戦争末期、シンガポールから病院船の船倉に水銀を隠し、日本に還送した話を読んだことがあります。この時の水銀はUボートが運んできたものだったのでしょうか?それとも、ボルネオ島の水銀鉱山で採掘された物だったのでしょうか?
「紫電改」の空戦フラップ、効果があったのかなかったのか、私には分りかねるのですが、たしか水銀が使われていました。この他にも、この当時の水銀の用途としては
- 金精錬用
- ソーダ電解用
- 爆薬用
- 薬品用
- 電気器具用(水銀整流器、水銀燈、乾電池)
- 計器用(体温計、晴雨計)
- 船底塗料
と多種に渡り、軍需生産には欠かせない物でした。
戦前、昭和12年でも国内生産20.1トン、輸入は383.8トンと自給率は約5%でした。戦前、戦中を通して日本支配下、占領下の地域では大規模な水銀鉱山はありませんでした。
戦前の世界水銀生産高を見てみると1938年で
メキシコ 293.7トン
スペイン 1378.9
ソ連 300?
米国 620.2
イタリア 2330
と意外な国が生産地だったことがわかります。
太平洋戦争開始前の本邦の水銀輸入状況を見てみましょう。
スペインからの輸入は米国が参戦するまでは、継続していましたが、価格の高騰が障害となり満足できる量を確保できませんでした。イタリアからの輸入は昭和15年8月29日ゼノア発の長良丸が大量の水銀積み込みに成功したのを最後に、イタリア・ソ連間に協定がなくシベリア鉄道の使用が許されず、入手は絶たれました。米国からの輸入は昭和15年22トン余りありましたが、昭和15年7月2日武器輸出禁止令に関連して事実上禁輸となりました。メキシコからは開戦まではある程度の輸入が行われていたと思われます(海軍のZ工作等)。昭和15年三井物産はチェコから買い付けをしシベリア鉄道を利用し輸入しました。(チェコの生産高は1937年で95トン程度で、ドイツはイタリアとスペインから充分な量を入手出来たのだからこそ、日本に送ることができたのでしょう。)とにかく、開戦前日本はかなりの量を備蓄していました。
日本での水銀の生産状況は、1925~45年の間、北海道および日本南部に集まる20鉱山で生産されました。国内生産量は、1925~45年の間の輸入量のわずか14%に過ぎません。消費量は1930年に、約300トン1941年にピークを迎え1400トンでした。
水銀生産量、輸入量および輸出量(トン)
年次 鉱山生産量 輸入量 輸出量
1938 25 400 13
1939 50 500 30
1940 120 700 30
1941 150 1300 50
1942 180 20 50
1943 230 270 36
1944 240 12 20
1945 100 0.1 5
1935年までは、奈良県の大和鉱山のみが経済的な重要性を持っていました。1935年以降は、北海道の鉱山が重要性を持ち始め、昭和14年生産を開始したイトムカ鉱山は1925~48年の間の日本の生産量の70%以上を生産しました。
昭和11年11月北海道は大雪の山で大暴風により大量の風倒木が生じました。この風倒木を建築材として搬出するため馬曳き道が作られました。この馬曳き道から赤褐色の重い角の取れた石が点々と出てきました。この石を鑑定したところ水銀含有量80%という水銀鉱石だったのです。
昭和14年4月ヤマト鉱業株式会社(後の野村鉱業イトムカ鉱業所)設立
昭和14年5月開発に着手
9月自家発電設備完成
精錬レトルト炉完成 水銀生産開始
10月元山精錬ヘレショフ炉建設着手
12月ヘレショフ炉完成
採鉱は露天掘りで精錬自体もけして難しいわけではなく、ただ精錬時に発生する水銀蒸気による水銀中毒が防毒設備の不備の為、問題となりました。
イトムカ鉱山水銀生産量(トン)
昭和14年 10
15年 75
16年 125
17年 140
18年 175
19年 190
と世界的にも有数の鉱山で日本の戦争継続に多大の寄与をしました。というより、もしイトムカ鉱山が見つかっていなければ日本の工業生産はいったいどうなってしまったのでしょうか。
引用・参考文献
「史料集 南方の軍政」
昭和60年5月25日発行 朝雲新聞社
「大東亜の特殊資源」編者 佐藤 弘
昭和18年9月1日発行 大東亜出版株式会社
「日本の鉱物資源」連合軍総司令部 経済安定本部資源調査会訳
昭和26年12月25日発行 時事通信社
「軍資秘 昭和十八年八月二十五日
水銀緊急増産対策特別企業化調査報告書
甲班 野村鉱業株式会社調査部 」
「イトムカ史」 留辺蘂町イトムカ史編集委員会
2001年2月発行