アルメデレール以前 6 (マルヌ戦後の回復と改革)

 マルヌの戦いによってフランス陸軍内での飛行機に対する評価が大きく変わったことは、航空機部隊の組織から明確に読み取ることができます。マルヌ以前には軍用機に任務別の機種という概念がありません。それぞれの機体に特徴があり、適した任務があることは十分に認識されていましたが、部隊は単純に飛行隊として捉えられて偵察、観測、爆撃といった任務を渾然一体にこなしていました。整備や補給の都合から部隊にはできるだけ同じ種類の機体が装備されるよう取り計らわれてはいましたが、この機を装備しているからこの部隊の任務はこれ、とは言い切れない何でも屋的な要素があります。

 ところがマルヌ会戦直後、10月8日にフランス陸軍総司令部は航空機部隊を再編することを宣言します。フランス陸軍航空隊は陸軍総司令部の要求により、31個飛行隊から65個飛行隊、384機へと大拡張されることとなりますが、単に部隊数が増えただけではなく、65個の飛行隊は16個の爆撃飛行隊、16個の偵察戦闘飛行隊が軍司令部の指揮下に配置され、30個の観測飛行隊が各軍団司令部の指揮下に置かれ、さらに3個騎兵飛行隊(装備機数を標準の6機から4機に減らし身軽な機動戦向き編制となったもの)といった機種別編成になった点が今までに無い変化です。

 こうしてフランス陸軍航空隊は飛行隊を任務ごとに専門化すると同時に雑多な機種構成を脱却して主要4機種に生産を集中するようになります。

モランソルニエ単葉機(80馬力のルローン空冷ロータリー発動機)=戦闘機
モーリスファルマン複葉機(80馬力ルノー空冷列型発動機)=偵察機
コードロン複葉機(80馬力ルローン空冷ロータリー発動機)=砲兵観測機
ヴォワザン複葉機(サルムソン130馬力発動機)=爆撃機

 これらの機体はそれぞれが最初から戦闘機や爆撃機として開発されたものではありません。必要とされた任務に適性のある機体が振り分けられただけで、中でもヴォワザンは最も大馬力だったから爆撃機として選ばれたに過ぎません。

 この頃のフランス軍用機の任務別運用の曖昧さは「世界初の空中撃墜」を記録した機体が「爆撃機」ヴォワザンだったことにも現れています。任務別の飛行隊編制の検討と時を同じくして、陸軍航空隊のヴォワザン1機がドイツ陸軍のアビアチック1機を機関銃射撃によって撃墜します。1914年10月5日のことです。操縦者はジョセフ フランツ軍曹でしたが、彼の操縦する機体に機関銃が搭載されていたのは偶然ではありません。ホチキス社製機関銃がプッシャー式のヴォワザンに前方機銃として装備されているのは部隊がアンドレ ヴォワザン本人に直接要求して敵機撃墜用の特注装備として要求したからで、開戦から9月一杯まで続いた混乱期にこそ許された改造作業の結果です。

 
 フランツ軍曹の撃墜は地上から兵士たちに目撃され、敵機は友軍戦線に墜落しています。ヴォワザンからの射撃によって火災を発生し、墜落した残骸には2人の乗員が発見され、1人は残骸の下敷きになって焼け続け、1人は半焼けという凄惨な現場が報告されています。こうした光景はこれから何千回も繰り返されることになりますが、本来なら戦争の第1週に起きても別に不思議ではない事態でした。

 飛行機対飛行機の戦いがそれまでたった2ヶ月の間ではあるものの発生しなかった理由は、フランス軍の航空用機関銃が間に合わなかったこと、機関銃装備に適した機体が少なかったこと、そして戦場のフランス軍機が開戦初日にすら全戦線で141機しかなく、退却につぐ退却で可動機が激減していたことが挙げられますが、対するドイツ軍にしても、およそ空中戦には向かないタウベ機を標準機種として装備していたこと、急進撃する地上部隊に随伴するというそれだけで十分に賞賛されるべき離れ業のお蔭で補給難に陥り、フランス軍以上に活動が低下しいたことを考慮する必要があります。

 わが国の陸軍が機関銃装備のモーリスファルマン機を準備して青島要塞に立て籠もるドイツ軍が装備するタウベ機に対抗したように、飛行機対飛行機の戦闘は軍事航空が生まれた瞬間から、あるいは生まれる前から予想され準備されていた必然的なもので、開戦と空中戦の発生までの間に生じたわずかなタイムラグこそが飛行機の数と技術的事情が絡んだ偶然でしかありません。

 そしてフランス陸軍航空隊を襲った最大の災厄だった軍用機生産の停止政策は10月8日のベルナール更迭と共に本格的増産へと一転し、機体と発動機の生産実績は月ごとに増大します。
1914年 の航空機生産回復状況
10月 機体 100機 発動機 137基
11月 機体 137機 発動機 209基
12月 機体 192機 発動機 374基

 発動機生産の立ち直りが顕著ですが、機体生産の比較的ゆっくりとした回復ペースには重点機種のライセンス生産政策によって生じた混乱も影響しています。大量生産を目的とした極めて合理的な政策ですが、もともとフランスの飛行機工場は発動機に比べて小規模ですから生産転換はそれほど容易ではなく、しかも飛行機屋の社長たちは自ら戦場に飛んでしまうルイス ブレゲーや特注仕様で戦闘機を作ってしまうアンドレ ヴォワザンなど血の気の多い人物でしたから陸軍が合計2900機の戦時発注を保証して強行したライセンス生産政策で他社機の生産を請け負うことに抵抗が無い訳がありません。

 同時に発動機部門でも有望な大馬力発動機の生産拡大と旧式発動機生産の縮小停止が計画され、各社の説得材料として掲げられた3400基の大量発注と航空部隊で使用する1050台のトラックの発注(発動機製造会社の多くは自動車製造が本業であるか、多少なりとも関連があった)によって新たにイスパノスイザやプジョーも発動機生産に引き込まれます。こうしてフランス陸軍は1915年の春季攻勢計画を準備し始めます。

12月 21, 2009 · BUN · No Comments
Posted in: ドクトリン, フランス空軍, フランス空軍前史, 第一次世界大戦, 航空機生産

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