アルメデレール以前 13 (フランス軍の血塗れ4月)
1917年の春を迎えると西部戦線の連合軍は幾度目かの攻勢に出ます。イギリス軍はアラス地区で、フランス軍はエーヌ地区でそれぞれドイツ軍を押し戻すべく攻撃を開始しますが、前年のベルダン戦以来の戦訓からフランス軍は圧倒的な航空優勢を確保しようと引き続き単座戦闘機の集中運用を試みます。こうしてアラスとエーヌにわたって一大航空戦が繰り広げられ、とくにイギリス軍戦区での連合軍側損害が大きかったことから「血まみれの4月」と呼ばれています。
フランス軍もまた強力な戦闘機隊を野戦軍の指揮下から吸い上げて150機の戦闘機集団を編成し、制空部隊として投入します。この集中運用のために偵察機や砲兵観測機を掩護する役割を担う各野戦軍指揮下の戦闘機飛行隊は軍あたりわずか1個飛行隊を残すだけとなります。戦闘機集団は地上軍の攻勢開始までに航空優勢を獲得するために制空作戦を実施しますが、ドイツ軍戦闘機隊は優勢なフランス軍戦闘機隊との正面対決を避け、友軍陣地上空を飛ぶ偵察機、観測機を狙い撃ちする戦術を採用します。ドイツ軍戦闘機隊とフランス軍戦闘機隊の正面対決はエーヌ地区では発生しなかったのです。
このようにフランス軍戦闘機隊の制空作戦に乗らず、正面対決を避けて活動するドイツ軍戦闘機隊を捕捉するために戦線をくまなく哨戒飛行するには150機の戦闘機ではまったく不足でしたから、ただでさえ低性能なフランス軍の偵察機、観測機はドイツ戦闘機によって大損害を蒙ります。フランス軍はこの戦闘で戦闘機の数がもっと必要であることと、もしそれができないなら直掩任務を強化しなければならないことを学びます。そしてドイツ軍の武装複座機が複座戦闘機として観測機の直掩任務を十分にこなしている姿を目撃します。そのような機体があればフランス軍戦闘機隊は制空戦闘に専念できるからです。
戦闘機の用法について新たな教訓を生んだ1917年4月から5月にかけての航空戦でしたが、フランス軍にとって最も大きな教訓は戦闘そのものではありません。もともとフランス軍戦闘機隊は精強で兵力も大きく、単座戦闘機の集中運用開始から一年を経て経験も豊富でドイツ軍戦闘機隊に劣る存在ではありませんから「血まみれの4月」はフランス軍には訪れていません。
ドイツ陸軍航空隊の優勢は長く語られ続けて来ましたが、実際に戦闘でドイツ軍によって撃墜されたフランス軍機は4月中、たった47機です。人的損害も25人が戦死、46人が行方不明、59人が負傷したのみで、無視できるほど軽い損害とは言えませんが、かといって致命的な大損害という訳ではありません。そして損失機数よりも戦死傷者が多いのは複座の偵察機、観測機が犠牲になっていることを示していますから、戦闘機隊は4月が過ぎてもまったく健在だったのです。このあたりはイギリス軍の陥った「血まみれの4月」的な状況とまったく違うところです。
けれどもこうした大規模航空戦はフランス軍にとって新たな問題を発生させます。それは戦闘の有無、勝敗にかかわらずただ航空部隊を大規模に運用することだけで非常に高くつくという問題です。1917年4月に戦闘以外の原因、すなわち事故で失われた乗員は死亡59人、負傷93人に及んでいます。戦死傷者の数を事故の犠牲者が上回っているのです。
しかも製造不良、整備不良、乗員の疲労から来る操縦ミス、事故機の合計は266機で、戦闘の損失に数倍する数の飛行機が失われています。そしてさらにフランス軍は4月の1ヶ月だけで事故や戦闘とは別に385機の機体と発動機133機を廃却しています。木と布で造られた飛行機はこれほどに脆弱で、なおかつプロペラと一緒にシリンダーがグルグル回るロータリー式発動機のサービス寿命は100時間にも届きません。
世界一の飛行機量産能力を誇るフランスでは1916年後半には月産700機から800機のペースで軍用機を送り出し、1917年には月産1000機を超えるようになっていましたが、年間1万機以上の生産能力を持っていたのに、1917年春の前線航空兵力が1500機にも届かない理由はこれなのです。前線でドイツ軍機と戦うフランス陸軍航空隊の第一線兵力は、まるでザルで水を汲むようにして補充されては壊れ、壊れては補充されてようやく維持されていました。
砂漠でも熱帯の孤島でもない、国内、それも首都パリの目と鼻の先で戦う航空戦がこれだけ高くつくことを痛感したフランス陸軍は軍用機の量産体制をいま一度見直すと同時にちょうどこの4月に参戦した新たな同盟国、アメリカに大きな期待を寄せることになります。
1月 22, 2010
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Posted in: フランス空軍, フランス空軍前史, 第一次世界大戦, 航空機生産
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