空の要塞が飛び立つまで 2

 アメリカ陸軍航空隊が軍備拡張五ヵ年計画を進めた1930年前後の時代は軍拡には最も厳しい時代でした。しかもアメリカは世界恐慌の震源地でしたからその影響を大きく受けています。計画の遅れだけではなく、1933年にとりあえず終結した際にも1800機の第一線機は確保できず、戦闘機21飛行隊、偵察機13飛行隊、爆撃機12飛行隊、攻撃機4飛行隊の合計1619機にしか達していません。しかもそのうち約27%を占める442機は既に戦力とは言い難い旧式機と非制式機で構成されています。

 機材更新の停滞は陸軍航空隊が想定する対日、対英戦の枠組みの中でもまったく兵力不足でしたから航空軍備の拡充要求は続けられましたが、陸軍省は五ヵ年計画の1800機を上限として譲りません。旧式機、非制式機を除けば1800機とは5割の拡充を意味していますから陸軍省としてもそこがギリギリのラインだったとも言えます。しかし陸軍航空隊としても対日、対英戦に備えてパナマ、フィリピン、ハワイ諸島の防衛を掲げた以上、それを実施できる大型爆撃機の試作要求を引っ込める訳には行きません。

 そんな苦境の中で1932年7月、陸軍航空隊の大型爆撃機試作要求を航空隊の外で支持する大物が現れます。それはマッカーサーです。大型爆撃機が海外拠点の防衛に重要であるとの陸軍航空隊の主張に自らの主張と重なるものを見たマッカーサーの支持を得て、1933年11月、長距離爆撃機の試作研究が開始されます。

 「プロジェクトA」と呼ばれたその計画は時速200マイル、航続距離5000マイル、爆弾搭載量2000ポンドの大型爆撃機を製作するというもので、陸軍航空隊の本来の任務である沿岸の防衛だけでなく、明確に海外拠点の防衛を意識した計画でした。この計画でボーイング案が採用され、アメリカ四発重爆の元祖といえるXB-15が完成します。

 5000マイルの航続距離を持ち、2000ポンドの爆弾を搭載して200マイルで飛行できる巨大な四発重爆というものは当時としてはかなり野心的な計画です。その巨大さも実験作ゆえのことかと思えてしまいますが、実際にはこれこそがアメリカ陸軍航空隊が望んだ重爆撃機の本来の性能であり大きさなのです。けれども完成した試作機は馬力不足から予定の飛行性能に達しないため実用化は見送られますが、XB-15の審査が続く中で長距離重爆計画が息つく間もなく再興されます。それがXB-19です。

 XB-15の試作開始に1年ほど遅れて、より小型で航続距離2000マイル、時速250マイルの爆撃機の競争試作が行われます。ダグラス案の旅客機ベースとしたDB-1(XB-18)とマーチンB-10の改造型がそれぞれ双発機として比較検討されたほか、ボーイングも四発機としてモデル299を提出します。これがXB-17となり「空の要塞」と呼ばれる主力爆撃機へと成長します。

 XB-17の試作はXB-15と重なっていますから、XB-15の失敗を受けてXB-17が改良型として試作された訳ではなく、また、実験作XB-15の長所を採り入れて造られた実用機という訳でもありません。1936年頃の陸軍航空隊は大型長距離爆撃機と中距離爆撃機という別の機種でそれぞれ有望だった両者に対して大いに期待しているのです。XB-15への期待とXB-17、YB-17の好評はアメリカ陸軍航空隊内でのドーウェ主義者を大いに勢いづかせるものでした。

 また、面白いことに1934年の爆撃機競争試作と同時にこれら中距離爆撃機を掩護する戦闘機の研究も命じられています。その内容はB-10をベースにした複座戦闘機です。このような武装強化型の爆撃機を護衛戦闘機として機能させようという発想は日本だけではなく、アメリカにも存在したということですが、爆撃機と同等の航続距離、25%以上高速で上昇力、上昇限度に優れる機体を爆撃機ベースで実現できる見通しは立たず、結果的に爆撃機の自衛力を強化するという穏便な方向に納まります。

 これは1934年度計画の爆撃機は護衛戦闘機の必要性を感じさせる程度の計画だったということでもあります。戦闘機無用論に力があった時代に、護衛が必要と考えられた中距離爆撃機の中で最も脆弱なものがXB-18で、最も強力なものがXB-17だったということです。とても「空の要塞」と名乗れたものではありません。長距離重爆の理想はもっとハイスペックな巨人機にこそあったのです。理想を切り縮めて現実と折り合いをつけたB-17のような飛行機には、有無を言わせぬ革命的高性能も無ければお手軽爆撃機であるB-18のような経済性もありません。

 まったく、これからの苦労が思い遣られます。

8月 18, 2008 · BUN · No Comments
Posted in: アメリカ陸軍航空隊

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