「ハリネズミの陣」はなぜ生まれたか

 電撃戦時代前半までのドイツ陸軍の防御ドクトリンは第一次世界大戦の遺産でした。戦車はあくまでも攻撃兵器として反撃フェイズで集中投入されるもので、敵の攻撃を受け止めるのも歩兵なら、打ち破るべき敵も敵歩兵でした。敵歩兵さえ殲滅すれば随伴する戦車は脆弱な存在である、との認識がこうしたドクトリンを支えていましたが、ドイツ陸軍伝統の弾性防御が通用しなくなる局面がついに訪れます。それが独ソ戦です。

 独ソ戦初期のドイツ軍の大突破とそれに続くソ連野戦軍主力の大包囲作戦は基本的に次のような手順で進められます。まず敵の前線を航空支援を受けた圧倒的な戦車部隊が突破します。航空支援が成功しないと戦車部隊は突破できません。ドイツ軍戦車が敵前線を突破する際には必ず、戦争末期のアルデンヌでさえ濃密な航空支援を受けているのが特徴です。

 そして突破した戦車部隊は敵後方を大きく回り込んで包囲を達成します。包囲完成後は敵の救援作戦を撃退しつつ、戦車師団の後に続く歩兵師団が本格的な包囲網を完成します。それから包囲した敵を殲滅しにかかるのですが、独ソ戦でドイツ軍は初めて広域に布陣する敵の大軍を本当に取り囲んでしまいます。

 このような深部までの突破と大規模な包囲作戦を実施する際に大きな問題となったのは機械化された戦車師団群と徒歩によって前進する歩兵師団群との機動力の差です。何しろ包囲の規模が大きいので戦車師団はどんどん先へ進撃してしまい、歩兵師団ははるか後方に置き去りにされてしまうのです。しかも主要道路は先行する戦車師団への膨大な補給に使われてしまうために二線級の道路があてがわれる場合もあり、このために大包囲作戦での歩兵師団はその機動力の限界まで使い果たしながら必死に前進するという極めて過酷な経験を積むことになります。

 戦車師団はとにかく嵐のように突破して進撃してしまいますが、敵の反撃は後続の歩兵師団に対しても遠慮なく襲い掛かりますから歩兵師団はそれを迎え撃たなければなりません。けれども歩兵師団が本来の防御ドクトリンに沿ってじっくりと弾性防御を実施していると先行している戦車師団が窮地に陥ってしまいますから、前進しながら敵と戦うという交換比率の悪い厳しい戦闘を繰り返します。大包囲作戦に弾性防御は不適切というか「やってる暇がない」という事態を迎えます。

 一方、突破先行している戦車師団も苦しい事態に見舞われます。第二次世界大戦前半の戦車師団というものは、前の大戦以来の戦車集中の思想で編成されていますから、戦車部隊中心で、随伴する機械化歩兵の編制が小規模なのが特徴です。そのために機動戦には強力ですが、一旦、停止してしまうと防御には極めて不利な編制となっています。

 機動しながら敵の救援作戦を撃破することはできても、じっと陣を構えて敵を包囲陣内に閉じ込めるのは戦車師団本来の仕事ではなかったのです。何といっても立ち止まった戦車部隊は敵予備兵力によってあらゆる方向から攻撃される可能性があります。けれども包囲が大規模であればあるほど歩兵師団の到着は遅れるのが当たり前ですから、戦車部隊は戦車部隊なりの防御戦を実施しなければなりません。

 そうでなくても夜間や補給待ちの状態では何にしても停止しなければならず、戦車部隊は独自の防御戦闘法を身につけるようになります。それが「ハリネズミの陣」です。戦車がぐるりと全周を守れるように円陣を組んで停止する「ハリネズミの陣」は戦記や漫画でも御馴染みの言葉ですが、それが生まれた背景は独ソ戦初期の大包囲戦で発生した先行する戦車部隊の孤立にあります。本来防御戦に必須の歩兵師団が後方に取り残されしまったために編み出された苦肉の策がドイツ戦車部隊の「ハリネズミの陣」でした。

 この「ハリネズミの陣」は戦車部隊の防御戦術として有効でしたが、ハリネズミの名の如く広域の防御には向きません。今まで大きな波のように戦っていた戦車師団は「ハリネズミの陣」をとった途端に小さな点に変わってしまうからです。独ソ戦初期の大包囲作戦がソ連軍主力を完全に閉じ込められなかったのはこうした理由です。

 そんなことは最初から予想できていたのではないか、とも思えますが、フラーにせよグデーリアンにせよ、機動戦の理論家たちは戦車部隊の集中突破が成功すれば敵の抵抗は瓦解すると予想していましたし、本音を言えば独ソ戦で発生したような大規模な包囲が現実に達成できるとはそれほど真剣に考えていないという問題もありました。小さな包囲で閉じ込められた小さな敵はすぐに干乾びてしまいますが、大きな包囲で取り込まれた大兵力の敵は大規模ゆえにしばらくは元気で、しかも包囲されたとなると、猛然と後方へ向けて「進撃」してくるのでそれを戦車師団単独で押し留めるのは困難だということまで予想ができる「理論家」は誰もいなかったのです。

 このような経緯からも電撃戦を支えた機動戦理論がかなり観念的なもので、リアルな想像力を欠いていたことを読み取れるように思います。戦間期の空軍万能論が流行した時代に戦略爆撃に耐えられる国民はいないと考えられていたように、同時期の機動戦理論でも集中的な戦車攻撃で瓦解しない野戦軍はいないと考えられていたということです。けれども実際に理想的規模で勝機をつかんでみると、そこには予想外の現実が待っていたわけです。

 さて、現実の厳しさを学んだそれからのドイツ軍防御ドクトリンはどう変わっていったのか、これが楽しくなくて何を楽しみにいたしましょう。

8月 2, 2008 · BUN · No Comments
Posted in: ドイツ軍の防御戦ドクトリン, 陸戦

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