二極分化した東部戦線独軍師団

 1942年の夏季攻勢「ブラウ作戦」はスターリングラード戦につながる大きな戦いとなりますが、南部で大攻勢が行われている間、ずっと守勢を取り続けていた中央軍集団、北方軍集団はどうなっていたのでしょう。防御ドクトリンの変遷を追う以上、これを無視する訳には行きませんから、ボルガ河流域から遠く離れた中部、北部の戦線で何が行われていたかを調べてみます。

 12月8日に東部戦線での守勢が命じられた翌月、東部戦線に大規模な連続防御陣地線を構築する計画が生まれます。「東の壁」と呼ばれた防御陣地構築計画は東部戦線を北から南へ貫く縦深防御陣地を三ヶ月の工期で築城するというもので、東部戦線にある兵力の大半と訓練中の兵士を用いて築城にあたるという大規模な計画が立てられたものの、この計画はヒトラーの決裁を得られず、中止されてしまいます。

 守勢転換を命じた本人が「東の壁」計画を拒絶した理由は主に政治的なものだといわれています。ドイツ軍が東部戦線で一斉に防御陣地を作り始めたら同盟国のドイツに対する忠誠心が揺らぐのではないかとの懸念があったからです。慢性的に兵力不足に陥っていたドイツ軍にとってルーマニアなどの東欧諸国軍とイタリア軍の兵力は無くてはならない存在となっていた上、これらの同盟国軍は来るべき1942年の夏季攻勢で攻勢の側面を固める重要な役割を負っていましたから、守勢を印象づけて同盟国の離反を招くことを警戒しての決定です。

 このために東部戦線の防衛線は1941年12月に開始されたソ連軍の冬季攻勢を支えた体勢のまま放置されることとなり、東部戦線の防衛線は「東の壁」で計画された独軍ドクトリン通りの「弾性防御」用の縦深陣地帯ではなく、点在するストロングポイントの群れが続く拠点防御方式で、それらを結ぶ塹壕戦を構築できれば・・・といった程度に留まります。

 そんな中で1942年の夏季攻勢の準備は着々と進められ1941年冬の戦いで消耗した兵員と機材の補充が進められます。しかしこの補充は全軍同様に行われた訳ではありません。機材と兵員は夏季攻勢に参加する南部の師団群に対して集中的に実施され、中央軍集団と北方軍集団に所属する師団群に対する補充は最小限に留められ、日々の戦闘消耗をようやく補える程度の水準でしか行われません。そのために1942年春の東部戦線には明らかに異なる2種類の師団が生まれます。

 ひとつは夏季攻勢に用いられる予定の師団で、これらは一般的な歩兵師団であれば9個歩兵大隊を持ち、トラックなどの輸送車輌も優先的に補充されている兵員、装備ともにほぼ充足した師団群です。そしてもうひとつのグループは中央軍集団、北方軍集団に配置された守勢用の師団群で、1941年のソ連軍冬季攻勢で受けた損害を十分に補充されないまま戦い続けているグループです。これらの防御用師団の多くは歩兵大隊を6個しか持たず、大隊、中隊の兵員も定員を大きく割っているのが普通でした。「弾性防御」は主陣地での防御にあたる戦闘グループが縦横に動き回る必要があり、逆襲には強力な反撃部隊を予備として控えておく必要があります。このために歩兵戦力が6個大隊に縮小された師団は継戦能力に大きな問題を抱えることになります。

 さらに防御師団は南方の攻撃用師団に対して装備しているトラックの供出が求められます。補給用のトラックが取り上げられ、下手をすると馬まで引き抜かれてしまうような状況で、防御師団群は陣地戦を捨てて機動戦を選択することも困難な事実上の張り付け師団となってしまいます。そして更に困難なことにただでさえ数の少ない戦車師団は戦車1個大隊を持つのみで、自動車化歩兵師団も絶望的に少なく、装備と兵員の充足率も極めて低いという状態であるため、敵の攻勢を跳ね返す有力な機動反撃部隊を構成できないという問題を抱えてしまいます。

 それでも前線では「弾性防御」用の築城が進められます。築城の代表的なパターンは兵力不足のために前進線を省略し、前哨線とバトルゾーンとなる主陣地、そして後方陣地として機能する拠点防御的な全周防御陣地群とで構成される省略型の陣地です。多少のアレンジはありながらも基本的に公式の防御ドクトリンに則った陣地が造られ始めたのは、現状の拠点防御用の陣地が冬季戦で雪と氷の中で応急的に作り上げられたものだったので、雪解けシーズンを迎えてそれらの主要構築物の多くが「溶けて」しまったという事情もあります。引き継ぐものが無ければ原則に戻りやすい上に、前線で生まれた拠点防御方式は陸軍の組織を上に行けば行くほどに「不正規なもの」として嫌悪されていたからでもあります。

 別の戦線で攻勢に出るためにより少ない兵力で損害を最小限に抑えることは「弾性防御」誕生時の目的でもありますから中央軍集団や北方軍集団の軍団レベルの高級指揮官がこのような選択を行ったのは不思議ではありませんが、1942年当時の東部戦線には1917年当時の西部戦線と異なる点として、兵力の圧倒的な不足と陣地内の運動戦という「弾性防御」の肝となる動きができる熟練した兵士の不足という問題があり、もはや頼みの綱は砲兵火力のみ、という心細い状態が1942年の中央軍集団と北方軍集団の師団群に訪れることになります。
 しかも敵歩兵部隊を最大の敵として考案された「弾性防御」ドクトリンを悩ませる東部戦線特有の敵がありました。それは予想外に強力なソ連軍戦車です。

8月 7, 2008 · BUN · No Comments
Posted in: ドイツ軍の防御戦ドクトリン, 陸戦

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