アルメデレール以前 11 (1916年航空戦のまとめ)
どうもフランス陸軍航空隊の物語はカタルシスに欠けるようで、自分で書き綴っていながら何だかとりとめのないクドい話を続けているような気がします。いろいろと恵まれた条件の下で活動しながらいま一つパッとしない空軍の成長物語は確かに盛り上がりに欠けますね。
とはいうものの第一次世界大戦の航空戦でフランス軍は間違いなく一方の雄なのです。とくに1916年の戦いは両軍の航空戦ドクトリンを大きく変容させ、現代にも通じる形へと進化する基礎を築いた重要な役割を果たしてるのですから御用と御急ぎでない方はどうかお付き合いの程を。
1916年2月のベルダン戦でドイツ軍は航空兵力の集中によって友軍上空でのフランス軍観測機、爆撃機の活動を封じるという画期的成果を上げます。航空戦で初めて航空優勢が確立された瞬間です。それまでは軍用機が陸戦の勝敗を決する働きをすることがある、と認められつつあったものの、敵の軍用機の活動を積極的に封鎖してしまおうという発想はありません。
けれども実際にこれをやられてみると大変な目に遭うことをフランス軍はベルダンで思い知ります。そのためにドイツ軍の武装複座機を排除できる単座戦闘機をかき集めてベルダン地区に投入し、大きな犠牲を払いながらドイツ軍の航空優勢を解体しようと試みます。単座戦闘機、いえ、普通、我々が「戦闘機」と呼ぶ機種が威力を発揮した最初の戦闘がベルダン戦なのです。
ベルダンでのドイツ軍航空優勢を逆転した経験を生かしたフランス軍はソンムでの攻勢で戦闘機を積極的に集中投入してフランス軍の航空優勢を確立します。ベルダンでドイツ軍がやったことをより徹底して、しかも空戦専門の戦闘機を大量投入して完璧に実施したことで、今度はドイツ軍が窮地に陥ります。
ドイツ軍はベルダンで用いた攻勢用の武装複座機の集団「Kagohl」を解体し始め、最前線の友軍上空を掩護するより小規模の飛行集団「Kasta」を編制の基本とします。どこが進歩なのかよくわからない変化ですが、それだけ劣勢であり、地上部隊が危機にあったということです。
そしてフランス軍航空優勢の主体をなしていた戦闘機隊に対抗して、ドイツ軍も単座戦闘機を多目的機との混用から切り離して独立運用するようになり、ドイツ軍戦闘機は「Jasta」として空戦専門部隊となって活動を開始します。こうして空の戦いの主導権をフランス軍とドイツ軍の単座戦闘機が華々しい空中戦を演じて奪い合う世界が生まれたのです。
フランス軍が戦闘機編隊で戦場上空を哨戒するようになると、ドイツ軍の「Jasta」もまたそれに匹敵する編隊で哨戒を始め、両軍の戦闘機は集団でぶつかり合うようになり、単機で戦う空の騎士たちの時代は事実上、過去のものになってしまいます。インメルマンやベルケがこの世を去るのとほぼ同時に空の戦いは集団戦へと変化し始め、戦闘の勝敗は個人から飛行隊単位、「Jasta」単位で争われるようになるのです。そこで生まれる戦闘機エースは天才操縦者というよりも、優れた組織人であり、勇敢で機敏な指揮官の素養を持つ人々に変わって行きます。
このように1916年のベルダンとソンムの上空で航空戦の様相は二度と後戻りできないほどの変化を見せたのですが、それは確かにそうかもしれないけれども、それでも納得の行かない部分もあるはずです。「航空戦が現代と同じような概念で戦われるようになったのなら、どうしてベルダンやソンムで突破作戦が成功しなかったのか?」という疑問です。
航空優勢が陸戦に必須のものであると認識されたのであるなら、それほど航空戦が重要な役割を果たすのなら、なぜベルダンでドイツ軍は目論見通りの大勝利を得られなかったのか。ドイツ軍航空部隊を友軍上空から一掃できたのなら、連合軍はどうしてソンムでドイツ軍を崩壊に追い込めなかったのか。それを疑問に思わないのはどうかしています。
その答は爆撃機隊にあります。そもそも第一次世界大戦の膠着した塹壕陣地戦は攻撃側の突破縦深を防衛側の防御縦深が上回ってしまったことから生じています。突破する側が敵陣に食い入っても、敵の増援が第二線陣地を強化してしまい突破口が開かない。また、敵の増援を阻むために主攻撃の両翼で助攻を行って増援部隊を拘束しようとすれば肝心の主攻撃の規模が制限されてしまう、といった悪循環を打破するだけの実力と戦術が1916年当時の航空部隊には欠けていたのです。
前にも紹介しました通り、1916年当時のフランス軍爆撃隊は信じがたいことにまだ開戦時のファルマン、ヴォワザンの改良型で編成されています。その後継機も登場してはいますが、ヴォワザンも新しいブレゲーミシュランもその外観が古臭いプッシャー式の古典機そのもので区別がつかないように、その性能も似たようなものでした。これらはとても敵陣上空で自由に活動できる兵器ではなかったのですが、さらにその数が足りません。
フランス軍爆撃隊は敵戦線後方の要地を爆撃することを求められた特殊部隊の域を出ていない存在で、1916年2月のベルダン戦直前のフランス軍航空部隊は135機の戦闘機(そのうちニューポール11は90機と言われています。)と188機の爆撃機を持っていましたが、フランス軍第一線機総数1149機の72%を占めるのは826機の偵察、観測機でそのうち半数は使い物にならないプッシャー式の旧式機です。この比率は6月のソンム戦直前でも大きく変わりません。
1916年頃の航空部隊はフランス軍にしても、ドイツ軍にしても、偵察と観測で地上部隊に奉仕する存在だったのです。逆に言えば、その活動が制圧されることは友軍砲兵の活動が妨げられることを意味しますから両軍の陸戦指揮官達は航空優勢の重要性をストレートに実感できたとも言えます。敵に航空優勢を確立されてしまえば陸戦が思うように戦えないからこそ、まだ誰も経験していない制空権争奪戦に全力を投入できたのだと考えてもいいようです。
ただし、敵航空部隊を圧倒したところで、敵陣突破に用いられるのは従来どおりの縦深制圧能力が不十分な砲兵火力です。射程外で移動する部隊や物資の輸送が妨害できない上に、敵の塹壕線の多くは友軍側から見通せない稜線の向こう側に設けられています。野戦陣地の制圧にやたら砲弾を消費したり、のべつ観測気球を上げるのはこれが理由です。特に1916年後半からのドイツ軍野戦築城は三段構えの弾性防御陣地へと変容しますから、航空の傘の下でその能力を100%引き出せたとしても従来の陸戦技術だけでは大規模な突破作戦は実現しないのです。
1月 14, 2010
· BUN · 2 Comments
Posted in: ドイツ空軍, ドクトリン, フランス空軍, フランス空軍前史, 第一次世界大戦
2 Responses
おがさわら - 1月 14, 2010
これ、ドクトリンの進化に機材がおっつかなかったという側面もあるんすかね。
BUN - 1月 18, 2010
次回は機材がおっつかないのは誰のせいだ、というお話です。
このやりきれなさがフランス空軍の持ち味です。
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