アルメデレール以前 7 (戦略爆撃の夏)

 1914年10月の改革がフランス陸軍航空隊にもたらした最も大きな影響は爆撃機隊の独立です。マルヌ会戦が終わって膠着状態となった戦線では長距離偵察の必要性が薄れ、観測機と砲兵の連携はドイツに比べていま一つ上手く行きません。敵機を搭載機関銃で撃墜することに成功してはいても、ヴォワザン以外の機種は空中戦にはあまりにも不適な性能でしたし、もっとも適性のある牽引式で単発単座の機体を戦闘機として機能させるプロペラと機関銃の同調装置が生まれていない時期に戦闘機が発展するはずもありません。

 そこであらためて注目されたのが戦略爆撃です。もともとフランスはドイツ軍がパリに迫った8月28日に戦線を飛び越えてパリに侵入したタウベ機によってエッフェル塔を悠々と旋回飛行された挙句に爆弾まで落とされた経験を持っています。そして翌日にはドイツ軍の進攻によりパリの命運も尽き、もはや降伏以外の道はないと恫喝するビラまで撒かれていましたから、フランスとしては報復爆撃の下地は揃っていて、むしろ静観している方がおかしい状況でしたが、9月のマルヌ戦後も航空機生産の立ち直りは不完全だった上に、開戦と共に閉鎖されてしまった飛行学校は年末まで再開できず、新たな乗員の補充見込みも十分に立たないという苦境の中で、爆撃機部隊の編成は思うにまかせません。

 開戦以来のドタバタに喘ぐ航空部隊とは別にフランスの工業界や政界は開戦直後からドイツ国内への爆撃作戦を主張しいたこともあり、11月23日に最初の爆撃グループGB1が編制完結して任務に就きます。ヴォワザン18機を装備するGB1によってフランス陸軍初の爆撃専任部隊が誕生します。当初の構想ではドイツ国内のエッセンを空襲する予定でしたが、最初の爆撃作戦はフライブルクの鉄道駅に対して12月4日に行われ、年末には爆撃目標のターゲッティング作業が本格的に開始されるようになります。

 けれども一応は爆撃目標の選定まで本腰を入れてはいますが、何といっても部隊が小規模でターゲッティング作業に見合うほどの効果は期待できません。フランス陸軍総司令部もその点は承知していたようで、軍の作戦公報の記事を埋めて国民の士気を鼓舞する目的で実施された名目的な空襲というのが正直なところでした。偵察機がいかに重要な情報を報告しても、観測機がどんなに巧みに砲兵を支援しても、銃後の国民にとってはそれにどんな価値があるのか余り実感が湧かないものですが、爆撃作戦とその報道は極めて好評でしたから、それからしばらくの間、フランス陸軍航空隊を爆撃作戦に駆り立てたのはこうした戦線後方の政治的事情ということになります。この何ともいえない煮え切らなさがフランス陸軍航空隊の味かもしれません。

 年が明けて1915年を迎えると及び腰のフランス陸軍爆撃隊の活動もさすがに活発になってきます。単に宣伝効果だけではなく、実際に爆撃の効果を増大することも研究されています。民間の産業界と政界は膠着状態となった戦争を終わらせる糸口を戦略爆撃に見出していましたから、フランス陸軍もその圧力に応じて動き始めます。そのころヴォワザンが投下する爆弾は90ミリ砲弾をベースに爆弾専用信管を取り付けた改造弾で、これを胴体に取り付けた針状の簡易照準具を利用して見越し角を測って照準し、高度2000m以下で後席乗員が直接、手で投下していました。2000m以下で風向風速に左右されない天候を選べば時速80km程度の爆撃機から投下する爆弾の命中率は個別の建物を狙える精度があり、十分に実用的でした。

 1915年に入るとこれが更に威力の大きな155ミリ砲弾ベースの大型弾に変更されます。90ミリ砲弾と155ミリ砲弾の威力の差は結構なもので、至近弾でも大きな損害を与えることができる点で戦略爆撃には必須の仕様と言えます。爆弾の総重量は40kg程度です。しかしこれだけ爆弾が大型化すれば後席乗員が直接手で投下することは難しく、爆弾は胴体下に投下具を介して懸吊され、後席から遠隔操作で投下されるようになり、我々が普通に想像できる範囲の機構を持った「爆撃機」の姿にかなり近づいて来ます。

 長距離作戦の訓練を積み、爆弾の威力が増大したフランス陸軍爆撃部隊はターゲッティングの結果に従い、1915年5月に本格的な戦略爆撃作戦を試みることになります。最初の目標にはルードヴィッヒスハーフェンの火薬、毒ガス工場が選定されますが、強風続きの天候により、延期が繰り返され、出撃は5月27日となります。爆装したヴォワザンは向かい風が強いと基地へ帰還できないのです。この出撃は飛行隊長のゴイだけが発動機不調で不時着して捕虜となった以外に損害はなく、作戦は成功と判断されます。続いて爆撃部隊はその質だけでなく量的な強化も行われ、ヴォワザン18機を装備したGB1には新編成のGB2、GB3、GB4が次々に合流し、6月15日のカールスルーエ空襲では23機へと出撃機数が増え、戦略爆撃作戦の出撃機数は8月には60機から100機程度にまで増強されます。

 その爆撃効果は別としてドイツ陸軍航空隊がこれだけの活動を黙って見ている訳が無く、7月に入るとドイツ国内の対空砲火は格段に強化され、機関銃で武装したアビアチック機がフランス爆撃機を邀撃するようになります。さらに新鋭のプロペラ同調機関銃を持つフォッカー単葉機が投入された8月中にはフォッカーにより9機のヴォワザンが撃墜されてしまいます。当然、乗員は誰も帰って来ません。もともとヴォワザンのようなプッシャー式の機体ではプロペラが邪魔をして後方への射撃が出来ないという重大な欠点があります。こんな機体が戦闘機に食い付かれたら文字通り致命的でしたから、ヴォワザンの後席は座席の上に立ち上がって主翼上面越しにカービンを撃ちまくるという必死の抵抗を行いますが、損害は日増しに増加します。出撃機数の増大(前述の60機以上の出撃はこのために行われた)で邀撃戦闘機を圧倒しようとの試みもなされましたが期待した程の効果は上がらず、ついに1915年夏一杯でフランス軍の昼間戦略爆撃作戦は終了に追い込まれ、フランス陸軍総司令部は爆撃作戦を夜間の戦術爆撃に切り替える決断を下します。世界大戦中のあらゆる戦略爆撃作戦と同じく、構想は立派でも損害ばかりで実益の少ない作戦だったからです。

 ひと夏の短い戦いではありましたが、フランス陸軍爆撃隊の戦いぶりはかなり勇敢です。そこには知恵もあれば勇気もある戦時英雄の見本のような逸話が残されています。たとえば、ヴォワザンの損害を補充するために送られて来たモーリスファルマン装備のMF25飛行隊長、アッペ大尉はV型密集編隊による防御火力の相互補完という爆撃機の防御戦術を考案します。その後も長く採用され続けた多座機の基本戦術を発案したアッペ大尉の功績はインメルマンターンの空戦への活用よりも偉大ではないかとも思いますが、アッペ大尉への賞賛はそれだけではありません。自らの機体の車輪と主翼を赤で塗り上げたいわゆる「エース塗装」を施し、敵基地へ挑戦状を投下して「部下を狙うより、長機である自分を狙え」と挑発した向う気の強さこそ英雄に相応しいものでしょう。その首に25000マルクの賞金が掛けられたと噂されたカラフルな機体を駆る空の英雄は、戦闘機隊ではなく、まず爆撃隊に生まれたのです。

12月 27, 2009 · BUN · 2 Comments
Posted in: フランス空軍, フランス空軍前史, 第一次世界大戦

2 Responses

  1. マンスール - 12月 30, 2009

    V字編隊による防御法案出に貢献したと言う事は、似たような形状の機体ながら、ファルマンは銃座を前席に持っていた分、銃座が後席(従って上翼の直前)に置かれていたヴォワザンより後上方射界がいくらか広かったと言う事になるのでしょうね。
    両機種とも大きな実績を残している事は承知していても、どちらも現代人の目から見ればのんき極まりない、遊覧飛行にしか使えなさそう、百歩譲っても偵察・観測がやっとにしか見えないスタイルなので、片や機銃による撃墜一番乗り、片や爆撃作戦の花形というのは、なんとも飲み込みにくい事ではあります。

  2. BUN - 12月 30, 2009

    マンスールさん

    ライトフライヤーから何歩も出ないような黎明期の飛行機ですから確かにそんな気持ちになってしまいます。そんな飛行機を日本軍がモ式として重用していたことも、それだけ見ると「軍事航空の発展に乗り遅れた日本」といった印象ですが、使用している爆弾も機体も本家のフランスと大して変わらないところが面白いですよね。

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