一応仕事が軌道に乗るまではミリタリーの本は買わないと決めているのだが、去年の暮れに何処かで聞いた話が載っているので
「日本の兵食史」鈴木 紀之
2009年12月1日発行 株式会社カマド
を、無理を言って買っていただいた。その中に乾パンの材料の小麦粉について触れているが、考えてみれば、日清日露戦争頃の小麦粉の製造や品質など何も知らない事に気づき、今日、妻が同窓会で大阪に行っている事をいいことに図書館に調べに行ってみた。
明治の初め、小麦粉の製造は石臼を人力や水車で動かす日本在来のものだった。明治維新後、まず石臼を蒸気機関で動かすことから始まり、ロールミル(ロールの間に小麦を通し押し潰す)等の導入により、欧米並みの品質の小麦粉が生産されるようになっていった。初めてロールミルが導入されたのは明治18年、農商務省が札幌に作った新工場であった。明治29年には日本全体でロールミルを使った機械製粉は日量320バーレルの製粉能力しかなかったが明治38年には10社強日量1500バーレルになった。明治38年内地小麦粉総供給高は内地生産高473万袋、輸入497万袋、合計970万袋であった。水車粉、輸入粉、機械粉の供給割合を見れば、明治17年それぞれ、97%、1%、2%なのに対し明治37年には57%、33%、10%となる。水車粉供給高を見れば明治17年6,861袋、明治35年9,321袋となる。
日本製粉は明治30年ロールミル設備を備えた新工場(日量200バーレル処理)を稼働させた。在来の国産小麦粉に比べれば高品質であったが、原料は国産小麦であったから、パンや洋菓子には向かず、麺用の上質小麦として販売された。明治36年には第2工場(日量250バーレル処理)が生産を始めた。明治32年に初めて米国産小麦950石弱を輸入し、翌年にはオーストラリア産も挽いているが、日露戦争前後の3年を除くと国内産小麦の購入高が60~90%を占めていた。
館林製粉(後の日清製粉)は明治34年にロールミル設備を備えた工場(日量50バーレル処理)の操業を始めた。明治36年には機械を増設、日量100バーレルになった。当時の製品はほとんど全部が製麺用で、現在でも名を残し(当時と同じ品質なのかは知らない)製菓用の薄力粉バイオレットは明治42年に発売されたものである。(スーパーの小麦粉売り場に行けば現在でも販売されています)
さて、開発当時の重焼麺麭は国産の石臼引きのふすまが多く、精白度が低い粒子の粗い中力粉が使われたと推定されますが、日露戦争時にはおそらく米国かオーストラリアの輸入小麦粉が使われたのでしょう。しかしそれが、強力粉だったのか中力粉だったのか薄力粉だったのかは分かりません。
引用・参考文献
「九十年史」日本製粉株式会社
昭和六十二年二月二八日発行
「日清製粉株式会社七十年史」日清製粉株式会社
昭和四十五年八月二十五日発行