アルメデレール以前 18 (勝者、定まらず)

 西部戦線で3月21日から開始された大攻勢でドイツ軍が実施した近接航空支援はそれまでにない徹底的なものでした。27個の攻撃飛行隊が攻勢正面の前線後方15kmまでの区域に張り付きで支援を行い、その活動を35個の戦闘飛行隊が掩護していたのですが、イギリス空軍もフランス陸軍航空隊もこの航空支援作戦をまる3日の間、妨害できません。いかに機動集中が巧みであったとはいえ、圧倒的多数の兵力を持っていた訳ではないドイツ軍が緒戦で連合軍航空部隊を排除できた理由は兵力の優勢の他にいくつか挙げることができます。

 第一に前線の航空管制システムです。すでにドイツ陸軍は前年度から最前線に航空監視哨を配置して、そこからの情報で航空部隊の出撃を指令するようになっています。最前線で敵機が出現すると司令部と飛行場に連絡が入り、友軍機が戦場上空に到着するとまた連絡が入るといった仕組みに熟達していた点で、無駄な出撃や不利な出撃を減らし、攻撃機に警報を出して素早く退避させ、戦闘ごとに敵を圧倒する数の友軍戦闘機を誘導できたのです。

 この前線航空監視哨が上空を通過する友軍戦闘機隊を識別しやすいよう、ドイツ軍戦闘機隊の編隊長機は胴体を派手な原色に塗り上げています。機上無線を搭載していない戦闘機隊は隊長機の派手な塗装によって識別されていたのです。真っ赤なフォッカーDr1が率いる戦闘機隊が通過すれば、それはリヒトホーフェンが率いる集成戦闘機隊の戦場到着だと地上から判別できるという訳です。

 ドイツ戦闘機の「エース塗装」にはこうした実用面での目的があります。撃墜王は編隊を率いていますし、一旦許された以上、多少の逸脱も黙認されましたから識別効果と引き換えに迷彩効果の減じてしまった乗機の塗装を更に派手に飾り立てるのも自由でした。さほど成績の良くない乗員の機体に派手な原色塗装が見られるのも同じ理由です。初期の撃墜王だったインメルマンやベルケの機体が一般隊員と変わらないのは航空監視哨との連携体制が生まれていなかったためで、彼らが慎み深かった訳ではありません。

 一方、フランス陸軍航空隊ではこうしたシステムが確立できていませんから、当初の航空作戦は友軍の偵察機、砲戦観測機の掩護を徹底的に重視することになります。ドイツ軍が放置できない活動を行う偵察機と観測機に随伴しないと敵戦闘機を戦闘に巻き込めないからです。しかし前線の軍用機の大半はこうした偵察機と砲戦観測機で構成されていましたから、全ての活動を掩護することは最初から無理があり、しかも完全に受け身の戦いですから効率は悪く戦果も上がりませんが、それでも3月一杯は独自の制空任務を控えて掩護作戦が続きます。地上攻撃機を掩護するドイツ戦闘機の壁を即座に敗れなかった一番の理由はこうした効率の悪さでした。

 そして3月攻勢でドイツ軍歩兵部隊を痛撃したのはイギリス軍の戦闘機隊でした。ドイツ戦闘機隊が強力な援護を行っていたことでイギリス軍の爆撃機は有効な攻撃を行うことができず、その代わりに前年のカンブレ戦である程度成果を上げた戦闘機による地上銃撃が強行されたからです。その主力は機首に同調機関銃を連装で装備したソッピース キャメルで、戦闘機にとって重要な高度の優位を捨てて超低空に舞い降り、地上砲火の脅威に曝されながらもドイツ軍歩兵部隊を銃撃し続けたことでこの戦術の「正しさ」がイギリス軍に再確認されたのですが、低空銃撃はイギリス軍戦闘機隊の息の根を止めかねない損害をもたらします。ソッピース キャメルは戦闘機としては低速で乗員から「逃げ足が鈍く敵戦闘機と出会ったら必ず撃墜しなければ生きて帰れない機体」と評される今ひとつの機体でしたが、地上銃撃専用機としての活躍は無視できないものがあります。

 ドイツ軍の完全制空権は3月24日に破れ、歩兵部隊が航空攻撃を受けるようになったことで進撃は停滞し始め、イギリス軍地区での攻勢は3月28日に終息します。
 しかし、これでドイツ軍の攻勢そのものが終了した訳ではなく4月にはフランス軍地区の戦いが熱を帯びてきます。ドイツ軍の新たな攻勢に応じてフランス陸軍航空隊は4月1日から防御重視の戦術を一変させ、集中した戦闘機兵力によってフランス軍は航空優勢確立を直接めざす制空作戦を開始し、前線を飛び越えて高高度の戦闘哨戒飛行を実施しています。ドイツ軍の航空優勢を担っていたドイツ軍戦闘機隊を空中で撃滅しようと試みたのです。

 フランス軍戦闘機隊の総兵力は3月度に700機に達していましたから、200機から300機程度で戦っていた従来の航空戦と比較して戦闘機の密度が驚くほど上がっています。しかも大量の損害にもかかわらず、戦闘機隊の兵力はやがて1000機という、第二次大戦末期のアドルフ ガーランドが聞いたら泣いて悔しがるような兵力にまで増強されつつあります。それに歩調を合わせてフランス軍爆撃機部隊はドイツ軍の前線後方の目標に向けて阻止攻撃を実施し、攻勢そのものを頓挫させる作戦です。ところが、この試みは空振りに終わってしまいます。

 ドイツ軍にとって何よりも重要なのは前進する歩兵部隊上空で活動する友軍の地上攻撃機を掩護することです。地上攻撃機が敵のストロングポイントを潰し、砲兵を沈黙させて歩兵の前進を保証していたのですから当然のことでした。そのために前線後方の高空を哨戒する優勢なフランス戦闘機隊にあえて決戦を挑む必要もなければその余裕もなく、フランス軍の望んだ戦闘機隊同士の大空中戦は実現しません。またこの作戦の教訓として思い知らされたことは、高高度の戦闘哨戒は対戦闘機戦には有利だったものの、遥か低空で行動する友軍爆撃機隊を見分けられず、隙をついたドイツ軍戦闘機に襲われていても救援に向かえないという問題でした。しかもフランス軍では空地協同で実施する近接航空支援のノウハウが不足し、前線後方への阻止攻撃を主体としていたので、その爆撃効果には即効性がありません。ここで初めて実感された「後方への阻止攻撃には即効性が無い」ことも重要な教訓のひとつでした。ひと言でいえば大規模な航空攻勢に不慣れなフランス軍の失態ですが、これで西部戦線の航空戦は勝敗未決着のままさらに1ヶ月を過ごすことになります。

 けれどもフランス陸軍航空隊が航空攻勢用に集結した大部隊には400機もの爆撃機が含まれています。これらの爆撃機はちゃんと仕事をしていて、4月から5月上旬にかけて12万発の爆弾を投下しています。当時の地上攻撃用爆装はブレゲー14クラスで10kg爆弾24発ですが、塹壕への爆撃効果もさることながら、戦線後方の露出した人馬に対しての攻撃では下手な砲撃より余程効果的です。試射無しで最初から効力射に優る精度で重砲の砲弾をまとめて投下できるのですから当時の低空爆撃はまったく侮れない威力を持っています。「飛行機からの爆弾は当らない」と思っているようでは当時の歩兵中隊さえ指揮できません。そんな状況でしたからたとえ航空戦で拮抗していたとはいえ、ドイツ軍にとって4月度の第二次攻勢は容易ではなかったのです。

 両軍が膨大な航空兵力を投入した1918年の戦いはまさに航空決戦の色彩を帯びています。連合国もドイツも軍用機生産を最優先に置いて兵力拡充に努め、その全力をぶつけ合った戦いです。当時の飛行機は簡易な構造ではあったものの、単発機1機を製作して運用するために高性能発動機とプロペラ、そして訓練に手間と費用が掛かる操縦者が必要な点では第二次大戦機と本質的に変わりません。逆に生産方式が旧式な分だけ余計にコストが掛かる程です。長い戦争で疲弊しつつあったフランス、イギリス、ドイツではそれでも、戦車などは言うに及ばす、砲と砲弾生産を抑えてでも軍用機生産に注力したのです。
 1918年の航空戦はこうして準備された今までとは桁違いに規模が大きく、しかも地上戦により密接に絡んで行われる大航空戦でしたが、そんな戦いは必ずある傾向を帯びるものです。その傾向とは両軍共に驚愕するような損害の増大でした。

2月 25, 2010 · BUN · 2 Comments
Posted in: イギリス空軍, ドイツ空軍, ドクトリン, フランス空軍, フランス空軍前史, 第一次世界大戦

2 Responses

  1. bashi - 2月 28, 2010

    戦鳥でお世話になっているbashiです。
    ご無沙汰しております。

    なぜ日本陸軍が戦車ではなく航空機に重点を置いたのか、
    なぜ懐具合が寂しいにも関わらず司偵のような単用途機を
    開発したのか。
    勉強の足らない私にも少しわかったような気がします。

    しかし、第一次大戦の航空戦が第二次に見劣りしない
    熾烈なものだったということは漠然と存じていましたが
    これほどだったとは。勉強になります。

  2. BUN - 3月 1, 2010

    bashiさん

    いらっしゃいませ。
    WW1とWW2は地続きです。ソ連空軍の活動や、フランス空軍が陸軍に従属してしまった理由など、WW1を理解することで納得できるようになるはずなんです。そうした点でWW1の航空戦は大切なのだと思います。

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