「歴史群像6月号」を買ったところ、「魔法の弾丸 ペニシリン」
という記載がありました。戦時中の日本の様子がごくあっさりと書い
てありましたが、私にとっては淋しいことなので、またまた社史を引
っ張りだしてきました。
ライオン株式会社は昭和15年9月薬品部門に進出する為、ライオ
ン製薬㈱を設立しました。ここでも戦時中ペニシリンの生産が行なわ
れました。
昭和19年新聞紙上でペニシリンの開発を知ったのを機に、研究室
にある保存菌を再検討した。その結果化膿菌に対して弱い抗菌性があ
ることを確認し、さらに研究を進め数ヶ月後に1280倍希釈までの抗菌
性のある菌を発見することができた。
この菌の培養液を海軍医学校に持ち込んだところ、海軍の支援を受
けることとなった。臨床研究の結果も好成績であったことから、19
年末には生産が間に合わないほどの需要であった。20年の大空襲で
すべてを焼失したが、海軍の要請もあり福島市の掛田に工場を設け、
わずかに残っていた菌を基に生産を再開したが失火で全焼し、伊達に
移転したものの24年には生産を続けるのが困難であった。
グンゼ株式会社は生糸生産をおこなっていました。廃棄物として出
る蛹(さなぎ)の有効活用の1つとしてペニシリン生産を試みました。
(元々家畜の飼料や鯉の餌にすることは聞いた事があります。)
昭和20年8月1日、第3製作所のひと隅に軍当局の許可を得て培
養工場をつくった。蚕蛹高度利用のひとつとして、蚕蛹をペニシリン
製造の培養源として活用するためであった。
海軍軍医学校長が研究所長中田太郎の同郷の知人である関係で軍医
学校からペニシリンの情報が伝えられ、その要請もあって研究を開始
していた。青かびの採集には、培養材を入れたシャーレを全国各地に
運び、空気中の菌を付着させ、これを培養して青かびを探した。三谷
賢三郎がおもに担当して採集は国内はもとより朝鮮にまでおよんだも
のの、めざす青かびは発見できず、海軍軍医学校からドイツの青かび
を入手し、ペニシリン製造に着手できた。
ペニシリンは傷病兵治療の特効薬として脚光を浴び、軍部も協力を
惜しまなかったが、工場設置の15日後は日本が無条件降伏をする日
であった。
これらの記載から余り知られていなかった海軍側の動きがちょっぴ
り分ってきました。しかし、有効な菌種の提供や統一などの動きが感
じられないのは、いったいどういう訳なのでしょうか?
引用文献
「ライオン100年史」 ライオン株式会社
平成4年10月30日発行
「グンゼ100年史」 グンゼ株式会社
平成10年3月発行
「歴史群像 6月号」で「戦闘糧食」の記載がありました。この中
で勘違いなされていると思われるところがありましたので、チョット
書いてみましょう。文中で旧軍に関して
「日本の軍隊は、米と味噌さえあれば体力を維持できたのである。」
との記載がありました。明治期日本の陸海軍は「脚気」により多くの
死者を出しました。脚気とはビタミンB1の不足により生じ、精白米
と味噌汁だけで副食物が貧しい食事において容易にかかります。この
当時、ビタミンB1などの存在は知られていませんでしたので、治療
法も分りませんでした。海軍軍医高木兼寛はヨーロッパ諸国に脚気が
少ない事に着目し、明治17年麦飯(大麦)パン食(小麦)を導入し
脚気患者を激減させ、この問題に決着をつけました。大麦、小麦粉に
は精白米より、ビタミンB1の含有率が高いのです。陸軍は脚気を病
原菌による伝染性のものと見做し有効な対策を取れませんでした。日
清、日露戦争においても脚気による戦病死者を多く出したと記憶して
おります。明治44年東京大学の鈴木梅太郎によりビタミンB1が発
見されやっと脚気の治療法が確立されました。
「『復刻』軍隊調理法」解説 小林完太郎 講談社 1982年
(昭和12年7月26日陸軍省検閲済「軍隊調理法」の復刻版)
において、
第一、主食、一、米麦飯
材料(一人分) 米麦(胚芽米200g精麦62g)262g
とあります。胚芽米は精白度が低い米であり、精麦は大麦のことであ
ります。その他に米飯の記載はありません。基本的に陸軍が提供する
ご飯には麦が入っておりました。