逃げた女房にゃ未練はないが、もうすぐ大阪の実家から帰ってくる。この自由を有効に生かすべく、今日、午前中に半休を取り、数年ぶりに北海道立文書館に行って来た。ここは札幌市内のど真ん中、重要文化財「北海道庁旧本庁舎」通称赤れんが庁舎の中にある。北海道の地方史、郷土史の殿堂であり、私のような不純な動機で一般刊行物(とも言えないか)を閲覧する人間が立ち入ってはいけないところである。普通、地方史、郷土史研究家の皆さんは人殺しの道具である「兵器」を愛でたり、調べる人間を鬼畜と思っていらっしゃるようである。プリンスも実は居心地が悪い。しかし、人間辛抱である。ここには、おそらく戦時中の公文書類も多量にあると睨んでいるのだが、それに手をつけると大変な事になりそうなので、老後まで封印している。
今回、ここを訪れたのは、某所で紹介した。
「日本産業火薬史」 昭和42年5月9日発行
日本産業火薬会 非売品
を、今一度熟読するためである。(SUDO様この本は絶対お薦めです。手元においても絶対損はありません。)そして、前にさらっと眺めた
「日本無機薬品工業史」 昭和37年12月10日発行
日本無機薬品工業史編集委員長 大塚 寛治 非売品
を読み直す為であった。特に後者は、今年一年書き続ける上での指針となったような気がする。
この中で面白い話をひとつ、戦時中、ドイツのMe163(あれ、すすむちゃんワルタータービンはどうだっけ?まあ、いいか)に使われた過酸化水素、ドイツでは建設された設備は純過酸化水素換算年産17,000トン、建設中のもの66,000トンに達した。日本では秋水に使われる予定の過酸化水素、江戸川工業所が80%過酸化水素182トンを海軍に納入した。また、日本染料製造が製造した35%過酸化水素12トンから四日市海軍第二燃料廠で83%過酸化水素4トン製造されたといわれる。この2社以外にも十数社で計画あるいは設備の建設が行われたが、新設工場の一部が終戦間際に完成し生産が緒についたほかは、大部分が未完成もしくは机上の計画に終わった。
なお、今年一年、社会情勢が許せば「飛燕(地上襲撃型)」のように地を這う様、受けない話を書いていこうと思う。たまには、この日記も覗いていただければ幸いである。