「ビルマータイ鉄道建設捕虜収容所
―医療将校ロバート・ハーディ博士の日誌 1942~45―」
1993年7月25日発行 訳者河内賢隆/山口晃
而立書房
日本軍の捕虜虐待には触れない。そんな事を研究されている立派な方は結構いらしゃるが、実際、当時の捕虜の給養と日本軍の給養を比べてみる方は稀である。著者は泰緬鉄道の建設地最前線から一歩下がった捕虜収容所に医者としてずうっと収容されていた。建設最前線の衛生状況、食糧事情は最低(米と乾燥野菜が主、量もはなはだ少ない)なのだが、一歩下がると捕虜の食糧事情だけは、少なくとも内地の銃後の人々より、栄養のバランスがとれ、食材が多彩なのである。
例えば1943年12月25日クリスマスの食事(あくまでも特別だけど)は
朝食
ミルク入り米のオートミール
目玉焼き
豚肉のフライ(厚め)
さつまいものフライ
ライムのマーマレード入りのタピオカ粉(どんなもんなんだ?)をまぶしたロールパン
昼食
魚のリソールrissole(魚を刻んだ物を・・わからん)2つ
野菜と肉のスープ
コールドビーフ2切れ
西洋カボチャ、きゅうりと中国大根のピクルス
ミルク入り紅茶1杯
夕食
野菜と肉のスープ
ローストビーフ、さつまいもとかぼちゃのフライ添え
生姜のプディング(卵のプリンとは違う、説明すると長くなる)ライムソース
鰯をのせた油で揚げた米のビスケット(鰯は缶詰のオイルサーディン?)
ザボン(柑橘類 デザートです)
ミルク付きコーヒー
そして1944年12月25日クリスマスには
「今回のクリスマスの食事は例年以上に素晴らしかった。あらゆる点で本当に豪華なご馳走が食べられた。」と日記に書き記している。
内地では昭和20年には卵も肉の配給も事実上なくなっていた。
シンガポール陥落時、捕虜となった著者が、捕虜収容所にいた間、日本側から供給された衣料品は
①ゴムとズックで出来ている安手のブーツ(履くのには小さすぎた) 地下足袋
②目の粗い灰色のキャラコのズボン
の2点だけだった。(それも捕虜個人に支払われる賃金?から費用を徴収された。)
また、医者としての特権で町で買い求める事ができた毛布(非常に粗悪品)1枚、
合計3点が捕虜期間中に入手することができた衣料品の全てだ。
(1944年5月28日に捕虜6人に1個の割合でアメリカ赤十字の小包が渡されたのでタオル、下着、靴下を入手しているかもしれない。)
赤十字から送られていた衣類や靴は終戦まで、日本軍が大事に倉庫にしまっていてくれた。捕虜たちが捕虜収容所に持ちこんだ衣類は、しばしば地元民との食糧との交換に用いられた。南国とて1月の夜は寒い、著者はこう書き残している。
「最近、夜はとても冷える。昨晩は、新しい毛布と古い薄い毛布では寒くてどうしようもできなかった。パジャマ、カーキ色の作業ズボン、袖なしジャンバー、防風ジャケットと靴下等を身につけ、何とか寒さから身を守ることができた。暑い天候の中で、無謀にもシャツ、パンツ、毛布を売ってしまった隊員たちはどう過ごしているのだろうか?多くの者が寒さのために寝られずに、歩き回り、また他の者は炊事場にもぐり込んだのである。」
日本戦時経済の全貌 東洋経済出版部 昭和7年10月18日発行
の中に「経済封鎖問題座談会」というのが載っている。これは連合国側から経済封鎖を行なわれたら日本の工業、貿易、生活はどうなるなろうだろうか?というのを経済界の名士、官僚など(高橋亀吉、石橋湛山もいる)が話し合っているものだ。戦前、日本の繊維業界は繊維製品を輸出することにより、日本の外貨の大半を稼いでいた。しかし、その原料を見ると、生糸、一部パルプを除いた羊毛、綿花のほとんどを後の連合国の供給に頼っていた。この座談会の結論もいい加減なもので、日本支配下の地域からいずれ綿花も羊毛も取れるようになるだろうから、あまり心配する事が無いなどと、真剣に暢気なことを言っている。
戦争中、衣料品が不足したのは皆さんご存知だろう。そして、日本占領下の東南アジアの人々が日本から離反したのは、必要とする衣類を供給することが出来なかったのも大きな要因であり、終戦前の冬、日本国内では小学校の児童が下着や靴下が無い為、学校を休むことが問題化していたの御存じだろうか?
参考資料
「秘 南方繊維資源の調査に赴きて」商工省技師 岸 武八
昭和十七年四月 全国経済調査機関連合会