要塞の復活

 アメリカ陸軍航空隊が長距離重爆を巡って右往左往している間にヨーロッパの情勢は段々とキナ臭くなって来ています。1935年にはドイツが再軍備を宣言して空軍を復活させ、ヨーロッパ諸国はその脅威に対抗して一斉に空軍の機材更新と拡充を開始していますが、大西洋を越えたアメリカでは陸軍航空隊が1926年に計画した第一線機1800機の達成も遅れに遅れ、第二次の拡充計画による第一線機2320機の目標がようやく1939年度に達成される予定というスローペースです。

 しかし陸軍航空隊もヨーロッパ情勢をまったく無視していた訳ではなく、それなりの動きも見られます。それは1936年に陸軍航空隊の副司令官にヘンリー・アーノルド大佐が任命されたことから始まります。アーノルドは陸軍航空隊の中枢に位置するや直ちに独自の研究を開始します。

 アメリカの国策だったモンロードクトリンに対応する航空戦力についての研究を陸軍中央の干渉を受けないよう非公式に命じ、その概念が固まった段階で陸軍省に航空隊拡充計画を提出する予定でしたが、研究半ばの1938年夏に陸軍航空隊司令官のウエストオーバー少将が飛行機事故で死亡し、代わってアーノルドが少将に昇進して陸軍航空隊司令官に任命されたため、モンロードクトリン対応の航空戦力研究は中止されてしまいます。

 それでもアーノルドの研究はドイツの脅威に対抗する西半球の防衛にあたる航空戦力は行動半径1500マイル、上昇限度35000フィートの高速長距離重爆撃機を中心とする7つの飛行集団をアメリカ本土、アラスカ、パナマ、ハワイに展開するという基本概念を打ち立てています。この長距離重爆配備構想は今までの「艦船攻撃に有効なB-17」といった程度の話ではなく、それよりも遥かに大型で高性能な爆撃機を配備して明確にドイツと日本の脅威に戦略爆撃で対抗するためのもので、モンロードクトリンに対応した西半球防衛という確固とした概念を前面に出した点で画期的なものでした。

 アーノルドの構想は陸軍省にとって今までになく扱いづらいもので、半ば無視されたような形で疑念と共にホワイトハウスへ送られます。当時の陸軍省は各兵科のバランスを重視しつつ与えられた予算の中でその配分をいかに有効に行うかを主眼に軍備を検討していましたからアーノルドのような航空超重点主義の主張は最初から想定外のことで、陸軍省が単独で決定できるものではありません。

 しかし1938年の秋、もう一人の重要人物が決断を下します。それは大統領本人でした。ルーズベルト大統領はナチスドイツの脅威の本質が急速拡大を続ける空軍力にあると判断し、それに対抗するには「陸上兵力ではなく航空兵力である」と宣言します。そして西半球を防衛するためには第一線機20000機、航空機生産量を年間24000機へと拡大する方針を発表しイギリス、フランスからの飛行機増産要求にも対応する姿勢を示します。現実の第一線機が1938年度中期に2000機程度しかないのですからルーズベルトの構想は航空兵力を10倍に拡大する巨大計画です。

 この大兵力を実現し、維持するために、そしてイギリス、フランスへの軍用機供給のために航空機工業の大拡充が必要です。そのために軍用機の購入予算だけではなく、航空機工業への大規模な投資が決定されています。アメリカは平時においてその空軍力でナチスドイツへの抑止力として機能し、戦時においてはイギリス、フランスに対する軍用機の供給源となり、アメリカが直接軍事介入することなくドイツを圧倒するという建前で巨大な空軍が必要とされたのです。

 ヨーロッパ情勢にやや距離を置く傾向があり、アメリカの航空軍備充実に対して消極的だった陸軍省と、ナチスドイツへの抑止力としての空軍力を重視したルーズベルト大統領の間にこのような認識の差が生じた理由としては、大統領がヨーロッパの軍事情勢について各地の大使から密に連絡を受けてミーティングを繰り返し、陸軍省経由ではない情報源を確保していたことが挙げられます。西半球防衛のための大動員計画が大統領によって打ち出されたことで、陸軍航空隊と陸軍省の軋轢はほぼ姿を消し、アメリカは空軍大拡張時代を迎えます。

 同時にアメリカ陸軍航空隊内でも爆撃機部隊に対して攻撃的定義が隠されることなく述べられるようになり、「GHQ Air force」(現地の陸軍地上部隊の指揮から離れて陸軍参謀長指揮下に戦略予備として集中された航空部隊 1935年創設)はアーノルドが西半球防衛用の爆撃機に1500マイルの行動半径をも超える長距離爆撃機の開発を主張します。

行動半径5000マイルの爆撃機 敵本土への報復爆撃用
行動半径2500マイルの爆撃機 西半球防衛用
行動半径1500マイルの爆撃機 艦船攻撃用
行動半径500~750マイルの爆撃機 地上軍支援用

 このような長距離重爆のカテゴリーを陸軍航空隊はもはや遠慮なく要求するようになるのですが、実際の爆撃機開発は技術的限界からもう少しおとなしいもので、まずB17の増産が決定した後、その数を補う目的で同程度の爆撃機(原計画はライセンス生産)を得るためにB24の発注が行われます。1940年度のB17発注数は70機で、B24の発注数は16機となっています。

 ルーズベルト構想に比べて余りにも少ない機数ですが、航空機工業の生産能力が追いつかないのでこれ以上の増産はまだ望めません。その後に増産体勢が整ってからは量産用の爆撃機であるB24は約20000機が生産されてアメリカ軍用機中で最大の生産機数を記録しますが、B24のような四発重爆撃機が量産レコードホルダーになったのは偶然ではなかったということです。そして双発爆撃機B18の更新はB25とB26によって担われることになり、1940年度に183機、201機の発注がなされます。

 さらに1939年初めには今まで長距離爆撃機の実験作XB-15とXB-19の技術資料の再検討が開始され翌1940年5月には戦術行動半径2000マイル、巡航速度200マイル、標準爆弾搭載量2000ポンドの西半球防衛用爆撃機(アーノルド研究とGHQ Air Force要求の中間的性能)の開発が決定します。これがXB-29とXB-32となって試作発注されるのですが、やがて第二次世界大戦最高の四発重爆となるB-29は確かに巨大で高性能だけれども、実は本命の大陸間爆撃機からひとつランクが下の爆撃機だったということですね。

8月 22, 2008 · BUN · 4 Comments
Posted in: アメリカ陸軍航空隊

4 Responses

  1. ささき - 8月 23, 2008

    5000mile bomber が更に倍になって 10,000mile x 10,000lbs の ten-ten-bomber 構想になったのでしょうか。確かイギリスにも巨大爆撃機構想があったと思いますが、、ドゥーエの薫陶を受けた空軍が辿りつくものは、何処でも似たようなものだったのでしょうかね。

  2. BUN - 8月 23, 2008

    ひさびさに感想を戴けたので、これで終わらず、まだ続けます。
    そこでアクビしたあなた、まだまだ我慢です。

  3. matsuzay - 8月 24, 2008

    初めまして、

     軍事関係は門外漢ですが、興味深く読ませていただいて居ります。軍事に限らず大型プロジェクトでは成果だけに目を奪われがちになりますが、その底流にあるドクトリンの確立に至る過程が実は一番面白いところですよね。
     一つお伺いしたいのですが、航空戦力の大増強のためには機体の増産に加えてパイロットや地上要員の増員が欠かせないと思いますが、そのお話はこれからされるのでしょうか。

  4. BUN - 8月 25, 2008

    ソ連空軍編(これも途中ですけれど・・)でも書きましたが、動員の時期と規模が第二次世界大戦での空軍力に直結しています。最も早くしかも荒っぽく手をつけたのがソ連で、次に英米、そして日本、出遅れたのがドイツです。これも面白い部分ですのでいずれ触れると思います。

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