日やっと入手できた。P-40の日本
陸軍での第一線での使用、押収・鹵獲の機関銃/砲による対空火器の増強など初めて知ることもあり、それなりに面白かったのであるがもう一つピンとこないのである。これはこの本が悪いのではなく、関西遠征で入手した本のせいなのである。
 「航空朝日 第三巻第九号 大東亜戦の航空技術」(昭和17年)
 「航空朝日 第四巻第二号 鹵獲敵機の研究」  (昭和18年)
これはすごかった。写真も多いし、日本側の飛行テストの結果もある。
解説も細かいのである。あ~銭さえ有ればもっと沢山買えたのに。
 ところで朝日新聞、社風のせいで今は考えられないのだが、毎日新聞の「一億人の昭和史」のように戦中の記録写真、兵器写真公開する事は無いのだろうか。終戦時に焼かれていなければ、おそらく相当の量の写真をお持ちのはずである。
 昨日、「写真集 カミカゼ 陸海軍特別攻撃隊 上・下」KKベストセラーズをBookナントカで衝動買いしてしまった。9800円だった。今まで我慢してきたのに・・・これからどうやって生活していけばよいのであろうか?
     

セメント

     「七十年史」日本セメント株式会社
        昭和30年10月1日発行

 昔、家業が水道屋だったので、学生時代セメント袋を担がされたり、バケツの中でモルタルを練らされた事がある。そのせいかもしれないが、セメントには興味がある。日露戦争の時の旅順要塞、日本軍に立ちふさがった「ペトン」はセメントが無ければ成り立たないのであるが、上記の「七十年史」を読むと、旅順要塞で使われたセメントも外貨獲得の為、輸出された日本の物だった可能性があることが分る。また戦前、セメントの配合材料の一つであった「石膏」エジプト等よりの輸入にたより、戦時中、輸入が途絶し、いったい何処から入手していたんだろうと、ここ二年ほど頭を悩ましていたのだが、なんのことはない国産で充分間に合っていた事がこの本で分った。また、戦時中のセメントの運送形体なんであったのか、結構疑問に思っていたのだが、これまたなんのことはない現在と変らず紙袋入りだったのである。いやはや悩みは尽きないものである。       

イオン交換樹脂

 かつての激戦地硫黄島、地下壕はとても暑く、今では自衛隊員に「サウナ」として利用され、夜な夜な英霊の皆様もお出でになると、日本の偉大なシブイ報道写真家であるM氏がその著書の中で紹介されています。戦前硫黄島では水を得るためには、天水(雨水)を貯めるか井戸を掘り硫黄臭くチョットしょっぱい水(北海道弁?)を汲むしかなかったと聞きます。地下壕にもぐった日本軍、一升瓶に貯えた水を飲み渇きをいやし、水を求めて地下壕を出、多くの命を失ったと聞きます。
 遥か昔、私が学生だった頃、研究室では実験に使う脱塩水(混じりっけの無い水)を水道水から作っていました。これは水道水を「イオン交換樹脂」に通し塩素などのイオンを取り除く物でした。昨日取り上げた「三菱化成社史」を読んでいたら、戦時中に日本軍がイオン交換樹脂を使用した話を初めて知りました。なおイオン交換樹脂は1935年頃見出され、ドイツのIG社によって系統的な研究と工業的なイオン交換樹脂の製造が始まり、アメリカでも1941年アンバーライトAmberliteの商品名で市販されました。

      イオン交換樹脂の開発
 太平洋戦争末期、日本軍が全滅したあとの硫黄島に上陸したアメリカ軍は、島に残されていた軟水製造装置を発見して大いに驚いたという。それが当社の製品であることがわかり、終戦後アメリカ軍から確認の問合せがあった。硫黄島に掘られた井戸の水は硫酸マグネシウムを多量に含み、飲料水に使えなかったので、これを除去するためにイオン交換樹脂による軟水製造装置が使用されていたのである。
 水中に溶けた不純物を除去するためにイオン交換樹脂を用いる方法は、1935年(昭和10年)イギリスで発明され、樹脂の製法特許はIGが保有していた。これらの発明に刺激されて当社が大井町研究所で初歩的な試験を開始したのは昭和15年であるが、その後、当社が着工した第2発電所の高圧レフラーボイラーの正常な運転のために硬水の軟化だけではなく、水中の塩類を完全に除去することが必要となり、イオン交換樹脂の研究が促進された。しかし、外国文献が入手できなかったため、研究は手探り状態を続けていた。陰イオン交換樹脂、陽イオン交換樹脂ともに純良な樹脂を造り出す自信を得るまでにはその後数年を必要とし、19年末から20年初めにかけてようやく両樹脂を各1t製造した。その一部が陥落直前の硫黄島に届けられ、当社は終戦前にイオン交換樹脂工業化の記録を残すことができた。なお、戦前にイオン交換樹脂について系統的な研究を進めたのは一部の大学(京都大学の小田良平)を除き当社だけであった。
   「三菱化成社史」三菱化成株式会社 昭和56年6月1日発行

 そういえば今度出来る高校の化学の教科書で「イオン」の勉強が無くなるらしいのですが、若い世代、それでなくても訳のわからない「座敷牢」読んでもさっぱり理解できないでしょう。迷走する学校教育アリガタヤ。

和製ボールト(Bold)

 5年ぶりに訪れた長期休暇も残す所あと1日となった。
 また地獄の日々がやってくる。あ~もういやだ。
 取り合えず現実逃避する。

 ボールトBoldとは「Uボート総覧」大日本絵画、によれば

 ソナー装備の追跡艦を混乱させる目的の化学装置である。直径100㎜
(3.9in)の金属缶に水酸化カルシウムをつめた構造で、特製ランチャー
から放出された。放出すると海水がバルブからしみ込んで水酸化カルシ
ウムと反応、濃密な水蒸気泡のスクリーンを発生させる。バルブの開閉
で缶は平均水深30m付近を浮遊、20~25分間攻撃側のソナーに対
する偽の標的となり、Uボートが微速で離脱できるようにした。1942年
以降独海軍でひろく用いられた他、日本海軍へも供給された。
 とある。

 日本海軍でのボールト製作など私は聞いたことが無かったのだが、あ
る所にはあるのである。

   B剤の製造
 ドイツが潜水艦の防御兵器として、一種の水溶性樹脂を用いた発泡剤
を使い、駆逐艦が出す超音波をはね返しているとの情報により、海軍は
はその物質の究明と製造のための検討会を開催した。この発泡剤の一成
分である水酸化カルシウムを外側から覆って水を徐々に浸透させる粘結
性樹脂の成分が問題であったが、当社が人工樹脂ポリビニルメチルエー
テルであるとの実験結果を発表したため、海軍は当社にその製造を依頼
してきた。
 軍の秘密のためB剤といわれたこの薬剤は、黒崎工場のアルカチット
工場で昭和19年末から生産に着手、20年4月に初めて製品を納入し
た。海軍からモノマーの供給を受け、これを当社が重合するものであっ
たが、当時は出動できる潜水艦も少なくなり、当社の納入した製品も殆
ど使われず、終戦までに約3tを製造したにとどまった。また、モノマ
ーの合成も行うよう要請を受け、設備の建設を進めていたが、資材不足
のため完成をみないまま中止された。
 「三菱化成社史」三菱化成工業株式会社
   昭和56年6月1日発行 より

 なお、水酸化カルシウムなどどこにでもある化学薬品です。

  参考文献
 「Uボート 世界の艦船増刊」1999年