プリンスがまだ小学校に上がる前、母方の祖父の家では馬(農耕用)を飼っていた。家の廻りには、燕麦(えんばく)とデントコーン(飼料用のとうもろこし)の畑が広がっていた。
 「日露戦役従軍略記」では輸送した物資名や数量が詳しく書かれている。その中で最も多いのは「大麦」である。「大麦」と見た時、アレ陸軍は日露戦争当時、麦飯を食べていたのか?そうであれば、脚気など発生しにくいはずなのにと思い、資料を調べてみた。そうすると、大麦は馬糧(馬のエサ)としてほとんど使われていたことがわかった。どうも、太平洋戦争時の感覚が抜けきらず、大麦は人間の食べる物、馬が食べるのは燕麦、大豆粕、干草という固定観念が出来上がっていたのだ。日露戦争当時、馬糧として用意されていたのは大麦、玄米、秣(まぐさ、干草)、食塩だ。玄米というのが今一つ分らないのだが、主に未成熟な米などの屑米、割れた砕米などではなかったか
と想像している。
 日露戦争に出征した軍馬はおよそ172,000頭、兵員は1,009,000人と言われている。軍馬の死亡率はかなり高かったようだから、一日最大10万頭、1頭当たり1日4kgの大麦を食べるとして1日400tの大麦が消費されることになる。馬にエサをやる為にさらに馬とエサを必要とする。第2次世界大戦時、トラックを動かすガソリンを運ぶためにさらにトラックとガソリンを必要とする。いやはや難儀な事だ。
 座敷牢に立ち寄った方のほとんどが「燕麦」という物を知らないし、見たこともないと思われる。チョットしゃれたホテルの朝食に出てくる「オートミール」あの得体のしれない粥状の元が「燕麦」である。最近、印度総督様が朝食でお食べになっている「シリアル」にも入っているのがあるので、スーパーで見かけたら確認してみてほしい。
 「燕麦」はアジア原産で、ヨーロッパ、北米ではかなり広範囲に栽培されていた。日本ではいにしえより「加良須牟義(からすむぎ)」としてしられていたらしいが、本格的に栽培されるのは、明治維新後、北海道に開拓使がおかれおそらくアメリカから種子と栽培技術が渡って来てからと思われる。初めて統計書に現れるのは明治二十七年で、その生産量は2万石(1石は18.5kg位)程度だった。そして、明治三十八年には55万石、大正四年には130万石、昭和十五年には196万石と生産量は増加していった。これらはほとんど飼料(当然陸軍の馬糧も含む)として使われ、そのほとんどを北海道で栽培していた。(参考として明治39~43年、5ヶ年平均の大麦生産量は952万石、昭和11~15年、5ヶ年平均では697万石である。明治期のことは分らないが、昭和に入ると大麦の半分は飯米用として、4分の1は味噌、醤油、ビール用として、残り4分の1が飼料として使用されていたようである。)
 陸軍が燕麦を馬糧としていつ頃から使い始めたか良くわからないが、
 アジア歴史資料センターの
  「馬糧購入ノ件」(明治三十六年十二月十八日)
において、大麦一万五千石と共に燕麦七千五百石を至急購入スベシ、とあるので日露戦争中から燕麦は馬糧として認知、使用されていたようだ
 明治41年8月20日、勅令第二百四号で陸軍給与令が改正され
  大麦ニ燕麦ヲ、秣ニ牧草ヲ換エ給スルコトヲ得其ノ定量ハ大麦一 貫匁ニ対シ燕麦九百匁、秣一貫匁ニ対シ牧草八百匁トス
と正式に燕麦の使用が認められたのである。

   引用・参考文献
  「軍用燕麦牧草購買規程(明治四十五年四月一日改正)」
     陸軍糧秣廠
  「第三十三次農商務統計表」農商務大臣官房文書課
   大正七年三月三十日発行
  「昭和八年 第十次農林省統計表」農林大臣官房統計課
   昭和九年十二月二十六日発行
  「飼料及び食品としての燕麦」 高橋 栄治  白浜 潔
   昭和十一年十月
  「北海道青年農業叢書第十九篇 燕麦・大麦・裸麦」
   北海道農業教育研究会編
  「日本農業年鑑 昭和十七年版」財団法人富民協会
   昭和十七年二月十五日発行
  『畜産学集成2「飼料学」』 岩田 久敬
   昭和十二年十一月五日発行 要賢堂
  「カラー版世界食材事典」1999年5月10日発行 柴田書店