即席空軍大国 6 (何よりも望まれた大馬力)
航空用発動機には1910年代でさえひとつの伝説が信じられていました。それは「高性能で精密な航空用発動機は専門メーカーでなければ製作できない」というもので「自動車用発動機は量産に優れるが低性能で、自動車工業を航空に転用することは不可能」というものです。けれどもアメリカの航空機工業がイスパノスイザ、ロールスロイスの大馬力発動機を国産化するために右往左往しているうちに陸軍によって組織されたアメリカ国内の自動車工業関連企業は信じがたい程の短期間で当時の大馬力航空発動機の技術的切り張りではあっても立派な試作機を完成させて耐久試験にも合格してしまいました。
アメリカの航空機工業各社はそれでもリバティーの量産は自分たちの業界が受注するものと確信していましたし、量産航空発動機の最終組立は自動車工業には不可能だと考えていました。それは傲慢でも何でもなく、自動車工業にはデリケートな高性能機の製造は無理だとの意見は当時の常識でした。ところが、陸軍からのリバティー量産機の発注は航空機工業界を素通りしてしまいます。8気筒バージョン、225馬力のリバティー発動機10,000台の発注内示を受けたのはフォードでした。
試作に尽力したパッカードではなくフォードが受注した理由はおそらくリバティーの大量生産技術に対するフォードの貢献が絶大だったためと考えられます。8気筒、12気筒のリバティーを何万台も量産するためにはそれよりひと桁大きい数字でシリンダーを量産しなければなりません。けれども当時のシリンダー製造法はムクの材料から切削加工で削り出すもので、困難で高くつく切削加工を大幅に伴うこの加工工程を何とかしなければいくらアメリカの自動車工業でも手に余る問題でした。この問題の解決に乗り出して来たのが当時としても相当に伝説的な存在であるヘンリー・フォードです。アメリカの自動車工業が総掛りで造る製品にヘンリー・フォードが絡まない訳がないのです。
軍の依頼によってフォードが自社のエンジニアに命じてわずか3週間で提示したシリンダー製造法は管状の鋼材を輪切りにして仕上げるもので、従来の加工法では140ポンドの鋼材から7ポンドのシリンダーを削り出し、材料の95%を切り粉にしてしまう加工法とは天と地ほど異なります。このあたりが航空機工業と自動車工業の発想の差で、それが第一次世界大戦中から歴然とあったということです。フォード方式のシリンダーはそれまで一日で150個程度の製造が限界だったものを一気に2000個に引き上げることができたのですからリバティーの大量生産はフォード無しでは考えられません。
しかしフォードへの発注内示はすぐ訂正されます。前線からの要求はもう8気筒225馬力バージョンでは対応できず、更なる馬力強化が強く望まれた結果、生産は12気筒330馬力を中心に再検討され、その発注総数も22,500台に引き上げられます。発注先は次のようなものに変更されます。
パッカード 6,000
リンカーン 6,000
フォード 5,000
ノーダイク&マーモン 3,000
ジェネラルモーターズ 2,000
トリゴ 500
こうしてリバティーの量産が開始されますが、前線からの馬力増大要求はこれだけでは終わりません。12気筒330馬力の量産が開始され300台ほど完成した時点で早くも375馬力版への変更が決定され、さらに400馬力版へと変更されます。これは単なる設計変更では済まないもので、各部の補強と再設計を必要とし、治具、工具も新たに用意しなければなりません。当然、量産は大幅に遅れます。
軍のたび重なる性能向上要求に伴う設計変更が量産を遅らせ、開発と製造が重なり合う中で製造現場を混乱に陥れる・・という事態が量産航空発動機の伝説とも言えるリバティーでも発生しているのです。こんな話は日本海軍と「誉」発動機の開発と生産などが語られる際に決まって批判的に持ち出されますが、海外ではどうだったか、歴史的にはどうだったのかを振り返ることもないまま頭から否定的な態度で語る執筆者はもう少し落ち着いて、戦時の発動機生産とはどんなものなのか、を考え直した方が良いでしょう。
12気筒版リバティー(2000馬力「誉」)より量産が容易で信頼性の高い8気筒版リバティー(1500馬力「金星」)を量産すれば良かった、といった外野からの議論は実はアメリカにも昔から存在します。しかし、その結論も遠い昔から存在しています。航空戦の勝利は大馬力発動機無くしては望めず、妥協的性能の発動機を製造することは軍だけでなく愛国的な各製造会社さえも望まなかったのです。
相次ぐ設計変更に苦しみながら1917年12月に22台の量産機を送り出したリバティーの生産は段々と数字を伸ばし始め、1918年5月には620台、6月には1102台、7月には1589台、8月には2302台、9月には2297台、10月には3878台と拡大し、11月の終戦までに15,572台を完成、最終的には20,478台が完成します。その馬力合計は800万馬力に達し、1919年度計画では12気筒56,000台、8気筒8,000台の計画が立てられていますから、1919年まで戦いが続いていたら連合軍の中型機以上の標準発動機として圧倒的な存在となっていたことは疑えません。一日あたり10台完成といった生産ペースのロールスロイスに比べてリバティーはその15倍の150台を生産し、1919年度には200台に達することが確実でした。
リバティーは5,523台が軍用機メーカーに納入されて量産機に搭載され、4,511台が直接フランスのアメリカ遠征軍のもとへ送られ、3,742台がアメリカ海軍に、1,089台が連合軍に、907台が練習航空隊に送られています。これが構想からたった1年数ヶ月の間に達成された高性能航空発動機の納入実績ですから驚くほかありません。
次回はこのハイパワーエンジンがどんな飛行機に使われたかを追いかけてみます。
8月 16, 2009
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Posted in: アメリカ陸軍航空隊, 即席空軍大国, 発動機, 航空機生産
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