札幌から富良野へ向かう道の途中、赤平市の中で「平岸」の地名を書いた看板を見ることができる。ここに戦時中、人造石油の工場「日本油化工業株式会社空知(そらち)工場」が建設された。
 アメリカ合衆国戦略爆撃調査団・石油・化学部報告
 「日本における戦争と石油」の記述の中で人造石油工場一覧があり、
水素添加法、日本油化工業空知工場、所在地北海道平岸と書いてあった。今から8年ほど前、私は札幌市豊平区平岸に住んでいた。私の住んでいた土地に、そんな物が在ったのかとびっくりし、慌てて「札幌市史」の戦時中の記載を調べたものだ。残念ながらそんな話はなく、取れていたのはリンゴだった。それから暫らくして、富良野へ向かう車中から「平岸」の看板を見つけた時、天啓のように幻は現実の物となった。
       ・・・・・「ここだ。」・・・・・

 赤平市では、昭和18年9月アルミニューム精錬用のピッチコークス製造を目的として北海道炭素工業株式会社が、また、翌19年には化学燃料油の製造を目的として日本油化工業株式会社空知工場の建設がはじめられた。この両工場は海軍の指導下におかれ愛国第83工場と呼ばれた。
 平岸に工場をもってきた理由は、赤平市内にあった昭和電工豊里炭鉱の石炭が原料炭に適していたことがあげられる。(人造石油を作る場合、原料炭の向き不向きは決定的な要因となる。石炭であればなんでもよいというものではない。)
 建設は地崎組が請け負い、18年11月いっぱいに基礎工事に着手し19年9月までには竣工予定であった。
 大東運輸は、油化工場建設機械等の輸送を、北海道炭素工業から受け、月島、高浜および鶴見の石井鉄工所製品を艀積み、海上輸送後、平岸駅レール渡しまでであった。期間は昭和19年から20年3月まで。その重量は約1万7,000トン、容積は5,500トン程度であった。

 プリンスが知り得たことは、今のところこの程度しかない。水添法とは石炭や石炭を乾溜して得たコールタールを耐熱高圧筒に入れ、触媒下に水素を添加し人造石油を作る方法である。元々ドイツで開発され、工業化された物で、ドイツでは立派に高オクタン価の燃料を量産した。日本では、海軍が実験室程度の技術を完成させたのだが、ドイツからの技術導入を望む民間会社に海軍方式を強要し、事実上全てを無駄にさせた。(「海軍燃料史」の中で海軍技術者達は、その事実をなんら悪びれることなく認めている。)どちらにしても、工場は完成しなかったし、完成していない技術を海軍の指導下で運営しようとしていたのだから・・・・・・・油は出来ない。

 引用・参考文献
 「赤平八十年史」
  昭和48年12月1日発行

 「あかびらふるさと文庫 5号」
  昭和61年2月発行

 「地崎工業百年史」 株式会社地崎工業
  平成4年3月発行

 「大東運輸五十年史」 大東運輸株式会社
  昭和60年5月30日発行

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