妻子から生きる上でどれほど無駄な趣味かと、痛罵される地獄のような日々を過ごしながらも、ちゃっかりハローワークの帰りに図書館に立ち寄ったりする。

 「近衛歩兵第一聯隊歴史」
  昭和六十一年十二月十日発行
そしてこんな本がしっかり書棚にあったりする。その中に「近衛歩兵第一聯隊歴史」という、連隊副官のもとで歴代の連隊旗手が連隊長の校閲を経て毛筆で書き綴ったものが復刻されていたものがあった。その中に日清戦争以前の脚気に関する記述があるのでここに書き写す。

一 十七年八月八日近衛諸隊ノ脚気患者ヲ合シ集成中隊ヲ編成シ転地療養ヲ兼ネ野営演習トシテ習志野原ヘ出張セシメラレ爾後快癒ノ者ハ漸次新患者ト交代セシム
一 十八年七月二十日ヨリ九月七日迄近衛諸隊ノ脚気患者ヲ合シ集成中隊ヲ編成シ転地療養ヲ兼ネ野営演習トシテ習志野原ヘ出張セシメラレ爾後快癒ノ者ハ漸次新患者ト交代セシム
一 十八年十一月ヨリ一ヶ年間脚気病予防トシテ兵食ヲ麦飯米七分麦三分ニ改ム
一 十九年五月二十九日当隊患者ノ状況等視察ノ為メ思召ヲ以テ侍従歩兵少佐岡田善長侍従試補騎兵中尉廣幡忠朝ヲ差遣ハサル
一 二十一年三月一日ヨリ脚気病予防ノ為メ兵食ヲ改メテ朝食並昼食ヲ麦飯米七分麦三分夕食ヲ麺包六十匁トス
一 二十一年十月二日ヨリ兵食ヲ改テ米食ニ復ス
一 二十二年四月一日ヨリ脚気病予防ノ為メ兵食ヲ麦飯米七分麦三分ニ改ム

明治  八年  患者2587 内脚気388
        死亡  28 内脚気 21  
明治  九年  患者 941 内脚気153
        死亡  10 内脚気  5  脚気除役  12
明治 十一年  患者2676 内脚気363
        死亡  24 内脚気 11    
明治 十二年  患者2496 内脚気256
        死亡  12 内脚気  3  脚気除役   8 
明治 十三年  患者2177 内脚気167
        死亡  11 内脚気  3
明治 十四年  患者2501 内脚気209
        死亡  13 内脚気  6
明治 十五年  患者2748 内脚気656
        死亡  45 内脚気 22  脚気除役   4 
明治 十六年  患者2410 内脚気816
        死亡  41 内脚気 33  脚気除役  12
明治 十七年  患者2214 内脚気751
        死亡  33 内脚気 25  脚気除役  15
明治 十八年  患者2052 内脚気345
        死亡  20 内脚気  9  脚気除役  22
明治 十九年  患者1194 内脚気  9
        死亡   9 内脚気  0  脚気除役   7
明治 二十年  患者1301 内脚気  3
        死亡   2 内脚気  0
明治二十一年  患者1301 内脚気  3
        死亡   0 内脚気  0
明治二十二年  患者1599 内脚気  1
        死亡   5 内脚気  0
明治二十三年  患者2138 内脚気  3
        死亡   4 内脚気  0
 以後脚気の記述が無くなる。

これは、日本の脚気の歴史研究の第一人者である山下政三氏の著作
「明治期における脚気の歴史」「鷗外森林太郎と脚気紛争」
にも引用されていないもので、麺包(パン)を試用した事などこれにより初めて知ったほどである。「鷗外森林太郎と脚気紛争」において陸軍の脚気対策の全容を掴んでいるかのような記述が見られるが、実際に部隊でどのような脚気対策を用い、それに対し部隊ではどのような感触を持っていたのか、それを垣間見る資料に著者は十分当たっているとは思えない。
日清戦役前、日清戦役中、日清戦役と日露戦役間、日露戦役中の部隊における脚気対策は、師団歴史や聯隊歴史等の陸軍の一次資料(防研の一次資料も)、さらには全国に散見される将兵の日記等(おそらく膨大な数があると思う)を精査しなければ、具体的な動きや考え方が浮かび上がってはこないのではなかろうか。これらを積み上げた後初めて、陸軍の脚気対策の失敗の全容も見えてくるのだと思う。