「BCR」とは何だったか?

 1933年のナチス台頭によってヨーロッパ諸国に軍備拡張時代が訪れます。フランスでも同年の空軍独立と共に新しい軍備に向けての諸政策が進められています。この時期に航空相に就任したのがピエール・コットです。コットは航空軍備について理解が深く、空軍独立思想の牽引車的役割を果たした重要人物ですが、航空機工業界に対して軍用機の設計、生産にまで及ぶ厳しい統制と干渉を行い、業界と深く対立してしまいます。

 プロトタイプ政策時代に積み重ねられた政府への不信が政策への非協力態度を助長した一方、ピエール・コットは軋轢が生じると航空機工業界の国営化を匂わせて恫喝の道具に使う強硬な態度を取るようになります。ピエール・コットの唱える空軍論はなかなか面白い部分がありますから、それについてはまた後で触れますが、良い面もあれば悪い面もあるという結構当たり前な話です。

 ピエール・コットが1933年から1934年にわたって航空相をつとめた時代に実施された政策の中で最も際立っているのが「BCR構想」です。これは「爆撃 戦闘 偵察」の頭文字で、これらの任務を兼任できる万能機を空軍の主力に据えることで機種の統一と任務に対する柔軟性を確保するという考え方です。どんな機体が万能機かといえば、アミオ143やポテ63シリーズ、ブレゲー693など1930年代後半のフランスになぜか沢山登場する多目的双発機が「BCR」またはその影響下に生まれた「BCRの亜流」です。

 「BCR」のような万能機構想がうまく行くはずがない、と現代の我々からは簡単に予想できますが、1930年前後の常識で「BCR構想」を眺めると、そこには十分な魅力がありました。その背景には当時、世界に蔓延していた戦闘機無用論とドーウェの思想の影響があります。双発機の性能向上ペースの速さと単発複葉戦闘機の性能向上の限界到達が相まって戦闘機無用論の源流を作り上げていたのですが、さらにドーウェの主唱する空飛ぶ巡洋艦隊的な空軍の姿が双発万能機を後押ししていたのです。フランス空軍にもドーウェ主義は浸透していましたから空軍論の元祖が唱えるスタイルの軍用機に権威が無い訳がありません。

 「BCR構想」はそうした多目的軍用機を装備することでフランス空軍が装備していた旧式機を更新し、1936年までに1010機の「BCR」を配備してドイツの脅威に対する抑止力とするものです。多目的双発機を中心に装備することで、配備された兵力を臨機応変に使いたいという狙いと同時に、フランス空軍に課せられた地上軍と艦隊への支援と空軍独自の作戦とを両立させようという発想でもあります。フランス空軍は独立空軍ですが、独立空軍であるからといって陸海軍への支援任務から解放されることはありません。「BCR」にはこうした相反する任務を両立させるための解決策という性格があります。

  専門機種ではなく多用途に使える「BCR」だからこそわずか1010機の配備計画で済むと考えられていましたし、「BCR」だからこそ陸海軍からの支援要求と空軍独自の作戦を両立させることができると期待されていました。そして何よりもフランスの航空機工業はこの水準の航空軍備にすら追従できないほどに弱体化していたので「BCR構想」にはなおさら無視できない魅力があったのです。

 「BCR構想」がもたらしたものは機材面の目新しさだけではありません。乗員の訓練方式もまた「BCR」に特化したものに変更されています。「BCR」の基本は爆撃機ですが、この爆撃機部隊が敵戦闘機と空中戦を行う際には編隊を組んだまま旋回機銃で対抗する訳ですから単機での偵察任務を除けば編隊行動が最重要視されます。したがって編隊行動中心の訓練と乗員全てが他の乗員の任務をカバーできるように航法、射撃、爆撃、操縦の訓練が行われ、飛行機が万能なら乗員も万能であることが求められています。

 けれどもこのような万能機を実現するには機体設計、発動機などですぐに限界に突き当たることは目に見えていますから「BCR構想」による新型双発機の開発には殆ど見込みが無いという「BCR」否定論は1936年頃には早くも決定的になっています。万能ゆえに速度も爆撃機としての能力も不十分な「BCR」は単発単座戦闘機の脅威に対抗できないと、その推奨者だったピエール・コットでさえ口にするようになります。

 そうはいっても当時のフランスにとってはそれに代わる新型機の開発には時間が掛り過ぎる上に、ドイツの再軍備進捗状況を見ても航空軍備の更新は急務でしたから開発中の「BCR」的新型機を簡単に捨て去ることはできません。しかもフランス空軍はその訓練体系を「BCR」に特化させてしまっていますから、「BCR」と「BCR」的軍用機からの転換は単に機材の更新だけで済む問題ではなかったのです。

 こうした理由でモランソルニエMS406といった単発単座戦闘機の配備は遅れ、高性能のデボワチンD520や重戦闘機ブロックMB151系の配備はさらに遅れます。こうした機種構成の不適切さが際立ったのは1940年5月のミューズ側渡河阻止作戦でしょう。ひょっとしたらドイツ軍の突破を阻止できたかもしれない航空阻止作戦に延べ数百機を投入しながら十分な戦果を挙げることができず、出撃した「BCR」と「BCR」的機体を装備した攻撃隊はその大半が未帰還となっています。

 戦争末期に日本の海軍航空関係者がもらした「烈風が200機あれば戦局が逆転しただろう。」という大袈裟で希望的な感想がありますが、この戦場に[BCR]でなく、新鋭のD520戦闘機が200機程度で制空任務に就いていたら、ドイツ空軍の活動は極めて限定され、その結果「セダン突破」は失敗し戦局が変わったかもしれません。制空権の無い機動突破作戦など考えられないからです。「BCR構想」の背景にはそれなりに合理的な判断があり、フランス空軍特有の避けがたい政治的、財政的事情もありますが、それがもたらした結果はまさに痛恨の極みでもあります。

4月 14, 2008 · BUN · No Comments
Posted in: フランス空軍

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