「アジア歴史資料センター」田舎者にとっては楽しくて、珍しくて堪らなく、旧式な接続方法に頼るプリンスは、市内通話6000円の請求を妻に詰め寄られるのであった。
ここはプリンス好みのキーワードで検索すると、見たことも聞いたこともない話がゾロゾロ出てくるのである。プリンスの興味ある「逆柳船」に関する資料もたくさんあり、当然、積みこんだ物資も少しはわかってきた。
前に書いた「だってよめないんだもん」で南方占領後も、ドイツにタンカーで大豆油が送られていたと知ったかぶりをしたが、実は全然違っていた。本当に送り、送ろうとしていたのは「椰子(やし)油(コプラ油)」「パーム油、パーム核油」であった。
椰子油はココ椰子(Coconut Palm)の椰子の実の 中にある胚乳を乾燥させたコプラから搾油した物である。ココ椰子とは南の島にあるお馴染みの椰子である。で用途となると当時の本にはこう書かれてある。
「まづこれを精製して、諸種の食料油脂を製出し得べく、高圧還元操作によって各種高級アルコールを得、これより柔軟材、香粧品、洗剤、香料を精製し得べく、また加水分解によって、グリセリン及び脂肪酸を製出し得べく、グリセリンの広範な用途にについては、ここに贅せざることとしても、脂肪酸よりは、石鹸、クリーム原料、洗剤、乳化剤、トリラウリン、蝋燭、防水剤、殺虫剤、香料溶剤等の外、さらに各種潤滑油、ディーゼル油、ガソリン、重油代用燃料等をも製出し得るものとされる。」
パーム油は油椰子(Oil Palm)の果肉から直接搾油したもので、パーム核油は果核から搾油したものである。油椰子の果実は、ぶどうの房のようにぎっしりと固まって結実する。房の大きさはひと抱えほどになる。
「パーム油は、牛脂に代用し得る固状脂肪であって、まづ食料用として、諸種の食料油脂となるのみならず、工業用としては、石鹸、蝋燭等、広く油脂製品の原料として用いられる外、内燃機関の燃料としても利用し得る。パーム核油はこれを精製して食料油脂を得べる。本来、この油椰子は、アフリカ原産であって、東亜への移植は、今世紀に入ってからのことであるが、最近、蘭印及び英領マレーに亙るその栽培は、急速に発展し、原産地を凌駕するにいたっている。」
何年か前、インドネシアなどで急激な焼畑が行われ、深刻な大気汚染が発生したが、実は油椰子の栽培の為だったのは、記憶されているだろうか。
アジア歴史資料センターの資料中(元々は防研にあるものです。)
「対独コプラ油供給ノ件」
「南方物資対独供給ニ関スル件」
を開かれて見ると色々おもしろい事が分かる。
ただ、なぜコプラ油やパーム油がドイツに供給されたかが、はっきりわかりにくいのだが、これは単に日本に輸送する手段、タンカーが決定的に不足していたからだ。日本国内でもこれらの油脂は不足していて、咽喉から手が出るほど必要としていたが、運ぶ方法がなかったのである。そこでドイツに売却された。(初めて知ったのだが、きちんと販売価格も決まっていた。)また、日本側の情けない事に、これらの油脂を受け取りに行く際も、受け取り地まで石油類の輸送をしっかり頼んでいる。
『ホーヘンフリードベルグ号渡シ「コプラ」油授受関係独逸人ノ件』
を読むと、ドイツタンカー、「ホーヘンフリードベルグ」(Hohenfriedberg)
は昭和17年11月17日頃マニラにコプラ油、12,000トンを積みこみに行っている。そしてインドネシア、バタビアを12月22日出港し、翌18年2月26日、イギリス重巡洋艦サセックス(Sussex)に沈められた。
日本支配下の港から出港したドイツタンカーは一隻も帰りつけなかった。
引用・参考文献
「南方圏の資源 第一巻 マレー編」小林 碧
日光書院 昭和17年5月25日発行
「週刊朝日百科 世界の食べ物 果物とナッツの文化」
朝日新聞社 昭和58年6月5日発行
「世界の艦船 増刊第46集 イギリス巡洋艦史」
海人社 平成8年11月15日
そして、解読不能の例の本
おととしのクリスマスに出会った少女を覚えていてくれたであろうか。去年のクリスマスも会うことが出来た。
おととしは、ひとりぽつんと座っていた君にも、語り合い、一緒に行動する仲間ができたね。そして何よりも「サンタさん」を真っ先に自分の皿の上に載せていた。君は多くの事を学んだ。
少女よたくましく生きよ。