アルメデレール以前 3 (砲兵の発想)

 第一次世界大戦前のフランスは本当に世界一の航空先進国でした。多彩な飛行機製作者が名乗りを上げて画期的な機体で様々な記録を残しながら屋台を大きく育てつつあり、それを支える航空発動機メーカーにも恵まれています。大戦中の航空発動機の特徴でもあるシリンダーがグルグル回るロータリーエンジンもグノーム、ルローン、クレルジュと次々に産声を上げ、ルノーも本腰を入れて開発に乗り出します。こうした活況は他国には見られません。アメリカに次ぐ規模を誇るフランスの自動車産業がまだ生まれたての飛行機作りの基盤となっていたのです。

 当時のフランス航空発動機メーカーでは、他国に先んじてアメリカ製の工作機械によるアメリカ式の製造法が採用され始め、手仕事中心の職人仕事は少なくとも部品製造の分野からは姿を消しつつありました。まだ組立工程ではヨーロッパ式の手仕事が幅を利かせていましたが、それでも航空発動機メーカー各社はさほど大量ではなかった陸軍の発注を十分にこなせるヨーロッパ随一の実力を備えつつあったのです。

 けれどもフランスの航空軍備は航空工業の実力に比べてまったく生彩を欠いていました。第一次世界大戦に突入した1914年8月になっても、第一線機はたった141機に過ぎず、ドイツ陸軍に大きく見劣りします。この「実力があるのにうまく行かない」歯がゆさはフランス空軍史のどこを切っても現れる、フランス空軍のひとつの特徴のようなものでさえありますが、そう言い切るのは簡単でもその「歯がゆさ」にはその時ごとの事情があります。

 なんといってもフランスの航空部隊にとって不幸だったのは陸軍内部に航空機の価値を確信する高級将校の集団が育たず、後に連合軍最高司令官の座につくフェルディナン フォッシュのような重要な軍人が航空機の価値を認めていなかったことです。そのために航空部隊は全軍の作戦を支援する総合的な兵力としての成長が阻まれてしまいます。全兵科に対して有効な総合的な発展が遅れてしまったのです。

 しかも前回、紹介したようにフランス陸軍の航空部隊は長距離偵察に価値を見出した工兵と砲兵観測を重視する砲兵との間での主導権争いに巻き込まれています。この争いは最終的に砲兵科の勝利に終わり、開戦後も航空部隊の重要なポストには砲兵出身の将校の名が並ぶようになります。大雑把に言ってしまえば初期のフランス陸軍航空隊は砲兵附属の観測機部隊なのです。とはいうものの砲兵観測を重視した点ではドイツ陸軍とそれほど変わりはありませんし、逆に正しい道を歩んでいるようにさえ思えます。けれども砲兵の発想で策定された初期ドクトリンは砲兵ゆえの特徴を色濃く持っていて、そこがドイツ陸軍航空隊と明暗を分けてしまったとも言えます。

 敵戦線後方への長距離偵察ではなく、戦場上空の観測と偵察を重視する砲兵の発想の下でフランス陸軍航空隊は1911年に行われた演習で60機もの偵察機を飛ばすなど、実践を伴いながら発展し始めます。飛行機を戦場で用いる以上、その任務は観測だけに留まらず、偵察用の航空写真機、陣地攻撃用の砲弾型爆弾(当時は飛行機から投下する爆薬をどんな形態にするか定見がまだない)、人馬殺傷用のフレシェット(手裏剣のようなものを投下する)などの開発を促しましたし、フランスにとって脅威だったドイツの軍用飛行船を撃墜するための航空機銃や「本業」である砲兵観測に用いる機上無線の開発も要求されています。
しかもこうした発想は陸軍内部だけでなく、民間の飛行機製造会社からも生まれていて、ファルマンやボワザンに37ミリ砲を搭載するなど積極的な提案が行われ、陸軍から「SF的発想」と斬って捨てられる逸話も残っています。

 こうした形で軍用機の活用法はさまざまに研究されてはいましたが、演習の結果、このような任務に軍用機を用いる場合、高高度での使用は難しく、主に高度800メートル以下で偵察と観測、そして余技として攻撃を実施する必要があるとの報告が提出され、その報告を重視したフランス陸軍省は将来の軍用機開発方針についてある決断を行います。
それは軍用機の装甲化でした。

 砲兵の想定する軍用機の活躍する場とは戦場上空です。そこを800メートル以下の低空で飛ぶ鈍足の軍用機は当然のことながら対空射撃に曝されると予想されます。危険な密度で飛行機を射撃するような兵力の上空を飛べばそうなるのは当たり前ですし、当時の軍用機は民間のスポーツ機と異なり、頑丈で鈍足な複座機が重視されていましたから尚更のことです。これが歩兵や騎兵の発想の下に策定されたドクトリンであれば、そんな危険な地域を低空飛行することなく、戦線後方の偵察を重視したところでしょうが、砲兵にとってはまさにその危険な場所こそが航空観測を必要とする主な砲撃目標だったのです。

 このために1912年から1914年という貴重な時期にフランスの軍用機開発は装甲飛行機の可能性に賭けて時間を浪費することになります。なぜなら当時のせいぜい80馬力程度でしかない航空発動機の実力では武装と装甲、そして飛行性能をバランスさせることなどできるはずも無く、当時、軍用機といえばただでさえ重く頑丈な複座機形式なのですから、重量過大でまともな機体は出来上がりません。試作研究は難航し、有能な機体を開発する能力と量産できる環境を無駄にしながら月日だけが流れてしまいます。

 実用性を重視した複座で低性能の軍用機、戦場上空での使用、低空での偵察、観測、攻撃任務に伴う対空砲火の危険、こうした要因が悪い方へとリンクした末に第一次世界大戦開戦時のもたつきへと繋がってしまいます。

12月 8, 2009 · BUN · No Comments
Posted in: ドクトリン, フランス空軍, フランス空軍前史, 発動機, 第一次世界大戦, 航空機生産

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