退化した防御ドクトリン

 ドイツ陸軍の防御ドクトリンの変遷を追っているはずなのですが、これがどうにも解りづらいもので、よく伝わらないのではないかと心配しています。ヒトラー自身もドイツ陸軍に命じた防御ドクトリンがどのような物だったかをよく覚えていない傾向があり、拠点防御を禁じ、弾性防御も骨抜きにして連続線式の防御戦を命じておきながら1942年の冬季戦を控えて「特に各ストロングポイントは最後まで守り抜かねばならない!」と演説して前線指揮官達を困惑させるなどかなりいい加減な部分が見られます。

 そして世間からは軍事的才能の集団と思われているドイツ陸軍の高級将校達もヒトラーに対して主張できたのは既に実施不能に陥っていた弾性防御方式だけですから、ヒトラーを笑えません。ヒトラーの時代錯誤のドクトリン強要と死守命令が無ければドイツ陸軍中央は東部戦線で実施不可能な弾性防御を指導して史実より早い時期に壊滅したかもしれません。または、ドイツ陸軍がどのように戦おうと東部戦線の行く末は独ソ航空戦の結果が全てを決定していたので戦局は大して変わらないと考えてもいいでしょう。

1941年冬の経験がありながら、1942年の冬季戦には顕著な進歩は見られません。戦術的には弾性防御から連続線式の防御へと移行したこと、兵員の質が低下したことなどで、かえって退化したと評するのが本当でしょう。けれども細かく見れば1941年の冬とはいくつかの相違点が見られます。

第一に冬季装備の充実です。モスクワ戦では輸送が間に合わなかった冬季装備が1942年冬には既に準備されていました。この冬季装備があったお蔭で1941年冬の拠点防御方式ではなく、ヒトラーが強要する連続線式の防御線を展開できたのです。二度目の冬にはドイツ陸軍は冬季の野戦を戦えたということです。

第二に連続線式の防御戦を成功させるには反撃用の予備兵力が絶対に必要ですが、絶望的に不足していたのは事実であってもそれぞれの戦線には即時反撃可能な兵力がたとえ1個スキー中隊であっても用意されていたという点も大きな違いです。

第三にヒトラーが強要した連続線方式の陣地構築作業には前線部隊だけではなくロシアの民間人の動員など軍の組織外からの労働力が大量に導入されたことも大きな相違点です。土木作業が部隊の戦闘能力や技量、士気を低下させることを防ぐ意味からもこれは重要な変化でした。

 第四に対戦車兵器の進歩です。1942年の半ばにはドイツ戦車に長砲身の戦車砲が搭載され始めます。T-34に対抗できる戦車が登場した意味は大きく、対戦車砲も口径と初速が増大しています。ソ連軍の機動突破作戦に立ち向かうドイツ軍の薄い連続線式防御陣地にはまたとない援軍です。

 このような違いはありますが、全般的に見て1942年の冬季戦は根本的な変化の無いものでした。1943年に入ってハリコフをめぐる攻防でマンシュタインが指揮してみせた機動戦の見本のような反撃作戦もありましたが、だからといって戦術の革新がなされた訳ではありません。ドイツ陸軍は以前からそのように機動戦を戦うことができる軍隊だったからです。

 中部、北部の戦線で現実に戦われた多くの防御戦闘は既存の拠点をつなぐ細々とした塹壕にまばらに配置された歩兵によって戦われ、敵の突破に対しては最低限の予備隊ができるだけ早期に逆襲するというパターンが繰り返されています。敵の突破行動を粉砕する役割の大半は砲兵火力の集中と航空阻止攻撃以外にはなく、冬季戦の前に懸念されていたデミヤンスク付近の突出部やルジェフ付近の突出部は失われてしまいます。

 ただ最終的な戦線崩壊を免れた理由としてはヒトラーの死守命令によって築かれた前年冬よりは少し程度の良い陣地と冬季装備の充実、砲の威力を強化した突撃砲の有効活用があったことと、前年冬のソ連軍攻勢最盛期には消耗と厳寒によって事実上、活動が停止してしまったドイツ空軍が冬季も比較的活発に活動できたことが挙げられます。

 陰鬱な1942年冬季戦でしたが、ただ少しだけ何かの兆しのようなものが見え始めます。それは歩兵部隊と戦車部隊の関係が段々と変わり始めたことです。

8月 11, 2008 · BUN · No Comments
Posted in: ドイツ軍の防御戦ドクトリン, 陸戦

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