「癈兵」と聞いて、子供の頃、お祭りの夜に露店の間に、白衣を着、眼帯を付けたり、松葉杖をついたりし、アコーディオンやハーモニカに合わせ軍歌を歌っていた人達をおぼろげながら思い出す。
 日露戦争時の従軍者を調べていると、負傷や疾病により兵役免除になった人達を多く目にする。後備歩兵第三十八聯隊を調べていて見出した

「京都府誌 下」 大正四年十月二十二日発行
  京都府

に日露戦争における京都府の「癈兵」の記録を見つけた。

癈病兵並に其の家族調査表 (明治三十九年五月一日現在)
癈兵(重傷にして業務に就く能はざるもの)  212名
   同上家族                   882名
  (うち救護を要する癈兵)         44名
  (うち救護を要する癈兵の家族)     130名
癈兵(軽傷にして上欄の程度に至らざるもの) 225名
   同上家族              1024名
病兵                    165名
  (うち救護を要する病兵)         12名
   同上家族               704名
  (うち救護を要する病兵の家族)      41名
合計
癈病兵                   602名
  同上家族              2061名
  (うち救護を要する癈病兵)        56名
  (うち救護を要する癈兵の家族)     171名

このうち、戦傷に因るものはもちろん、特に多かったのは凍傷(森林太郎も日露戦争時の凍傷については記録を残している)である。病気ではやはり脚気が多く、兵役免除で帰郷しても多くの兵が亡くなっている。そして、当時有効な治療法もなかった結核によるものも多かった。