爆撃作戦としての「ゲルニカ」

 世の中、天才画家といえばピカソ、ピカソといえば「ゲルニカ」。「ゲルニカ」といえば無差別戦略爆撃です。今回はゲルニカについての無駄話をしたいと思います。
 コンドル軍団のユンカース爆撃機が人口約5000人のスペインの田舎町ゲルニカを絨毯爆撃して住民1654人を殺し、889人を負傷させた爆撃作戦として悪名高きゲルニカ爆撃です。このような一般市民を対象としたテロ爆撃がやがて第二次世界大戦中の大規模無差別爆撃や原子爆弾投下にエスカレートして行ったのだとも言われます。なんだか悪の原点みたいな雰囲気です。

 けれどもスペイン内戦の航空戦全般から眺めるゲルニカ爆撃は別の顔を持っています。今まで繰り返し紹介して来ましたが、1920年代から1930年代は戦略爆撃理論が最も力を持った時代です。イギリスやアメリカといった大国だけでなくポーランドのような小国空軍でさえ戦略爆撃を重視したこの時代に発生した航空戦に戦略爆撃が絡まない訳がありません。スペイン内戦も例外ではなく、内戦勃発後の共和国側空軍もフランコ派の空軍も同じような発想で航空戦を戦い始めます。

 ドーウェはもちろん他の戦略爆撃論でも開戦劈頭に敵の主要都市を壊滅させて敵国民の士気を崩壊させることが重要視されていますから、スペイン内戦初期の航空戦はフランコ派のみでなく、共和国側も敵支配地域の主要都市に対する爆撃作戦を展開しています。内戦初期の諸都市には市民の殺傷を目的とした空襲が行われ両軍の爆弾の雨が降ったのです。1936年8月からフランコ派空軍によってマラガ、バダホスが爆撃され、共和国空軍も負けずにセビリヤ、サラゴサ、コルドバ、オビエドを市民の殺傷による士気崩壊を目的に爆撃します。

 ところが両軍による戦略爆撃はじきに下火になってしまいます。爆撃機部隊の規模が小さく、殺傷される市民もわずかな数で、物質的損害も小さなものでしかなく、敵対勢力の支持者の士気が崩壊するどころかその敵愾心をより激しく煽る結果となったからです。また一時期マドリードに迫ったフランコ派は市民の士気崩壊を目的に爆撃を実施しますが、この時の爆撃は完全な無差別爆撃ではなく、安全地帯を設けた限定的な作戦となっています。スペイン内戦の爆撃作戦全般を通じて共和国側よりもフランコ派の方が市民の殺傷に関しては抑制されている点は見逃せません。これは単なる偶然ではなく、ドイツ空軍、すなわちコンドル軍団の作戦方針でもあります。

 内戦という性格上、徹底的な爆撃によって破壊されるのは敵国ではなく自国の都市や工業ですから、全てを破壊し尽くしては元も子もないことはフランコにも十分理解できていましたし、ドイツ空軍もまた同じ発想でした。そのために兵器産業やその他の工業の中枢に対する爆撃は控えられ、その代わりにそれらの機能を麻痺させるための鉄道拠点、交通の要衝、港湾施設への爆撃が行われています。フランコもドイツ空軍もこの戦争がどのような性格のものであるかを考慮して作戦していたのですが、そのフランコ派も一枚岩ではありません。フランコ派の空軍の中で一大勢力を誇ったイタリア空軍は戦略爆撃論の本家本元であるドーウェの母国でもあり、独自にドーウェ主義に基づいた爆撃作戦を実施してはフランコとドイツ空軍の不信を買い続けています。

 それでもイタリア空軍のドーウェ主義はスペイン内戦中、ずっと貫かれ、1938年3月16日から3日間に及んだバルセロナ爆撃では一般市民、1300人が死亡、2000人以上が負傷しています。しかしこれだけの損害を与えたにもかかわらず敵側の士気は衰えることなく、逆に国際的な非難ばかりが強まるという結果に終わり、イタリア空軍のドーウェ主義的航空戦は行き詰まってしまいます。

 ドーウェの母国が派遣した空軍のそんな様子を醒めた眼で眺めていたのがコンドル軍団のドイツ空軍将校達でした。それまで戦略爆撃理論の先輩として多少なりとも尊敬の念をもって接していたイタリア空軍が、実際に肩を並べて戦ってみると作戦的にほぼ無能であったという事実は相当なショックであったようです。イタリア空軍の行動を観察しながら、敵国民の士気崩壊という戦略爆撃の効果は相当な規模の爆撃を必要とし、加えて有利な政治的情勢に恵まれないと難しいと考え始めたのです。スペイン内戦での経験はドイツ空軍を戦略爆撃論の世界的大流行から遠ざける働きをしたとも言えます。

 さて、話はゲルニカに戻ります。ゲルニカは戦線の少し後方にある交通の要衝です。市民の殺傷で士気崩壊を狙う作戦が失敗した後、その代案として輸送網への爆撃作戦が実施された訳ですが、こうした戦線後方の輸送網破壊作戦の一部としてゲルニカは爆撃されたのです。そして一般市民に死傷者が多数出たことにもドイツ空軍なりの理由があります。

 それは当時の爆撃機が輸送機改造のJu52爆撃機だったことで、優秀な爆撃照準器を装備していない応急爆撃機ではゲルニカの橋梁などへの精密爆撃が実施できず、そのために市街地を破壊して交通を麻痺させるという手段が選ばれたからです。橋梁などへの精密爆撃が実施できるようになるのはHe111やDo17が本格的に活動し始める1938年以降です。

 その結果、ゲルニカ経由の交通は麻痺して爆撃の目的は達せられましたし、爆弾を頭の上から落とされた方はたまったものではありませんが、このような爆撃作戦はあくまで軍事目標への爆撃と意識され、一般市民の殺傷は主目的ではありませんから、爆撃指揮官はそれを気にすることはありません。ドイツ空軍側に「ゲルニカ」に対する自覚が無い理由の一つはこれです。

 さらにもう一つドイツ空軍側に「ゲルニカをやった」意識が無い理由がその損害規模です。実際の死傷者は300人前後でしかなかったからです。バスク政府が空襲直後に発表した数字を鵜呑みにしたイギリスやアメリカの新聞報道で広まった死者1654人、負傷者889人ではなく、死傷者300人です。42機という空襲規模からは妥当な数字だといえます。

 そうはいっても、たとえ300人でも母国の同胞が傷つき亡くなったのですからピカソがゲルニカを題材に難解な大作を描いたとしても、それをナイーブなお調子者とか、題材は「バルセロナ」でも共和国空軍による「サラゴサ」や「コルドバ」でもいいはずだとか、歴史を歪める実体のない政治宣伝だと責めるのも如何なものでしょう。芸術家や音楽家が突然政治的主張を始めたら眉に唾をつける義務は我々にあるのですから。天才画家ピカソの怒りは8分の1程度正しいとしておきましょう。

2月 11, 2009 · BUN · 5 Comments
Posted in: ドイツ空軍

5 Responses

  1. ピースキーパー - 2月 13, 2009

    面白い物を読ませていただいています。
    私のブログでここを紹介しても良いでしょうか?

  2. BUN - 2月 14, 2009

    ピースキーパーさん
    ありがとうございます。
    どうぞご紹介願います。

  3. ねこ800 - 2月 14, 2009

    ゲルニカのイメージは東京大空襲と同様の規模かと思ってましたが、実相はずいぶん違うのですね。

    もっとも当時のヒトにとっては非常に衝撃的な出来事だったのでしょうね。

  4. BUN - 2月 15, 2009

    ねこ800さん
     そうですね。無差別爆撃の原点だとこじつけるような適当な論調が長く力を持っていたことと、ピカソの威光でそう思えてしまうんですが、ちょっと違うようです。
     この時代、欧米でも日本でも主要都市を空襲されれば国民士気は崩壊し、戦争継続が困難になるとの予測が一般的だったにもかかわらず、共和国側とフランコ派の両方が戦略爆撃を試みても士気崩壊どころかちっとも効果が上がらない、という新たな現実に双方とも困惑しているのがスペイン内戦です。

  5. Tweets that mention いろいろクドい話 » 爆撃作戦としての「ゲルニカ」 -- Topsy.com - 9月 10, 2010

    […] This post was mentioned on Twitter by 亭主関白君 (the boss boy), yakohsei, 桃山, Rik, Rik and others. Rik said: RT @obiekt_JP: と思ったが、私が語るより上手く纏まってる記事があったので参照してくれ。⇒■爆 […]

Leave a Reply