アルメデレール以前 9 (ベルダン上空の完全制空権)

 プロペラ同調機関銃を装備した画期的戦闘機であったはずのフォッカーE型機が実は数も少なければ肝心の同調装置も不具合多発で他の機種のように複数の製造会社でライセンス生産されることもなく、最大でも40機程度しか可動していなかったことを紹介しましたが、対するフランス空軍もニューポール11「ベベ」をすぐさま大量に装備した訳でもなく、伝説的な単座戦闘機同士の華麗なる空中戦の実相はどこか拍子抜けしたものでした。ドイツでもフランスでも航空兵力の中心は武装複座機で、単座戦闘機ではなかったのです。

 1916年2月、ベルダン攻防戦が開始されます。地上軍が大規模に衝突し、両軍共に多数の死傷者を出した陰惨な戦いです。攻勢に出たのはドイツ軍ですから、当然、この攻勢のために航空兵力を集中します。1915年の航空戦を通じてドイツ陸軍航空隊は数で劣ることを痛感していたので総兵力で劣る分を局所集中で補おうとしたわけです。そしてドイツ陸軍総司令部は航空兵力の集中運用に向けて新しい工夫を行います。それが総司令部直轄航空集団です。野戦軍に軍団単位で配備された従来の航空部隊ではなく、戦略的に運用するための大兵力を「kagohl」(kampfgeschwadern der OHL)としてまとめ、数個の「Kagohl」を集中的に投入して局所的制空権を確立するやり方です。

 局所的制空権を確立する、といってもなんだか抽象的で何をするのかハッキリしません。ドイツ陸軍がしたことをひと言でいえば、総司令部直轄で運用する飛行機の大集団を使ってフランス軍の航空偵察と砲戦観測を100%阻止することを狙ったのです。今まで友軍の航空偵察や砲戦観測を確実に実施することを目的としたことはあっても、相手にそれを100%許さず、友軍にのみ航空偵察と砲戦観測が一方的に可能な状況を作り出すという発想は生まれていません。このような究極の航空戦が着想された点でベルダンの航空戦は画期的でした。

 それでは画期的なエリート集団である「Kagohl」を構成していたのはインメルマンやベルケが搭乗する単発単座単葉機のフォッカーE型だったかといえば、そうではありません。大規模に運用されたのはプロペラ同調機関銃を装備した複葉の武装複座機であるC型機でした。敵偵察機と観測機を友軍上空から追い払い、フランス軍戦線後方の鉄道拠点や物資集積所、予備軍の移動を爆撃する多目的機が「Kagohl」を構成していたのです。ベルダン空域に投入された単発単座戦闘機はたった21機で、その任務は「Kagohl」の戦闘哨戒に協力することでした。

 完全制空権を目指したドイツ軍の作戦は大成功でした。フランス軍の偵察と観測はファルマンやボワザン、コードロンなどの旧式機でしたからドイツ軍のC型機によって容易に排除されてしまい、フランス軍はベルダンでドイツ軍の予備軍の動きも掴めなければ、ドイツ軍を効果的に砲撃することさえ出来なくなります。敵が見えず、友軍前線から見えない敵をまともに砲撃できず、反対に敵にとって偵察も観測も自由だとしたら陸戦の勝利は望めません。こうした意味でベルダンにおいてフランス軍が陥った危機はかつてない種類のものでした。フランス軍はここまで極端に航空兵力を集中運用されるとは思ってもいなかったのです。

 2月21日のドイツ軍攻勢開始から一週間の状況は圧倒的で、フランス陸軍は制空権を完全に奪われるという強烈な体験に出遭います。この時点でフランス陸軍総司令部は何が起きたかを十分に把握できていませんが、ベルダン空域からドイツ軍機を何としても追い払わねばならない事だけは誰の眼にも明快でしたから、とにかく制空権奪還のための兵力集中を開始します。ドイツ陸軍総司令部はベルダンで一方的に有利な地上戦を戦うために航空兵力を集中しましたが、フランス陸軍はその集中した航空兵力を撃破することを第一の目的として兵力を集中することになります。

 こうしてドイツ軍は徹底的な航空優勢により敵の航空作戦を一方的にシャットアウトすることを目標として制空権の奪取を試みて成功し、出遅れたフランス軍は何が何でも敵航空兵力を排除するために動きます。そして両軍の目的の微妙な違いは今後の航空戦を二度と後へは戻らない程に変えてしまいます。フランス陸軍航空隊があらん限りの単座戦闘機をベルダンに集中したためです。空中戦以外には偵察も観測もできず、爆撃なんて全くできない不便な兵器であり、敵機を撃墜することしか能がない潰しの利かない専用機である単発単座戦闘機を集中しなければドイツ陸軍航空隊が実現した完全制空権を打ち破れないからです。

 全戦線から集められた優秀な戦闘機操縦者とモランソルニエ単葉戦闘機とニューポール11「べべ」で新たに15個飛行隊が編成されます。空中戦しか機能のない異様な航空部隊の誕生です。これらの飛行隊は今までのように野戦軍の指揮下に置かれて特定の戦闘に使用されるのではなく、ドイツ軍の「Kagohl」と同じく、フランス陸軍総司令部直轄の制空権奪還部隊として3月から活動を開始し、ベルダン空域を常時、4機から5機の数編隊に分かれてパトロールし始めます。ドイツ軍機はそれより少ない機数で活動していましたから兵力的に優位に立つことができた上に、空中戦に関してC型機はニューポールの敵ではありません。ドイツ軍もフォッカーE型機を「Kagohl」の支援に投入しますが、前に紹介した通り、数が足りませんし、性能的にも陳腐化しています。

 積極的な空中戦を戦った結果、フランス軍戦闘機隊の損害は総指揮官のデローゼ以下、かなりのものでしたが、ベルダン空域のドイツ軍の制空権は解除され、4月以降は逆にフランス軍が友軍上空からドイツ軍偵察機、観測機をシャットアウトする情勢となります。兵力に劣るドイツ陸軍航空隊は再びベルダン上空を制することができず、かといってフランス軍の偵察、観測機は1916年になってもまだファルマン、ボワザンなどの旧式機でしたからドイツ軍上空での活動は十分に行えず、戦いは膠着状態へと移行します。

 ドイツ軍の制空権を打ち破り、逆に友軍上空の制空権を獲得したこの成功体験はフランス陸軍総司令部に戦場の制空権奪取を陸戦の勝利に欠かせないものとして認識させることになり、次の戦場ではベルダンでドイツ軍が一時的に成し遂げたような完全制空権の獲得を目指そうと準備が始まります。両軍が比較的少数の航空兵力をそれぞれに運用して互いに偵察や観測を実施し、戦線後方への爆撃をお互いに試みていた時代はベルダンで終わってしまいました。そんな戦いは主戦線ではもう見られなくなります。

 友軍の飛行機が自由に飛べない戦場では地上軍は眼と耳を塞がれて一方的な袋叩きに遭うことがベルダン戦の体験で陸戦指揮官達に深く認識された結果、二度と自分達がそうした立場に追い込まれないよう、そして何としても敵軍をそこへ陥れようと発想するようになり、その結果として、地上軍の指揮を離れた航空部隊の大集団が相手の活動を制圧することを第一目的として激しく衝突するようになったということです。プロペラ同調機関銃の実用化や、ある名機の誕生、優れたエースの登場などでは航空戦を本質的に変えることはありませんでしたが、航空兵力集中による制空権奪取の実現とそれに対抗する制空権奪還作戦は航空戦を確実に次の時代へと進めてしまったのです。

1月 4, 2010 · BUN · No Comments
Posted in: ドイツ空軍, フランス空軍, フランス空軍前史, 第一次世界大戦

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