アルメデレール以前 14 (ようやく生まれた一つの変化)
1917年当時のフランス陸軍はたった1500機弱の航空兵力を維持するだけで年間1万機の飛行機を送り出さなければならないという現実に直面します。けれどもフランス軍内部では、先に紹介したような「どんな機種を何機生産するのか」という基本的な部分で陸軍省と陸軍総司令部との間に激しい対立がありました。今回は両者の対立が最高潮に達した1917年早春の状況を眺めてみます。
航空に関する主導権を確立しようと先手を打ったのは陸軍省でした。1917年1月のことです。航空戦が制空権の争奪戦という新たな局面を向かえてより血生臭いものになり、膨大な消耗を補ってなおかつ兵力を増強しなければならないことが認識された時期でしたから、議会ではフランスの航空兵力がいつまでたっても要求された2000機弱の兵力に達することもなく、現有第一線機1420機もその大半が役に立たない旧式機で占められていることに対する激しい批判が巻き起こり、何らかの改革が必要とされる状況にありました。
こうした雰囲気の中で陸軍省は軍用機の開発と製造に関する主導権を一気に握るために、陸軍省の航空行政に対する最大の批判者だった陸軍総司令部の航空主任参謀を解任し役職そのものを廃止しようと動き始めます。その代わりに陸軍省内に航空長官を設けて後方と前線の両方にわたって技術的問題の決定権を持たせることで、フランス陸軍内部の航空に関する権限の統一をはかりますが、ここで任命されたのは航空の経験を持たない砲兵出身のギユマンでした。フランス陸軍航空隊の誕生以来、色濃く残っていた砲兵色がまたもや現れた訳ですが、当時、フランスの兵器工業でもっとも組織立った量産体制が実現していたのは砲弾製造の分野でもあり、当時のフランスで兵器増産の手本となる分野だったからこその人事でした。しかしさすがに1917年にもなると「航空の改革を未経験の砲兵出身者に任せていいのか」という疑問を軍の外部からも抱かれるようになってきます。
議会もこの人事に疑問を呈し「手術をするのに外科医が道具の使い方を覚えるまで待たされるのか」といった声が上がります。フランス軍に必要なのは量の問題だけでなく、質の問題なのだとの認識が既に軍の外部にまで広まっていたからです。陸軍総司令部はこの動きに対して激しく反発し、陸軍省将校の前線立ち入りを禁止するという強硬な姿勢を取りますが、結局この人事は強行され、その代わりに陸軍省の航空機製造局長を入れ替えるという曖昧な補償が行われます。
これで全てが収まればいいのですが、陸軍省と陸軍総司令部が複雑な人事で手打ちに至っても議会の側から見れば何の進歩もありません。議会の航空部会では秘密会議が開かれて砲兵の将軍を持ち出して単純な増産をめざす陸軍省を激しく批判します。いくら民主主義であっても陸軍の外部で兵器の開発と量産についてどうしてこんな突っ込んだ意見が生まれるのか不思議な気がしますが、議会、陸軍省、陸軍総司令部では三者三様に求めるものが異なっていたことがこうした騒動の原因です。
陸軍省は今まで実績のある砲兵部門の兵器増産施策を単純に適用して軍用機の増産を進めようと考えていたのに対して、航空部隊を指揮する陸軍総司令部は量よりも質の改善を求めており、特に陳腐化の激しい偵察機、観測機の機種更新を求めていました。これだけなら量と質という比較的わかりやすい構図ですが、ここで議会が介入してきます。膠着状況にある戦局を打開するためにドイツ本土への戦略爆撃が政治的理由から強く求められていたためです。陸軍総司令部は現有機材での戦略爆撃は損害に見合う効果が得られず、前線で必要とされる重要機種(陸軍総司令部としては陸戦に直接に役立つ偵察機と観測機)の開発と量産を妨げると考えています。
けれどもフランスの戦略爆撃派議員たちにとっては、このままでは漫然と旧式機の量産を継続しかねない陸軍省も批判の対象なら、いろいろと理由をつけては戦略爆撃実施を避ける陸軍総司令部もまた批判の対象です。こうして「フランス軍の航空戦略は間違っている」という認識が政界に広がっていったわけです。しかも戦略爆撃論は1917年4月のアメリカ参戦を迎えて「ルシタニア号事件の報復」といった報復爆撃論へと発展します。第一次世界大戦後半の戦略爆撃論は報復という大義名分を背負っているのです。結局、今まで失われた人命という、まともに数え上げれば気が遠くなる程の損害に対する報復ですから誰も正面から戦略爆撃論を否定することができませんし、言い出した者さえ簡単に諦めては示しがつきません。こうなると戦略爆撃論はフランスにかけられた呪いのようなものです。
そしてついに3月には議会からの執拗な批判に対して陸軍大臣が議会の権限を無視する反論を行った末に辞任する騒ぎに発展し、陸軍省対陸軍総司令部に議会が加わった三つ巴の騒動は最高潮に達します。その結果、ついに首相ポール パンルヴェの仲裁によって陸軍内の組織に手が加えられ、今まで軍用機の開発生産を掌握していた陸軍省第12局が廃止され、新たに航空担当次官が置かれるようになります。
こんな経緯で一つの変化が訪れましたが、新しく設けられたポストの機能、権限といったことは実は大した問題ではありません。ここで注目すべきことは新たに任命された航空担当次官、ダニエル バンサンの経歴で、バンサンは急進社会党の代議士でもありましたが、開戦時にV113飛行隊の偵察将校としての勤務経験があった点です。そして「V」がつく飛行隊とは他でもない、諸悪の根源のように言われる旧式機の代表、ヴォワザン装備飛行隊です。陸軍総司令部はまだ胡散臭さそうな目で見ていましたが、開戦から2年半もかかってフランス陸軍省はようやく前線のことが理解できる人材を得たのです。
1月 24, 2010
· BUN · 2 Comments
Posted in: ドクトリン, フランス空軍, フランス空軍前史, 第一次世界大戦
2 Responses
おがさわら - 1月 26, 2010
うわあ、グタグタですねえ。
戦争が煮詰まってくると、会社組織でよく見るような情景に遭遇するのはいつの時代もなんですかねえ。
BUN - 1月 27, 2010
確かにその通りです。
グダグダし過ぎて何が何だかわからないくらいですね。
しかもなぜか、身に染みます。
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