誤解されたら困るので言っておくが、私は医学の専門教育を受けた事が無いし、それに関係するような仕事をしたことも無いので医学知識などはこれっぽちもない。ただただ面白そうなので拾い読みしているだけである。だからこれから書く文章もいいかげんといえば実にいいかげんなものである。

 戦中、日本を苦しめぬいた「米軍」と「飢え」と「病魔」その中でも多くの人命を奪った「マラリア」、いろいろな戦記等に登場するのに詳しい話を見た事が無い。(私が見た事が無いだけであって、どこかに素晴らしく分り易い文献があるかもしれない。)そこで、不肖プリンス書いてみよう。

 そもそもマラリアとはどんな病気なのであろうか。
 マラリアとはハマダラ蚊が媒介する病原体プラスモキジウム(マラリア原虫)によって起こるもので、人間から蚊へ、蚊から人間へと二つの寄生主の間を往復して発育増殖(その間に色々な形に変化し、その形形により効く薬剤が違うという私の理解の範囲を超えたものである。)を繰り返し、特有の悪寒戦慄や発熱を起こし、悪化すると死を招くのである。ヒトのマラリアには、3日熱、4日熱、熱帯熱、卵形熱の4種があり、熱帯熱が最も悪性だといわれている。。体内に入った原虫を完全に薬剤で死滅させない限り、再発する可能性がある。現代でも薬剤耐性を持った原虫の出現や、地球温暖化によるハマダラ蚊生息地の北上により日本での流行も危惧されている。

 戦前のマラリアの状況を欧米に見てみよう。第一次世界大戦においてアフリカなど戦った軍はこの病気に徹底的に苦しめられた。当時、唯一の予防・治療薬キニーネは連合国支配地域でしか産出されず、医療設備の整備されていなかった両軍ともこの病気には抗すべきも無かった。しかし、戦争中は流行地域は限定されたが、戦後流行地域は広範囲に広がった。帰還兵には未治療や治療半ばの患者が多くマラリアを故国に持ち返った。また、かつての戦場は濃厚に汚染され、軍部による組織的な防疫も放棄された。加えて列強の植民地分割、民族自決の原則による新興国の誕生が民族の移動を促し、マラリアもそれに従って大掛かりな移動を開始した。

 では、次ぎにマラリアの戦前・戦中の予防・治療薬について紹介する。
 キニーネはキナ(規那)の木の木皮から抽出された薬剤で、17世紀頃、南米ペルーにおいてスペイン人に解熱剤として用いられた規那皮から発見された物である。(先住民がすでに使用していた)第一次世界大戦後、ドイツで化学合成薬が発見されるまでマラリアに効く唯一の薬だった。
 ドイツは自国でも、植民地でもキナの木がなく、第一次世界大戦中キニーネをまったく入手できず。多大の苦しみを味わった。そこで、自国でも製造可能な化学合成薬の開発に着手した。1924年「プラスモヒン」(パクマイン、8-アミノキノリン化合物の1種)、1930年「アテブリン」(アクリナミンまたはキナクリン)が開発された。そして、1930年なかばもっとも有効なゾントヒン(4-アミノキノリン化合物の1種)を開発した。第二次世界大戦開始後、アフリカ戦線から連合国にもマラリアが襲いかかった。当時、キナの木はジャワ島で大規模に栽培されており、インド、ビルマ、セイロンで少量が生産されていた。キニーネと共にアテブリンが大々的に用いられた。しかし、シチリアに上陸した連合軍兵士に襲いかかったマラリアは負傷者よりも多くのマラリア患者を生み出した。キニーネ不足の上にアテブリンの効力への疑問が持たれた。これを契機に米国や英国では精力的な新薬の開発が行われ、米国ではクロログアナイト、英国ではパルドリンが合成された。(この2種の薬、詳細がさっぱり分りません。誰か教えてください。)
 1943年、チェニス陥落後、ゾントヒンの臨床試験をしたことがあるヴィシー側のフランス人医師達がこの薬のサンプルをアメリカ軍のマラリア学者に与えた。その化学構造が米国で分析され、いっそう強い治療・予防効果をもつように、その組成がわずかに変えられ、「クロロキン」と名づけられた。この薬はマラリアに対してもっとも有効であると思われた。
 戦中、これらの薬と共に広範囲に「DDT」を撒布し蚊を駆除することにより、太平洋戦線では連合国側はマラリアに対して完勝したと思われているが、実はそうでもなかったのである。極端に悪い条件を与えられたので、例にはならないかもしれないが、空中給輸を受けて連合軍側の優秀性を体現していると言われるビルマ戦線のウィンゲート空挺団、3回以下しかマラリアにかかったことのない者は、ほとんどいなかったし、中には6~7回冒された者もいた。脳性マラリアの死者もかなりいた。そしてなによりも生還した兵士のほとんどが二度と戦闘に参加することが出来なかったのである。

 戦時中、日本では次ぎの4種のマラリア予防・治療薬が使用された。

   1、プラスモヒン.Plasmochinum
   2、アテブリン.Atebrinum
   3、4-アミノキノリン化合物
   4、キニーネ.Chinine

 これらの薬品、調べ得た範囲で紹介しよう。

  1、プラスモヒン(パマクイン)

 1924年のIG染料会社のシューレマンにより、あらゆるマラリアの有性生殖体に効力を持つ合成薬として開発された。完全を期する為にはキニーネとの供用が必要だった。副作用があり、1日の投与量0.04gを超えてはならない。日本での開発・生産状況だが、武田薬品が昭和13年末からプラスモヒンの合成研究を開始した。IG社の特許の方法を追試してプラスモヒンを合成した後、独自の方法で製造法を確立した。この塩酸塩の水溶液を注射剤、2-オキシーシンコニン酸塩を錠剤として「トロポヒン」の名称で製造した。

  2、アテブリン(アクリナミン)

 1930年にIG染料会社でプラスモヒンとは作用を異にするアテブリンの創製に成功した。アテブリンは大体キニーネと類似の働きをし、無性細胞体を殺す力がある。キニーネと違い、効力に持続性がある。戦時中、連合国側これを予防薬として大々的に使用していた。日本での開発・製造状況だが、1933年にドイツで構造式が発表され、武田薬品が研究課題として取り上げた。まもなく、製造に関するドイツ特許が公表され、その方法を追試し、昭和10年3月合成に成功した。その後研究は一時中止されていたが、戦時体制の進行と共に昭和14年はじめ再開され、同年5月には新しい合成法が得られた。この新法によるアテブリンの生産は、前期プラスモチンとともに昭和15年に創業した武田化成㈱で行われた。このとき、注射剤についても各種塩類をつくり、生物による抗マラリア作用を検討した結果、乳酸アテブリンが優れていることを認め、「ヒノブリン」の名で軍用に供給した。
 塩野義製薬では昭和15年「アタビル」(局方アクリナミン)を製造し、軍管理工場となった。
 大日本製薬では昭和16年アクリナミン(錠剤)を発売した。また、新しく出来た吹田工場でも昭和18年9月からアクリナミンの製造を開始した。

  3、4-アミノキノリン化合物

 1931年、フランスのフルノーが合成したアミノキノリン化合物は抗マラリア作用を持ち、無性細胞体を殺す力がある。ドイツが合成した「ゾントヒン」や米国が開発した「クロロキン」も4-アミノキノリン化合物の1種である。武田薬品では昭和14年にこれを取り上げ、全く新しい合成法を得た。陸軍において臨床試験が行われた結果、プラスモヒンに勝ると結論され、「ガメシード」として軍当局の支援のもとに昭和15年8月から生産が開始された。注射剤には塩酸塩、錠剤にはタンニン酸塩が用いられた。昭和16年2月には60kgを生産、以後は武田化成に移され、昭和17年10月から昭和20年3月までに、約4.8トンのガメシードを生産した。

  4、キニーネ

 キニーネはキナ(規那)の木の皮から抽出され物で、キナの木は元々南米のボリビア、エクアドルの森林に原生していたものである。19世紀半ば頃インドネシアのジャワ島で栽培されるまで、天然のものしかなく、それも乱伐の為、資源は枯渇してしまった。キニーネが結晶として初めて抽出されたのは1820年のことである。戦前、蘭印でのキナ皮栽培は90%以上を生産し、シンジケートを作り栽培を調整、供給量を制限していた。蘭印で生産されるキナ皮は全部輸出されず、バンドンのキニーネ工場で消費されるものが大部分で、その残りが輸出された。バンドンの工場で消費されるのは年により異なるが、大体総生産の40%である。キニーネの大部分は硫酸キニーネとして取り引きされている。蘭印ではバンドン工場が唯一のキニーネを生産していた。

  仕向国別キナ皮輸出 1936年

オランダ本国         7,811トン
英国               433トン
ベルギー、ルクセンブルグ     306トン     
イタリア             133トン
日本               455トン

  仕向国別キニーネ輸出高 1936年

オランダ本国           194トン
インド               16トン
タイ                 8トン
支那                79トン
日本                16トン

 硫酸キニーネはキナ皮粉末から石油を用い抽出し、キナ皮20kgから硫酸キニーネ1.29kgが得られる。薬用には主に塩酸キニーネを用い、硫酸キニーネは主として塩酸キニーネの原料となる。
 塩酸キニーネは硫酸キニーネ、水、、塩化バリウムを反応させ、濾過、析出する結晶を乾燥させた物で、マラリア予防・治療薬、解熱剤となる。キニーネの塩類中、キニーネの含有量最も多く、また最も可溶性で、しかも安定性に優れている。ただし、毒性が強く副作用があり、まれに中毒死する恐れもあるそうである。戦前、戦中製薬各社はキニーネ含有の各種錠剤、注射薬を製造し供給していた。

 戦前、日本のキニーネ取得はシンジケートが完全に押さえられており、それを打破する為、日本国内でのキナ栽培が行われた。

 塩野義製薬では明治末期から硫酸キニーネを輸入し、エチル炭酸キニーネ(オイヒニン)や塩酸キニーネの製造も軌道に乗っていたが、昭和9年には全国の輸入硫酸キニーネの40%を取り扱うほどになっていた。
 そして昭和8年、キナ皮を原料とするキニーネ製造設備も完成、同時に社員をジャワに派遣して、キナ皮の入手調査にあたらせた。良質のキナ皮はシンジケート(オランダ政府)がすべての実権を握っており、調査の結果、キニーネ含有率の低い粗悪なキナ皮しか輸入できないことが分ったので、わが国土の最南端であった台湾でキナ栽培をはかる計画を立てた。
 昭和9年、農林場開設に備え、キナの苗木の育成をはじめた。キナは苗木から10年たってはじめて採皮、加工できるもであり、10ヵ年という遠大な投資計画で、国策に沿ってキニーネの自給自足を目指したのであった。昭和11年高雄農林場を設けて、キナの植付けを開始した。
 昭和18年10月、キナ皮の処理の為に高雄工場の建設にとりかかった。収穫の始まったのは同18年。最初のキナ皮13トンは赤穂工場へ送られたが、本土への輸送が困難になった為、高雄工場で加工されることとなった。
 昭和19年5月、高雄工場の火入れ式はすませたものの、内地から送られた機械、器具は途中で輸送船が撃沈されたため、キニーネは生産できなくなり、キナ粉末の生産にきりかえねばならなかった。

 昭和16年、オランダの対日資産凍結後、キナ皮、キニーネの輸入は途絶したが、開戦後キナ農園、工場共に日本の支配下に納まり、生産を継続したが輸送難のため、これを有効に生かすことが出来ず、悲惨な状況を呈した。
 
 実際のマラリア予防・治療薬の戦地での使用状況、補給状況を具体例を書いてみよう。
昭和18年6月海軍の第八十一警備隊医務科でのマラリア患者への投薬、注射の例では

投与番号       1     2       3     4
薬名及1日量 塩酸キニーネ プラスモヒン 塩酸キニーネ プラスモヒン
          0.6g    0.03g    0.6g     0.03g     
      
        アテブリン         アテブリン
          0.3g            0.3g         
1日服用回数    3回    3回      3回     3回

 服用期間     5日    3日      5日     3日

と16日間に渡る治療が基本らしい。しかし、これで本当に完治したのであろうか。
 同じラバウルでの陸軍の治療では

   アテブリン1日3錠12日間→プラスモヒン1日3錠7日間
   アテブリン1日3錠 7日間→プラスモヒン1日3錠5日間
   アテブリン注射1筒    →キニーネ・プラスモヒン3日間

と補給難の為、短縮されて行き、ついには薬を与える事も困難になってしまうのである。
 ラバウルで補給が順調にいっていたころ、マラリアの発病を食い止める為、陸軍では全将兵が毎日キニーネ錠を1個ずつ服用(予防内服)するように定められていた。そのころは、陸軍だけでも毎月120万錠のアテブリンと300万錠のキニーネを消費していた。
 海軍の例では昭和17年11月12日ラバウルに入港した病院船「氷川丸」アテブリン、プラスモヒンを20万錠、塩酸キニーネ100万錠を補給したがこれでは足りなかったらしい。(氷川丸は昭和17年中に6回、最後は昭和19年1月31日、合計12回、入港、補給を行っている。他にも病院船「高砂丸」が入港しているし、通常の輸送船や艦艇も入港、補給を行っている。)
 有名な話で、ラバウルで再製された「百式司偵」トラック島から30万錠のキニーネを持って帰り、快挙とされ幾ばくかの命を救ったが、ラバウルにいた10万人の将兵、予防的に服用した場合たった3日分でしかなかったのである。
 ビルマ戦線でのある陸軍軍医がその当番兵と共に実際に携行していたマラリア治療薬は硫酸キニーネ錠10錠、強バグノン液(Bagnon.武田薬品の製品名で薬液1cc中塩酸キニーネ0.068、カフェイン0.0172、ウレタン0.0142を含む)8筒だった。他に野戦病院、衛生隊の手持ちもあるし、補給も在るだろう。しかし、手持ちの薬剤どういう使われ方をしたのかは分らない。

 最後に連合軍側は「DDT」を使用し蚊を駆除し、マラリア制圧に効果をあげたが日本軍の場合、そんな効果的な殺虫剤はなく、せいぜい蚊取り線香、蚊帳で蚊を防ぐが、水溜りを無くし蚊の発生を極力減らすぐらいしか方法が無かったのである。

   引用・参考文献
 「マラリア戦記」 浅田 晃彦著
  昭和40年8月15日発行 弘文堂
 
 「軍医のビルマ戦記」 塩川 優一著
  1996年6月30日発行 日本評論社

 「戦争とマラリア」 宮川 米次著
  昭和19年11月20日発行 日本評論社

 「ウィンゲート空挺団」 デリク・タリク著 小城 正訳
  昭和53年5月15日発行 早川書房

 「マラリアVS人間」 ロバート・S・デソウィツ著 栗原 豪彦訳
  1996年4月20日発行 晶文社

 「世界史の中のマラリア」 橋本 雅一著
  1991年3月31日発行 藤原書店

 「海軍医務・衛生史」
  昭和61年2月28日発行 柳原書店

 「大東亜の特殊資源」 佐藤 弘編
  昭和18年9月1日発行 大東亜出版株式会社
 
 「南方経済資源総覧 第十巻
    ジャワ・スマトラの経済資源」濱田 恒一著
  昭和19年9月20日発行 日本経国社

 「最新医薬類聚 上巻ノ一」慶松 一郎編集
  昭和23年8月20日発行 非凡閣
 
 「最新医薬類聚 下巻ノ三」慶松 一郎編集
  昭和23年5月30日発行 非凡閣

 「大日本製薬90年のあゆみ」 大日本製薬株式会社
  昭和62年12月発行
 
 「武田二百年史」 武田薬品工業株式会社
  昭和58年5月11日発行

 「シオノギ百年」 塩野義製薬株式会社
  昭和53年3月17日発行

 「氷川丸物語」 高橋 茂著
  昭和53年6月28日発行 かまくら春秋社

 調べれば、調べるほど資料が出てくる上、難しくなるという厄介な話である。キニーネ錠、とても苦くて飲む振りをして捨てていた話をよく聞くが、糖衣錠があったそうである。