少なくなったボーナスでやっと買い求めた「クルスクのパンター」(大日本絵画)、その中にある
「ドイツ戦車パンターの弱点と対戦車要領」
(クルスク戦終了後の1943年8月に赤軍兵士向けに発行された、対パンター戦車戦闘指導書)
どこかで見たことがあると思ったら、ちょっと違った。
国の無料サイト(国立公文書館所蔵)にあった
「独軍 フェルジナンド 型自走砲
の弱点と之が戦闘法」
まったく同じ様式で書かれた物を昭和18年末頃日本語に翻訳した物のようだ。これはクルスク戦後、ソ連内で配布された物をモスクワ日本大使館で入手、東京に送り陸軍の手で訳したのであろう。おそらく、パンターのそれも同じような道を辿って日本のどこかに存在したとおもうのだが・・・
現代訳と当時の訳の対比がおもしろい。
現代 戦車砲 あらゆる兵器をもって戦車砲を撃て
当時 加濃砲 各種兵器にて加濃砲を射撃すべし
そうか、当時フェルジナンドの八八は加濃砲と定義していたんだ。
それにしても、ミリタリーの世界はよく分からんが、あの細い砲身を狙って打てと指導するのか。
Archive for category 日記
フェルジナンド
7月 14
護衛艦「いしかり」
7月 5
サラリーマンにも休日が必要である。4週間連続の過酷な勤務にけりをつけ(昨日、吐血なされて入院された同僚のTさん、あなたは根性が無い。)護衛艦「いしかり(DE226)」を石狩新港に迎えに行く。けっして石狩漁港の朝市に「活ひらめ」「シャコ」「かじか」「もずくがに」「かれい」を買いに行き、道の途中で「護衛艦入港」の看板を偶然見かけて、歓迎式典に臨んだのではない。(次回は「アンコウ」をまるごと買おうと思う。アンコウの本場は実は北海道だ。東京では信じられないぐらいの値段で売っている。こんどはアンコウ鍋だ。)
さて護衛艦「いしかり」の方だが、さすがのどかな北海道、関係者以外の民間人がプリンス夫婦をいれても5人といなかった。その中、広報の方に「乗員のご家族の方ですか?」に聞かれ、自衛隊もさびしいものもあるが、プリンス、関係者に戴いた「日の丸」をしっかりふってきた。
現用艦艇に対する関心は封印しているのだが、いしかり、竣工当時と兵装が変わっていなかったのにはビックリした。せめて、CIWSぐらいのせられないのか。
陸軍燃料廠
5月 27
「陸軍燃料廠」石井 正紀
光人社NF文庫
について、なぜ感想を書かないのか?と思っている人もいるだろう。
そこで、本日購入した。
一、二気になった記述がある。
日本ではイソオクタンを製造する為、ブタノールを必要としていた。
「戦時中は砂糖(糖蜜)を発酵させて得られるブタノールを原料にして製造する方法の研究開発に着手していた。戦時中、子供たちが甘い物を口にすることができなったのはこのためで、国内の半分に近い砂糖がイソオクタン製造のために回されてしまったのである。」
戦前、戦中日本でのブタノール発酵の材料は玉蜀黍(とうもろこし)甘藷(さつまいも)が主だった。海軍が台湾で計画した設備は糖蜜(砂糖?)で作るものであった。また、国内で砂糖で製造するよう予定された設備も、ほとんどブタノールを製造することなく、アルコール(エタノール)製造に振り向けられた。そもそも、戦前、戦中日本でのエタノール生産の主な材料であった糖蜜とは砂糖(ショ糖)製造に付随してできる廃棄物(ショ糖以外の糖類)であり、砂糖と糖蜜を同列に扱うのは不適切である。戦中、子供たちから奪った砂糖で作られたエタノールは工業用(燃料もふくむ)として、はたまた合成酒用として大人たちが飲んでしまったのである。
戦時中の飛行訓練におけて多発した戦死(殉職?)の原因を
「多くは、劣質な航空燃料に起因したエンジントラブルのためだったのではなかろうか。」
と述べているが、プリンスはそうは思わない。教育、機材、燃料全ての物が十分ではなかった。当時の大日本帝国自体が不十分だったと考えている。まだまだ「航空燃料諸悪の根源説」は生きていた。
さて私事だが、わが愛車が会社帰りに今月2回目の修理工場行きである。さすがに廃車寸前の車とはいえ、主人と同じく毎日毎日会社に行くのが嫌になったのであろう。ところで、明日からどうやって会社に通うか?
「日露戦役従軍略記」NO.2
5月 11
プリンスがまだ小学校に上がる前、母方の祖父の家では馬(農耕用)を飼っていた。家の廻りには、燕麦(えんばく)とデントコーン(飼料用のとうもろこし)の畑が広がっていた。
「日露戦役従軍略記」では輸送した物資名や数量が詳しく書かれている。その中で最も多いのは「大麦」である。「大麦」と見た時、アレ陸軍は日露戦争当時、麦飯を食べていたのか?そうであれば、脚気など発生しにくいはずなのにと思い、資料を調べてみた。そうすると、大麦は馬糧(馬のエサ)としてほとんど使われていたことがわかった。どうも、太平洋戦争時の感覚が抜けきらず、大麦は人間の食べる物、馬が食べるのは燕麦、大豆粕、干草という固定観念が出来上がっていたのだ。日露戦争当時、馬糧として用意されていたのは大麦、玄米、秣(まぐさ、干草)、食塩だ。玄米というのが今一つ分らないのだが、主に未成熟な米などの屑米、割れた砕米などではなかったか
と想像している。
日露戦争に出征した軍馬はおよそ172,000頭、兵員は1,009,000人と言われている。軍馬の死亡率はかなり高かったようだから、一日最大10万頭、1頭当たり1日4kgの大麦を食べるとして1日400tの大麦が消費されることになる。馬にエサをやる為にさらに馬とエサを必要とする。第2次世界大戦時、トラックを動かすガソリンを運ぶためにさらにトラックとガソリンを必要とする。いやはや難儀な事だ。
座敷牢に立ち寄った方のほとんどが「燕麦」という物を知らないし、見たこともないと思われる。チョットしゃれたホテルの朝食に出てくる「オートミール」あの得体のしれない粥状の元が「燕麦」である。最近、印度総督様が朝食でお食べになっている「シリアル」にも入っているのがあるので、スーパーで見かけたら確認してみてほしい。
「燕麦」はアジア原産で、ヨーロッパ、北米ではかなり広範囲に栽培されていた。日本ではいにしえより「加良須牟義(からすむぎ)」としてしられていたらしいが、本格的に栽培されるのは、明治維新後、北海道に開拓使がおかれおそらくアメリカから種子と栽培技術が渡って来てからと思われる。初めて統計書に現れるのは明治二十七年で、その生産量は2万石(1石は18.5kg位)程度だった。そして、明治三十八年には55万石、大正四年には130万石、昭和十五年には196万石と生産量は増加していった。これらはほとんど飼料(当然陸軍の馬糧も含む)として使われ、そのほとんどを北海道で栽培していた。(参考として明治39~43年、5ヶ年平均の大麦生産量は952万石、昭和11~15年、5ヶ年平均では697万石である。明治期のことは分らないが、昭和に入ると大麦の半分は飯米用として、4分の1は味噌、醤油、ビール用として、残り4分の1が飼料として使用されていたようである。)
陸軍が燕麦を馬糧としていつ頃から使い始めたか良くわからないが、
アジア歴史資料センターの
「馬糧購入ノ件」(明治三十六年十二月十八日)
において、大麦一万五千石と共に燕麦七千五百石を至急購入スベシ、とあるので日露戦争中から燕麦は馬糧として認知、使用されていたようだ
明治41年8月20日、勅令第二百四号で陸軍給与令が改正され
大麦ニ燕麦ヲ、秣ニ牧草ヲ換エ給スルコトヲ得其ノ定量ハ大麦一 貫匁ニ対シ燕麦九百匁、秣一貫匁ニ対シ牧草八百匁トス
と正式に燕麦の使用が認められたのである。
引用・参考文献
「軍用燕麦牧草購買規程(明治四十五年四月一日改正)」
陸軍糧秣廠
「第三十三次農商務統計表」農商務大臣官房文書課
大正七年三月三十日発行
「昭和八年 第十次農林省統計表」農林大臣官房統計課
昭和九年十二月二十六日発行
「飼料及び食品としての燕麦」 高橋 栄治 白浜 潔
昭和十一年十月
「北海道青年農業叢書第十九篇 燕麦・大麦・裸麦」
北海道農業教育研究会編
「日本農業年鑑 昭和十七年版」財団法人富民協会
昭和十七年二月十五日発行
『畜産学集成2「飼料学」』 岩田 久敬
昭和十二年十一月五日発行 要賢堂
「カラー版世界食材事典」1999年5月10日発行 柴田書店
T-34
5月 7
ああ、なんて美しいんだろう。ソ連のBT-7とT-34(76㎜砲搭載型)。何を食べても美味しいプリンス、戦車も大好きだ。
近頃、なんとな~く読みたい本が無かったので、古本屋で次ぎの本を買った。
「SS戦車隊、上、下」ヴィル・フェイ 訳者 梅本 弘
1994年3月発行 大日本絵画
この本はSSの戦車部隊で戦った兵士達の話だ。この本の中にソ連のハリコフでドイツが鹵獲したT-34を整備している写真があり、ドイツ側が鹵獲したT-34がソ連側のT-34と戦闘する場面を初めて読んだ。膨大な量が作られたT-34、機械的な故障や再生可能な損傷で鹵獲された量も半端ではないはずだ。プリンスの愛読?(愛見)書
「Beute-Kraftfahrzuge und-Panzer
der deutschen Wehrmacht」
Walter J.Spielberger
にも書かれているが、全体の数は窺い知ることができない。何処かに詳しい資料はないのであろうか。ところで、プリンス、1番好きな戦闘車輌がドイツのマルダーと3号突撃砲の間で揺れ動いている。
参考文献
「グランド・パワー 特集:BT/T-34戦車(1)」
1995.6 デルタ出版
「日露戦役従軍略記」NO.1
4月 21
久しぶりに面白い本を古本屋で買い求めることが出来た。
「日露戦役従軍略記 中澤一太郎」 編著者 楠 祐次
1996年11月15日発行 非売品
この本は、日露戦争に輜重輸卒(しちょうゆそつ、輜重兵ではない。)として従軍された中澤一太郎氏の日記を、楠祐次氏が解説し、読みやすくし、子息である中澤敬止氏が出版したものである。
この日記で特に興味深いのは、食に関連する記述が多いことだ。日露戦争で具体的に兵士が何が食べていたのか、ほとんどの方が目にした事がないと思うのだが、実際に糧食を運搬し、その内容を書きとめ、日々の食事の内容、供給量、加給品としての菓子などが一部分るこの日記は非常に貴重だ。
「醤油エキス」これは醤油を濃縮したものらしいのだが、運搬した品物の中でかなりの頻度で登場する。どうも戦地では「醤油」ではなく「醤油エキス」が圧倒的に使われていたらしい。アジア歴史資料センターの日露戦争当時の糧食供給の資料を見ても、ほとんど「醤油エキス」と書かれている。「醤油エキス」の作り方に興味を持ち、戦前、戦後の醤油製造の本を五冊程読んでみたが、その記述はなく、野田醤油(現在のキッコーマン)の社史にも何も書いていなかった。ところが、アジア歴史資料センターの
「要塞予備糧秣其他購入貯蔵ノ件」(明治36年12月)
を見ると、至急、醤油エキス製造器械一式を購入し、陸軍糧秣廠に貯蔵とある。おそらく、民間で醸造されていた醤油を陸軍糧秣廠で加工し「醤油エキス」を製造していたのであろう。
なお、面白いのであと数回はこの本に関連した事を書きたいと思う。
本日、44回目の誕生日を迎えたのだが、相変わらず書いていることは愚にも付かない上、菜摘ひかる女史の著作を読み、仕事に対するプロ意識の欠如を痛感させられている。
ゴルフ
4月 16
妻より、
「いい加減こんなくだらない趣味を止めて、ゴルフをやりなさいよ。本代の半分でラウンド廻れるでしょう。」
と言われる。会社からも同じ事を言われている。ここは一念発起し、2年がかりで、コースに出てみようかと考えた。取り合えず、中古のパターでも買ってきて玉を転がすか。しかし・・・プリンスには運動能力が欠如しているような・・・・
サムイ号
4月 13
かつてタイ国海軍に存在したタンカー「サムイ(Samui)」号、生まれ故郷にちなんで名づけられたのであろうか?函館船渠(現在の函館ドック)は、昭和10年3月27日、タイ国海軍から油槽船の注文を受け、7月27日起工、昭和11年4月18日進水、8月3日竣成した。8月4日函館を出港、途中横浜で1,500トンの石炭及び石油を積み取り本国へ向かった。竣工当時、サムイ号は1,800馬力、総トン数1,457トンであった。
アジア歴史資料センターの
『対「タイ」石油供給ニ関スル件』
を見ると、昭和17年、サムイ号はタイで唯一のタンカーであった事が分る。また、戦時中のタイに対する南方石油の供給状況が分って面白い。
ところで、戦時中のタイ国海軍、海運の動きが分らない。艦艇の接収は行われなかったようだが、どのような状況にあったのか知りたいものである。
引用・参考文献
「郷土読本函館ドック五十年の回顧」斎藤 虎之助
昭和55年2月20日発行
「世界の艦船 NO.79 特集・タイ国海軍艦艇の現況」
昭和39年3月15日発行
戦闘再開
4月 7
勤め人として、本日より労働の本格的再開である。年と共に、責任
と仕事の量は増えてくるが、イラク戦争とSARSの為、増えないものは
絶対増えない。まあ、取り合えずリストラだけは逃れているで良しと
する。なのでここも開店早々休業か?
ノモンハン事件
4月 6
このシーズンオフ、プリンスの関心を1番呼んだのは「ノモンハン事件」だ。
アジア歴史資料センターの資料
『「ノモンハン」事件ヨリ得タル地上部隊ノ編制装備ニ関スル件』
『「ノモンハン」事件ヨリ得タル航空部隊編制装備上ノ意見』
を読んで、今まで一般に流布されていた事と何か違うと感じた。
そこで
「ノモンハン(上)(下)」五味川 純平 文春文庫
「ノモンハン ①②③④」アルヴィン・D・クックス 朝日文庫
を読み返している。
それにしても、97式戦闘機ではこの先立ち行かない事を認識していた航空部隊、この時絶頂を迎えた九四式三十七粍砲、兵器はやはり面白い。